第97話:神宮寺麻里
盛岡駅のコンコースは、昼下がりの光で満たされていた。
長い視察の二日間を終えた私たちは、少し疲れた顔で改札口に並んでいる。
直也、保奈美ちゃん、亜紀、玲奈、莉子、高田さん、そして私。
このメンバーで東京へ戻る。
慎一さんと直美さんは、またすぐにこちらと東京を往復する予定だけれど――
千鶴さんと大地くんは、当然ながら松川で生活を続ける。
これから千鶴さんは加納屋再建に向けてやることがいっぱいだ。
加納屋は、これから五井物産グループOB福利厚生施設+転地療養拠点になるのだ。
「パパ、今度はいつ来るの?」
大地くんが、少し潤んだ瞳で直也を見上げた。
「また来るよ」
直也は笑って頭を撫でたけれど、その横顔にはわずかに影が差していた。
――「また来る」。
その言葉の重みを、彼自身が一番よく知っている。
頻繁に往復できる立場ではないことも、本社の仕事が彼を離さないことも。
それに――。
今回の一件は否応なく直也をメガソーラー推進派の「敵」にしてしまった。
相手に痛恨の一撃を加えた当事者として内外からの牙が直也を狙う可能性が高い。
もちろん直也がそんな下劣な相手に負けるとは思わない。
でも彼の多くの貴重な時間を蝕む可能性は高い。
だから本当に大切な事に、その分時間が費やせなくなるのだ。
でも、その事に対する憤りは、今の私から薄れてしまった。
莉子の歌がまだ私の中に残っている。
「♪もしも君が彼らの言葉に嘆いたとして それはつまらないことだよ なみだを流すまでもない筈 何故ならいつも 言葉はウソを孕んでいる」
改札の外で、千鶴さんはいつもの穏やかな笑みを浮かべ、静かに言った。
「東京でも、お身体に気をつけてくださいね。加納屋については、私たちに任せて」
「……ありがとうございます」
直也が深々と頭を下げた。
それだけで、もう何も言葉を交わせなくなる。
直也の隣で保奈美ちゃんが微笑んでいた。
直也が頭を下げると、それに合わせてキレイに一礼している。
――そして、直也を見上げるその表情はいつものように柔らかく輝いていた。
プラットホームまでの短い距離を歩く。
冬の盛岡の空は、どこまでも高く澄んでいた。
冷たい風の向こうで、岩手山がうっすらと白く光って見える。
前日のあの大雪がウソのように今日は晴れわたっている。
その景色に、私たちはついさっき見ていた雪原――松尾鉱山宿舎跡地を重ねていた。
莉子がギターを抱えて歌ったあの光景。
あの声がまだ胸の奥で響いている。
「♪僕らが手にしている 富は見えないよ」
――あの瞬間、確かに何かが浄化されたような気がする。
前日の会議が吐き出していた毒も、あるいは誰か別の人への嫉妬も、
そして自分自身への苛立ちも。
私たちは皆、あの歌によって“赦された”のだと思う。
莉子が示したのは、形ではない“富”――心の在り処だった。
「……麻里、また一緒に現地行きたいね」
玲奈が微笑む。
「もちろん。次は、もっと暖かくなってからね」
私も笑い返した。
そのやりとりを見ていた亜紀が、苦笑いを浮かべて言う。
「強烈だったね。あんな場所、絶対東京近郊じゃ味わえないもの」
保奈美が小さな声で呟いた。
「今度……フェスでまた、あの歌が響くといいな」
全員が自然に頷いた。
まるで合図をしたように、視線が交わる。
――あの雪の廃墟で歌われた「ありあまる富」。
夏になれば、緑の風の中で再び響くのだろう。
そのとき、私たちが見ている“富”は、もう過去のそれとは違っている。
直也が最後に振り返り、千鶴さんと大地くんに手を振った。
「また来ます」
その声が、構内のアナウンスにかき消される。
私たちはそれぞれの思いを胸に、改札をくぐった。
東京への帰路――。
けれど、不思議と誰も疲れを口にしなかった。
直也はまた普段のようにノートPCを広げて仕事に集中し始めた。
その隣で保奈美ちゃんは時折直也の様子を見ながら微笑んでいる。
亜紀と玲奈は今後のプロジェクトの進め方を早速議論している。
莉子は高田さんと明日からのスケジュールを確認している。
私にとって大切な人たちを今しばらく見ていたかった。
――私には富があふれている。
新幹線が動き出す。
雪の大地が後ろへ流れ、やがて見えなくなる。
その向こうに、夏のフェスの光景が浮かんでいた。
莉子の歌声。
松尾鉱山宿舎跡地の風。
そして、あの言葉――。
「ほらね 君には富があふれている」
そのフレーズが、まるで未来への約束のように、
車窓に揺れる雪明かりの中で、静かに輝いていた。