第94話:佐川直美
車を走らせながら、私は後部座席の二人にちらりと目をやった。
亜紀さんと玲奈さん。
……さっき聞いてしまった千鶴姐さんと直也くんとのやり取りが、頭から離れない。
「真面目なだけでは絶対にもたないわ。たまには吐き出さないと。……でもそういう時は……こっそり『加納屋』にいらしてくださいね」
「それとも、こんなシングルマザーな女将は全く興味がないのでかしら?」
(……聞いちゃったのよね、千鶴姐さんと直也くんのやり取りを)
悪魔の尻尾が生えた気がした。
にやにや笑いを隠しきれず、わざとらしく咳払いする。
「……あのですね、亜紀さん、玲奈さん。実はさっき、とんでもない現場を見ちゃいまして」
二人が同時にこちらを振り返る。
「何それ?」
「どういうこと?」
私はわざと声を潜め、芝居がかった調子で切り出した。
「直也くんと千鶴姐さん……いやぁ、もうね、完全に昨夜の“デュエットの続き”をやっていましたよ」
「なん……だと……!」
亜紀さんの目が見開かれる。
「昨日のカラオケで抱き寄せられてたのは演技じゃなかったのね……」
玲奈さんが低い声を漏らす。
私はさらに尾ひれをつけて囁く。
「千鶴姐さん、言ってましたよ。“私に欲望を全部吐き出しなさい♡”って」
「……!」
二人の顔が一気に真っ赤になった。
「千鶴さん……いい人だと思ったのに! 本音だったってことね!」
亜紀さんは怒りに震え、拳を握る。
「エロ女将め……もう絶対に直也を単身出張させませんよ! “欲望処理担当”とか言い出したら、ガルルルル……!」
玲奈さんは犬歯を剥き出しにしたかのように唸る。
(……ふふっ、面白すぎるわ)
バックミラー越しに二人の顔を見て、私はこっそりニヤリと笑った。
悪魔の尻尾を、ぶんぶん振り回すみたいに。
最初の目的地は、青沼キャンプ場跡地だった。
すでに正式には閉鎖されて久しいが、草原が広がるその場所は、まだ十分に使えそうな開放感を持っていた。
車を降りると、ひんやりとした風と、青沼を囲む森の緑の匂いが漂ってくる。仮に夏に開催されるなら、草原の草花が朝日に揺れている光景は確かに絵になるだろう。
「……いいじゃない、ここ」
千鶴姐さんがすぐに呟いた。旅館業に長く携わっているせいか、温泉街との動線を瞬時に描いているのだろう。
「松川温泉から車で十分足らず。フェスで遊んで、夜は温泉宿泊……最高の流れじゃない」
「確かにね」
麻里さんも頷く。腕を組みながら周囲を眺め、ビジネス目線で即座にメリットを拾い上げていた。
「安比高原スキー場のような大箱との差別化になる。“自然と調和する中規模フェス”って、ブランド化にはちょうどいい」
「インスタ映えも完璧だよね!」
すかさず玲奈さんが声を弾ませる。
「湖畔キャンプ、テントにライトアップ、森と星空! 絶対SNSでバズる」
「それに温泉だもの」
亜紀さんも負けじと笑う。
「フェスで汗かいて、すぐに温泉に入れるとか……正直、女子的には点数高すぎる」
(あーあ、この二人は完全に“映え脳”だわね)
私は内心でくすりと笑った。こういう時の玲奈さんと亜紀さんは、まるで高校生みたいで、見ていて飽きない。
けれど――。
「でも……」
保奈美ちゃんが小さな声で口を開いた。
「自然を壊しちゃダメだと思います。湖も森も湿原も……ちゃんとルールを作らないと。エコフェスなのに全然エコじゃなくなっちゃう」
その真剣な眼差しに、一瞬場の空気が和らいだ。
(やっぱりこの子……直也と一緒にいる時間が長いせいか、時々すごく“大人”なことを言うのよね)
そこで直也くんが口を開いた。
「……オレもそう思う。規模は考えなきゃいけないな。数万人規模の大フェスには向かない。せいぜい一千から三千人くらいだろう」
彼は地面を見ながら、慎重に言葉を選んでいた。
「だからこそ、仮にここで実施するなら、小さな“プレフェス”から始めて、ブランドを育てていくという位置づけで用いるのが現実的だね」
その言葉に、全員が頷いた。
千鶴姐さんも「確かに、いきなり大規模じゃリスクが大きすぎるものね」と賛同する。
亜紀さんと玲奈さんは千鶴姐さんに「ガルルルル」と唸っているのが笑える。
私は草原を眺めながら、口元に小さな笑みを浮かべた。
(なるほどね……直也くんはもう、ここを“どう使うか”じゃなく、“どう育てるか”で考えてるわけだ)
……やっぱり、この人は“普通の総合商社マン”じゃない。
だからこそ――保奈美ちゃんも俯瞰的に物事を見れるようになるんだな。
そして、私の尻尾がうずく。
青沼キャンプ場跡地の静けさの中で、次の展開を予感していた。