第5話:加納千鶴
東京から来たらしい若い男性――最初は記者さんだと思った。
でも、よくある地方紙の取材者とは違う。視線が鋭い。質問が的確で、耳を傾ける姿勢にも妙な誠実さがあった。
だから、つい口が滑ってしまった。
「……『シニアタウン岩手山』ですか? 正直、ひどいものですよ」
言葉に苦味が混じる。
駐車場へ向かいながら、私は吐き出すように続けた。
「職員は常に不足しています。待遇は安いのに責任だけは重い。離職率は高く、入っても半年ともたない。結局、残るのは地元の腰掛けか、他に選択肢がない人ばかりです」
男性は黙って頷きながら聞いている。その沈黙が、逆に私の背中を押した。
「入居できるのは、伊東注グループのOBとか、首都圏から来た資産家ばかり。地元の普通のお年寄りには、到底手が届かない。最初は“誰もが安心して老後を迎えられる街”ってうたってましたけど、蓋を開けたら“金持ち専用の箱庭”ですよ」
言葉を切ると、冷たい風が頬を撫でた。
自分でも声が震えているのが分かる。悔しさと無力感がないまぜになった震えだ。
「……私の実家は松川で温泉旅館をやってました。代々続いた宿でしたけど、不景気と人手不足で、もう続けられなかった。私も女将として板場と帳場を切り盛りしましたけど……限界でした」
足を止め、振り返って男性を見た。
「だから、こうして介護士として働いてます。でも……この街は、何かを間違えてる。豪華な施設なんていらない。必要なのは、みんなが安心して暮らせる仕組みのはずなのに」
彼は真剣な顔で頷きながら、それでも静かに私の言葉を受け止めていた。
駐車場に着いたとき、ふと口をついた。
「……そういえば、記者さんのお名前は?」
男性は一瞬、苦笑して頭をかいた。
「すみません。いろいろお聞きしたのに、名乗るのが遅れて」
懐から名刺を取り出し、私に差し出す。
「一ノ瀬直也と申します。実は記者ではなくて、商社マンなんです」
その一言に、私は思わず目を見張った。
「え? では……あの、伊東注の方?」
思わず気まずそうに尋ねてしまった。
だが彼はすぐに苦笑して、静かに首を振った。
差し出された名刺を受け取り、目を落とす。
――五井物産。
日本で一番大きな総合商社。その名を知らぬ者はいない。
私は思わず息をのんだ。
「……そんなエリートの方が、どうしてこんな所に?」
彼――一ノ瀬直也さんは、柔らかな口調で答えた。
「八幡平周辺の温泉街の実情を、一度お忍びで見てみたいと思ったんです。結局、聞くと見るとは大違いですからね」
そして少し声を落とした。
「総合商社が肝いりで開始したシニアタウンプロジェクトの実態が、先ほどお聞きしたようなものだとしたら……。ウチが仮に何を提案したところで、なかなか聞いて頂けないと理解できました」
私はしばし言葉を失った。
――ただの視察じゃない。この人は、本気で何かを変えようとしている。そう思えた。
だからこそ、つい口をついて出た。
「……今日、どこかにお泊りのご予定は?」
直也さんは少し照れたように笑った。
「いえ、全然予約とかしていなくて。いざとなったら盛岡で探そうと思っていました」
私は心の奥が不意に熱くなるのを感じた。
誠実そうで、どこか孤独な眼差しのこの人と、もう少し話してみたい。
それに――閉めてしまった実家の旅館を、久しぶりに人に開いてみるのも悪くない。
「……もしよければ、ウチに来ませんか?」
自分でも驚くほど自然に、言葉が出ていた。
「まだ旅館としての施設はそのままありますし、部屋も布団も残っています。お料理くらいは頑張って用意できますから」
直也さんの目が一瞬、大きく見開かれた。
それから、静かに頷いた。
「……それでは、お言葉に甘えて」
気づけば私は、少し弾んだ声で言っていた。
「じゃあ、こちらへどうぞ」
駐車場に停めてあった自分の車に、彼を案内した。
エンジンをかけると、夕暮れの道に車が滑り出す。
山道を抜けると、懐かしい木の看板が目に入った。
「加納屋」。
もう灯りはともっていない。けれど、私の心に刻まれた家の名だ。
玄関先に車を停めて、ドアを開ける。
「どうぞ」
直也さんを案内しながら、私は少し胸が詰まった。
――廃業したとはいえ、まだ家は生きている。
父も母も実家では健在なので、休日になると一緒に掃除をしてきた。
障子の紙も張り替え、畳も日に当てる。
温泉も細々と湯を張り、清掃は欠かさない。
館内にはまだ息づかいが残っている。
「……思っていたよりも、ずっと立派ですね」
直也さんが廊下を見渡して感嘆の声を漏らす。
私は少し照れながらも微笑んだ。
「ありがとうございます。もったいないって、よく言われるんです。でも人手が足りなくて……」
その時だった。
「ママー!」
奥から小さな足音が駆けてきた。息子の大地だ。小学二年生、まだ甘えん坊の年頃だ。
「今日はね、お客さんがいるのよ」
私が言うと、大地はきょとんとした目で直也さんを見上げた。
知らない大人を前に、最初は恥ずかしそうに母の後ろに隠れる。
直也さんはしゃがみ込み、優しそうな笑顔で手を差し伸べた。
「はじめまして、大地くん。お母さんの家にお世話になります。一ノ瀬直也といいます」
その声は落ち着いていて、どこか温かかった。
大地の小さな肩の緊張がすっと解けていくのがわかる。
「……こんにちは」
恥ずかしそうに、小さな声で返事をして、次の瞬間にはにかんだ顔を見せた。
――ああ、この人は子どもの心を自然に掴める人なんだ。
私はそんな光景を見つめながら、不思議な安心感に包まれていた。