表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/108

第5話:加納千鶴

 東京から来たらしい若い男性――最初は記者さんだと思った。

 でも、よくある地方紙の取材者とは違う。視線が鋭い。質問が的確で、耳を傾ける姿勢にも妙な誠実さがあった。


 だから、つい口が滑ってしまった。

 「……『シニアタウン岩手山』ですか? 正直、ひどいものですよ」


 言葉に苦味が混じる。

 駐車場へ向かいながら、私は吐き出すように続けた。


 「職員は常に不足しています。待遇は安いのに責任だけは重い。離職率は高く、入っても半年ともたない。結局、残るのは地元の腰掛けか、他に選択肢がない人ばかりです」


 男性は黙って頷きながら聞いている。その沈黙が、逆に私の背中を押した。


 「入居できるのは、伊東注グループのOBとか、首都圏から来た資産家ばかり。地元の普通のお年寄りには、到底手が届かない。最初は“誰もが安心して老後を迎えられる街”ってうたってましたけど、蓋を開けたら“金持ち専用の箱庭”ですよ」


 言葉を切ると、冷たい風が頬を撫でた。

 自分でも声が震えているのが分かる。悔しさと無力感がないまぜになった震えだ。


 「……私の実家は松川で温泉旅館をやってました。代々続いた宿でしたけど、不景気と人手不足で、もう続けられなかった。私も女将として板場と帳場を切り盛りしましたけど……限界でした」


 足を止め、振り返って男性を見た。

 「だから、こうして介護士として働いてます。でも……この街は、何かを間違えてる。豪華な施設なんていらない。必要なのは、みんなが安心して暮らせる仕組みのはずなのに」


 彼は真剣な顔で頷きながら、それでも静かに私の言葉を受け止めていた。


 駐車場に着いたとき、ふと口をついた。

 「……そういえば、記者さんのお名前は?」


 男性は一瞬、苦笑して頭をかいた。

 「すみません。いろいろお聞きしたのに、名乗るのが遅れて」


 懐から名刺を取り出し、私に差し出す。

 「一ノ瀬直也と申します。実は記者ではなくて、商社マンなんです」


 その一言に、私は思わず目を見張った。


 「え? では……あの、伊東注の方?」

 思わず気まずそうに尋ねてしまった。


 だが彼はすぐに苦笑して、静かに首を振った。

 差し出された名刺を受け取り、目を落とす。


 ――五井物産。

 日本で一番大きな総合商社。その名を知らぬ者はいない。


 私は思わず息をのんだ。

 「……そんなエリートの方が、どうしてこんな所に?」


 彼――一ノ瀬直也さんは、柔らかな口調で答えた。

 「八幡平周辺の温泉街の実情を、一度お忍びで見てみたいと思ったんです。結局、聞くと見るとは大違いですからね」


 そして少し声を落とした。

 「総合商社が肝いりで開始したシニアタウンプロジェクトの実態が、先ほどお聞きしたようなものだとしたら……。ウチが仮に何を提案したところで、なかなか聞いて頂けないと理解できました」


 私はしばし言葉を失った。

 ――ただの視察じゃない。この人は、本気で何かを変えようとしている。そう思えた。


 だからこそ、つい口をついて出た。

 「……今日、どこかにお泊りのご予定は?」


 直也さんは少し照れたように笑った。

 「いえ、全然予約とかしていなくて。いざとなったら盛岡で探そうと思っていました」


 私は心の奥が不意に熱くなるのを感じた。

 誠実そうで、どこか孤独な眼差しのこの人と、もう少し話してみたい。

 それに――閉めてしまった実家の旅館を、久しぶりに人に開いてみるのも悪くない。


 「……もしよければ、ウチに来ませんか?」

 自分でも驚くほど自然に、言葉が出ていた。

 「まだ旅館としての施設はそのままありますし、部屋も布団も残っています。お料理くらいは頑張って用意できますから」


 直也さんの目が一瞬、大きく見開かれた。

 それから、静かに頷いた。

 「……それでは、お言葉に甘えて」


 気づけば私は、少し弾んだ声で言っていた。

 「じゃあ、こちらへどうぞ」


 駐車場に停めてあった自分の車に、彼を案内した。

 エンジンをかけると、夕暮れの道に車が滑り出す。


 山道を抜けると、懐かしい木の看板が目に入った。

 「加納屋」。

 もう灯りはともっていない。けれど、私の心に刻まれた家の名だ。


 玄関先に車を停めて、ドアを開ける。

 「どうぞ」

 直也さんを案内しながら、私は少し胸が詰まった。


 ――廃業したとはいえ、まだ家は生きている。

 父も母も実家では健在なので、休日になると一緒に掃除をしてきた。

 障子の紙も張り替え、畳も日に当てる。

 温泉も細々と湯を張り、清掃は欠かさない。

館内にはまだ息づかいが残っている。


 「……思っていたよりも、ずっと立派ですね」

 直也さんが廊下を見渡して感嘆の声を漏らす。

 私は少し照れながらも微笑んだ。

 「ありがとうございます。もったいないって、よく言われるんです。でも人手が足りなくて……」


 その時だった。

 「ママー!」

 奥から小さな足音が駆けてきた。息子の大地だ。小学二年生、まだ甘えん坊の年頃だ。


 「今日はね、お客さんがいるのよ」

 私が言うと、大地はきょとんとした目で直也さんを見上げた。

 知らない大人を前に、最初は恥ずかしそうに母の後ろに隠れる。


 直也さんはしゃがみ込み、優しそうな笑顔で手を差し伸べた。

 「はじめまして、大地くん。お母さんの家にお世話になります。一ノ瀬直也といいます」


 その声は落ち着いていて、どこか温かかった。

 大地の小さな肩の緊張がすっと解けていくのがわかる。

 「……こんにちは」

 恥ずかしそうに、小さな声で返事をして、次の瞬間にはにかんだ顔を見せた。


 ――ああ、この人は子どもの心を自然に掴める人なんだ。

 私はそんな光景を見つめながら、不思議な安心感に包まれていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ