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第9話 怪物(イルマ・タイヴァーリ)

 トゥルークの街を活気が満たしていた。カーレリア王国の建国を祝う祭りが開催されるのだ。街は色とりどりの旗や装飾で彩られ、露店が立ち並び、そこら中に祝祭の香りが漂っていた。子供たちは歓声を上げて走り回り、大人たちも普段の仕事を忘れて浮かれている。荘厳な城壁に囲まれた街は、今日ばかりは戦いの最前線という緊張感から解放されていた。


 リーゼたち四人は、そんな賑わいの中を歩いていた。


「すごい人だね」


 リーゼがぽつりと呟く。彼女の表情は曇っている。それを見かねたように、ウェデリアが明るく声を上げる。


「建国祭は毎年こんな感じよ。特に今年は例年より盛大みたい。ほら見て、あっちの店では焼き菓子を売ってるわ。一緒に食べましょう!」


 そう言って、ウェデリアはリーゼの手を引っ張る。その様子を見ながら、ラースとルーカスは少し後ろをついていく。


「リーゼの調子、どうだ?」


 ラースの問いかけに、ルーカスは眉をひそめる。


「正直、良くありませんね。昨夜もあまり眠れていないようでしたし……」


 二人の視線の先で、ウェデリアが焼き菓子を買い、リーゼに手渡している。リーゼはそれを受け取り、微かに笑みを浮かべた。ラースはその光景を見て、ほっと息をつく。


「ウェデリアがいてくれて良かったな」

「ええ、本当に」


 四人は様々な店を眺めながら街を散策する。称められた建国の歴史、カーレリアの栄光の歴史を語る芝居が行われ、食べ物の匂いが通りを満たす。人々は飲み、笑い、そして未来に思いを馳せる。しかし、リーゼの目は虚ろだった。


 やがて正午を告げる鐘の音が街中に響き渡る。それを合図に、人々は歓声を上げ、空を見上げた。城壁に並べられた大砲から、祝砲が轟々と鳴り響く。白い煙が空へと昇り、青空に溶けてゆく。


 ウェデリアが笑顔で言う。


「ほら、始まったよ。毎年のお決まりの祝砲ね」


 リーゼも空を見上げる。しかし、その瞳に映るのは、自分が失ったものへの後悔だけだった。



 * * *



 祝砲の轟音が響き渡り、白煙が青空に溶けていく。城壁の見張り台では、若い兵士のエリクが祝砲を見上げる街の人々を眺めていた。大勢の人が一斉に空を見上げてる光景は、圧巻だった。


「そろそろ交代の時間ですかね」


 エリクは、同じように見張り台に立つグンナーへと声をかける。彼はエリクより一回り程度年配の兵士だった。


「ああ、そうだな」


 眉をひそめたまま、グンナーは答える。任務の時間が終わり、緊張が緩むはずの時間帯に、グンナーは何か胸の奥にざわめくような違和感で、その場を動けずにいた。溶けて薄くなった煙が風に流され、グンナーの鼻腔をくすぐる。


「なんだ、この匂いは……」


 祝砲の硝煙に混じって、何か甘ったるい、腐った果実のような異臭が漂ってきた。死肉に群がる蠅を思わせる、吐き気を催すような悪臭。


「グンナーさん、どうしました?」


 エリクが首を傾げる。彼にはその異臭が感じ取れないようだった。グンナーは手で鼻を覆いながら再び空を、街の外を見上げる。


 次の瞬間、グンナーの血の気が引いた。


 煙の向こうに、黒い影が群れをなしてうごめいていた。それは最初、鳥の群れかと思えた。だが違う。空を舞う無数の細長い影は、まるで蛇のようにくねりながら飛行している。それらは祝砲の煙に引き寄せられるように、風に逆らって徐々に街へと近づいてきていた。


「エリク、あれを見ろ!」


 グンナーが指差す方向を見て、エリクも息を呑んだ。


「馬鹿な……まさか……」


 グンナーの喉が渇く。震える手で腰の望遠鏡を取り、群れに焦点を合わせる。レンズ越しに映る光景を目にして、彼の顔から完全に血の気が失せた。


 細長い胴体に不釣り合いなほど大きな翼。開いた口から滴る緑色の液体。間違いない。


「シーヴィ・ケイルメの群れだ!」


 グンナーの絞り出すような叫び声が、祭りの喧騒を切り裂く。エリクは青ざめながらも、素早く警鐘の縄に飛びつくように手を伸ばした。


 ガランガランガラン——。


 不吉な警鐘が街中に響き渡る。祭りを楽しんでいた人々の笑い声が、一瞬にして困惑の声に変わった。街の人々からはまだ何の異常も見えない。しかし、北門の大砲陣地では、砲手たちが慌ただしく動き回っていた。祝砲用の空砲を取り出し、実弾への装填を急ぐ。金属音と怒号が響く中、隊長の太い声が響いた。


「標的、シーヴィ・ケイルメの群れ!全砲門、照準急げ!装填よし!」


 汗を流しながら砲手たちが砲身を調整する。黒い影の群れはもはや肉眼でもはっきりと確認できるほど近づいていた。先頭集団の個体は、その醜悪な姿を露わにしている。


 まるで飛ぶ蛭のような細長い体躯。皮膜で構成された巨大な翼が、不気味にうねりながら空気を掻く。鋭い牙が並ぶ口からは、毒々しい緑の唾液が糸を引いて垂れ落ちている。


「撃てぇ!」


 隊長の咆哮と同時に、大砲が一斉に火を噴いた。轟音が城壁を震わせ、砲煙が空気を白く染める。放たれた炸裂弾が空中で破裂する。その中にあった無数の弾が空気を裂く音を立てながら、シーヴィ・ケイルメの群れに襲いかかる。


 翼や被膜を突き破る音と共に、何匹かの個体が肉片となって四散し、地上へと雨のように降り注いだ。だが、群れの数はあまりにも多い。砲撃をかいくぐった大半の個体が、翼を畳んで急降下を始める。その数、優に百を超えていた。


 やがて街の人々も、上空から迫る死の影を視認した。



 * * *



 警鐘の音が街を貫いた瞬間、まるで呪文が解けたかのように平和な時間が終わりを告げた。露店で焼き菓子を頬張っていた子供が母親の腕に駆け込み、酒に酔って陽気に歌っていた男たちが青ざめて空を見上げる。歓声は静寂を経て悲鳴に変わった、色とりどりの旗で飾られた街が恐怖のるつぼと化した。


「なんだ、あれは!」


 ラースが空を指差す。見上げると、黒い雲のような塊が街の上空で渦を巻いている。その雲が崩れるように散り、無数の細長い影が雨粒のように降下してくる。シーヴィ・ケイルメの群れだった。


 最初の一匹が露店の天幕に激突し、布を引き裂きながら地面に舞い降りる。翼を広げたその姿を見た商人が絶叫した。細長い胴体をくねらせ、毒々しい緑の唾液を滴らせながら、怪物は牙を剥く。


「あれはシーヴィ・ケイルメです!みなさん、気をつけて!」


 ルーカスの警告に、四人は即座に戦闘態勢を取った。リーゼとウェデリアを中央に、ラースとルーカスが前衛と後衛に分かれて陣形を組む。


 広場は地獄絵図と化していた。逃げ惑う人々の間を縫うように、シーヴィ・ケイルメが翼をはためかせて飛び回る。毒液が石畳に飛び散り、触れた男性が苦悶の表情で倒れ込む。女性の悲鳴が響き、子供の泣き声が混乱に拍車をかけた。


「リーゼ!ルーカス!街の人を頼む!」


 ラースの叫びと共に、鋼の音が響いた。抜き放った剣が夕陽を反射して煌めく。彼は一歩も躊躇することなく、人を襲おうとしていたシーヴィ・ケイルメに向かって踏み込んだ。


 剣がシーヴィ・ケイルメの側面を斬り裂く。緑色の体液が飛び散り、怪物は甲高い悲鳴を上げて墜落した。だが、ラースに向かって別の二匹が同時に襲いかかる。


「ちっ、キリがねぇ!」


 ラースは身を屈めて一匹目の突進をかわし、振り返りざまに剣を薙ぎ払う。二匹目が頭上から降下してくるのを見ると、地面を蹴って横に跳躍した。


 ルーカスも既に行動を開始していた。シーヴィ・ケイルメが吐いた毒液を浴び、地面でのたうち回るように苦しむ人を抱き抱えるようにして、手持ちの解毒薬を渡す。


「これを飲んでください。そして、他の人にも渡してあげてください」


 そうやって声をかけるルーカスの頭上を影が覆う。ルーカスは振り向くようにして手を伸ばす。腕に仕込まれた装置から、矢が滑るように射出される。毒を塗った矢尻がシーヴィ・ケイルメの翼膜を貫通し、怪物は翼のバランスを崩して墜落した。


「みなさん、あちらの建物の影に避難してください!」


 ルーカスは逃げ惑う人々に向かって大声で指示を出す。その間にも、冷静に次の標的を狙い定めていた。


 戦場の中央で、ウェデリアは目を閉じて集中していた。周囲の喧騒を遮断し、体内の魔力に意識を向ける。


 ――深淵の湖より我が声に応えよ。地の底深く、空の果て。大地の息吹、大気の脈動、それの名は生命の源。潜めし姿よ我が手の先に。どうかこの手に祝福を。


 詠唱の言葉が彼女の唇から紡がれる度に、周囲の空気に微かな湿り気が生まれた。


「アクヴォ・エルティラード!」


 ウェデリアの手から螺旋を描いて放たれた水流が、空中を舞うシーヴィ・ケイルメを一直線に捉える。激しい水圧に打たれた怪物は制御を失い、石造りの建物の壁に叩きつけられて動かなくなった。


 一方、リーゼは必死に自分と向き合っていた。身構えながら、震える左手に意識を集中する。魔力を練る感覚を思い出そうと、目を固く閉じる。あの温かい感触、体内を巡る魔力の流れ——だが、まるで涸れた井戸のように、何も湧き上がってこない。


(お願い……動いて……)


 心の中で祈るような気持ちで呪文を唱える。


「エク・ブーリロ!」


 しかし、魔法は発動しない。手のひらから光は生まれず、ただ虚しく声だけが空気に溶けた。


 その時、頭上に影が差した。振り仰ぐと、シーヴィ・ケイルメが翼を畳んで急降下してくる。鋭い牙を剥き出しにし、緑の毒液を飛び散らせながら。


 リーゼは反射的に短剣を抜き、突き出すように構えた。怪物の体当たりが彼女の全身を襲う。足が地面を滑り、後方に押し出されそうになるが、歯を食いしばって踏みとどまる。短剣の刃がシーヴィ・ケイルメの細長い胴体に深々と突き刺さっていた。


 緑色の体液が短剣の柄を伝って流れ落ちる。リーゼは素早く刃を引き抜くと、怪物の死骸を蹴り飛ばした。


 しかし、休む間もない。背後から風を切る音が聞こえ、振り返ると別のシーヴィ・ケイルメが低空で接近していた。リーゼは身を屈めて怪物の下をくぐり抜ける。その瞬間、短剣を上方に突き上げた。刃がシーヴィ・ケイルメの腹部を裂き、怪物は絶命の悲鳴と共に地面に墜落した。


 息を切らしながら、リーゼは周囲を見回す。四人は懸命に戦っているが、シーヴィ・ケイルメの数は一向に減らない。それどころか、まだ空から新たな個体が降下し続けていた。


「このままじゃ……」


 リーゼの呟きは、新たに響いた轟音にかき消された。それは、これまでとは比較にならない、圧倒的な力を持つ咆哮だった。



 * * *



 トゥルークの城、最上階にある空中庭園。大理石の手すりに両手を置き、ベンクト・フォシュマン公爵は眼下に広がる惨状を冷ややかに見下ろしていた。小太りな体躯を包むその服装は、戦場とは無縁の贅沢さを漂わせている。彼の周囲には、緊張に強張った表情の護衛兵たちが控えていた。


 空中庭園からは、街の全景が手に取るように見渡せた。シーヴィ・ケイルメの群れが黒い雲のように舞い、人々が蟻のように逃げ惑っている。露店が倒れ、旗が引き裂かれ、つい先ほどまで祭りの歓声に包まれていた広場は阿鼻叫喚の地獄と化していた。


 公爵の目は、まるで劇場の桟敷席から舞台を眺めるような冷静さで、その光景を追っている。時折、兵士や冒険者が怪物を倒すと、彼は満足げに頷いた。死傷者の数も、被害の規模も、全ては想定の範囲内だった。


「公爵!」


 息を切らした兵士の一人が駆け寄ってくる。その顔には汗と焦燥が浮かんでいた。


「予想外の襲撃ではありますが、この調子であれば対処は可能かと。しかし、領内への侵入を許した結果、少なからず被害が発生している状況です」


 報告を聞きながら、公爵の口元にかすかな笑みが浮かぶ。確かに、兵士たちの組織的な対応により、シーヴィ・ケイルメの数は着実に減少していた。砲撃と地上戦の連携も見事なものだ。


「街の人々が心配でならないな」


 公爵は深く憂慮するような表情を作り、重々しく言葉を紡ぐ。


「可能な限り、一刻も早い鎮圧を。一人でも多くの民を救うのだ」

「はっ!」


 兵士は深く頭を下げ、伝令のために駆け出していく。その足音が遠ざかっていくのを聞きながら、公爵は再び眼下の戦場に視線を戻した。


 誰も見ていないのを確認すると、彼の表情は一変した。先ほどまでの憂慮に満ちた顔は消え去り、満足に歪んだ薄笑いが浮かび上がる。


(計画通りだ)


 心の中で、公爵は勝利を確信していた。間もなく彼は、怪物の脅威から民を救った英雄として歴史に名を刻むだろう。そして民衆は気づくはずだ。平和など幻想に過ぎないと。真の安全を得るためには、人類の支配地域を拡大し、怪物どもを根絶やしにしなければならないと。


 それこそがレイソン帝国の掲げる理想であり、今日の「偶然の襲撃」が民衆にもたらす教訓だった。


「これで、あの傲慢な帝国の使者も満足するだろう」


 公爵は誰にも聞こえないよう小さく呟き、内心で高らかに笑った。権力と名声が手の届く場所まで来ている。民衆の血と涙を踏み台にして。


 だが、その時だった。


 空中庭園の一角、今まで何もなかった場所に、突如として霧のようなものが晴れていく。まるで見えない膜が破れたかのように、そこに隠されていた何かが姿を現し始めた。


 公爵の笑みが凍りついた。



 * * *



 街の外れ、小高い丘の上。遠眼鏡を片手にしたラグナールの白いコートが風になびく。彼は眼下に広がる混乱を醒めた視線で見つめてた。炎上する建物から立ち上る黒煙、逃げ惑う人々の悲鳴、そして空を舞うシーヴィ・ケイルメの群れ——全てが彼の掌の上で踊っているかのようだった。


「公爵はさぞかし満足していることだろうな」


 ラグナールの口元に、氷のような笑みが浮かぶ。まるで優秀な役者の演技を評価する演出家のような、冷淡な視線だった。


「客席で浅はかな計算に酔いしれる愚かな男が一人」


 風が強まり、ラグナールの短く整えられたブロンドヘアを揺らす。その青みがかったグレーの瞳は、まるで北海の氷原を思わせる冷たさを宿していた。


「だが、残念だね、公爵」


 ラグナールは誰に聞かせるでもなく、呟くように言葉を続ける。


「そこもまた舞台の一角だ」


 彼の視線は街の混乱から離れ、トゥルークの城——特に最上階の空中庭園に向けられた。その眼差しには、獲物を狙う捕食者のような冷酷さが宿っている。


 ラグナールは懐から小さな砂時計を取り出し、落ちる砂を眺めた。


「さあ、第二幕の始まりだ」



 * * *



 一方、城の近く。混乱に包まれた街の一角で、ハンナ・アールバリは石造りの建物の影にひっそりと身を隠していた。彼女の認識阻害魔法により、目の前を逃げ惑う人々も、上空を飛び交うシーヴィ・ケイルメも、彼女の存在には全く気づかない。


 ハンナの長いカーキ色の髪が、血なまぐさい風に揺れる。その冷ややかな視線は、ただ一点——城の最上階にある空中庭園に注がれていた。


「時間だな」


 ハンナは小さくつぶやく。彼女は右手をゆっくりと上げ、空中庭園の一角を指差す。人々の視界には何も映らないその場所に、ハンナの鋭敏な感覚だけが異質な存在を捉えていた。


 ハンナの唇が、ほとんど聞こえないほど小さな声で詠唱を紡ぎ始める。


「アヌリーゴ」


 呪文が完成した瞬間、空中庭園の一角から霧のようなものが晴れていく。それは、長時間にわたって維持されていた高度な認識阻害魔法が解除される瞬間だった。まるで見えない布が取り払われるように、隠されていた真実が白日の下に晒される。


 霧が完全に消え去ると、そこに現れたのは一匹の小さな怪物だった。


 幼体とはいえ、その威容は既に恐ろしいものがあった。黒緑色の硬質な鱗に覆われた体、背中に並ぶ鋭い棘、そして折りたたまれているものの明らかに巨大な翼。頭部には複数の角状突起があり、その奥で血のように赤い瞳が弱々しく瞬いていた。


 それは苦しげに短い呼吸を繰り返し、時折翼を震わせては力なく垂れ下がらせていた。明らかに瀕死の状態だった。


 飛竜の雛——イルマ・タイヴァーリの幼体だった。


 空中庭園では、突然現れた飛竜の雛を前に、公爵と護衛たちが慌てふためく声が聞こえ始めた。彼らはきっと書かれた筋書き通りの行動を取るだろう。彼女は振り返ることなく、静かにその場を立ち去る。これから起こることを見届ける必要はない。結末は、既に決まっているのだから。



 * * *



 突如として空中庭園に現れた異形の生物を前に、公爵の顔から血の気が引いた。つい先ほどまでの満足げな笑みは跡形もなく消え失せ、代わりに恐怖で歪んだ表情が浮かび上がる。


「な、なんだ、これは!?どうして飛竜がここに!?」


 公爵の声は裏返り、威厳など微塵も感じられない。小太りな体が、恐怖に小刻みに震えている。護衛の兵士たちも、目の前の異常事態に動揺を隠せない。訓練では想定されていない状況に、彼らは反射的に剣を抜くものの、その手は震えていた。


 飛竜の雛は力なく横たわり、弱々しい鳴き声を上げている。その声は子が母親を探すような、痛々しいほど無力な響きだった。


「あ、あれは……イルマ・タイヴァーリの雛だ!」


 年配の護衛が震え声で叫ぶ。その声には、絶対に遭遇してはならない存在を目にした者の恐怖が込められていた。


「馬鹿な……そんなはずは……」


 公爵の口から、かすれた声が漏れる。イルマ・タイヴァーリ——未開拓区域の空を支配する絶対王者。大陸でも最も危険な怪物の一つ。その雛が、なぜトゥルークの城に存在するのか。頭の中で警鐘が鳴り響く。


 突然、空が暗くなった。


 まるで巨大な雲が太陽を遮ったかのように、空中庭園に影が落ちる。だが、それは雲ではない。押し潰されそうになる圧倒的な存在感。


 公爵は視線をゆっくりと上に向ける。その瞬間、彼の思考は完全に麻痺した。


 翼幅二十メートルを優に超える巨躯が、城の真上に浮かんでいた。全身を覆う黒緑色の鱗は、まるで古代の鎧のように硬質な光沢を放っている。背中から尾の先端まで連なる鋭い棘は、それぞれが剣のような鋭さを持ち、頭部の角状突起は王冠のように威厳を誇示していた。


「成体……成体まで……」


 公爵の膝が震える。護衛たちも完全に戦意を失い、ただ呆然と見上げるしかない。


 イルマ・タイヴァーリは、眼下で苦しむ雛を見つめていた。その瞳には、子を奪われた親の怒りが燃えている。いや、怒りという言葉では生ぬるい。それは純粋な殺意だった。人間という種族そのものへの、容赦なき憎悪。


 飛竜の口がゆっくりと開かれる。その奥で、青白い炎がゆらめいているのが見える。


 そして——。


 世界を引き裂くような咆哮が、天地を震わせた。


 その声は雷鳴を凌駕し、城壁を震わせ、空中庭園の窓ガラスを粉々に砕いた。咆哮は波となって街全体を覆い、戦っていたシーヴィ・ケイルメすらも怯えさせるほどの圧倒的な威圧感を放った。


 イルマ・タイヴァーリ——未開拓区域の絶対王者が、人間たちの前にその真の姿を現した瞬間だった。



 * * *



 街の広場では、まだシーヴィ・ケイルメとの死闘が続いていた。四人は息を切らしながらも、懸命に怪物たちと戦い続けている。石畳には緑色の体液と赤い血が混じり合い、あちこちに散らばった怪物の死骸が戦いの激しさを物語っていた。


 ラースの額から流れる汗と血、ウェデリアの乱れた髪、ルーカスの破れた服、そしてリーゼの震える手——全員が限界に近づいていたが、それでも刃を握り続けていた。


 その時だった。


 突如として、世界が静止した。


 天地を引き裂くような咆哮が、街全体に響き渡った。それは単なる音ではなく、物理的な圧力となって四人の体を襲った。石畳が振動し、近くの建物の壁にひびが入る。まるで地震が起きたかのように、足元が不安定に揺れた。


 戦いは一瞬にして止まった。


 シーヴィ・ケイルメたちは、まるで上位捕食者の存在を感じ取ったかのように、翼を震わせて地面に身を伏せる。本能が警告していた——ここにいてはならない、逃げなければならないと。


「なんですか、今のは!?」


 ルーカスの叫び声が、静寂を破る。その顔には困惑と、何かを恐れる色が浮かんでいる。四人は同時に振り返る。城の方角に向けられた視線の先に広がっていたのは、悪夢としか言いようのない光景だった。


 城の上空に、まるで古代の神話が蘇ったかのような巨大な影が浮かんでいた。翼を広げたその姿は、建物全体を覆い隠すほどの大きさで、夕陽を背負った黒いシルエットが不吉な威容を誇示している。


「あれは……イルマ・タイヴァーリ!?」


 リーゼの声は震えていた。魔法を失い、絶望の淵にいた彼女にとって、この光景は現実感を完全に奪い去るものだった。


 その名前を聞いた瞬間、ウェデリアは息を呑んだ。顔から血の気が引き、唇が青ざめる。


「そんな……嘘でしょ……」


 ウェデリアの声は小さく震えている。


「イルマ・タイヴァーリなんて、未開拓区域の奥地にしか存在しないはず……教科書でしか見たことのない……」

「あんなもの……どうすれば……?」


 ラースは声を漏らす。普段の威勢の良さは影を潜め、ラースの声には弱気が滲んでいた。


 リーゼは自分の左手を見つめる。魔法を失い、仲間の足手纏いになっている自分。そして今、目の前には書物の中でしか存在しないはずの絶対的な災厄が現れている。


(もう……何もかもが……)


 絶望が彼女の心を支配していく。魔法も希望も失った今、彼女にできることは何もないように思えた。


 空に響く飛竜の咆哮が、四人の絶望をさらに深めていく。



 * * *



 公爵の足が震え、その場に立ち尽くしていた。恐怖が全身を支配している。だが、その恐怖と同時に、彼の記憶が一つの希望を提示していた。過去の遭遇——確かダスクロロスの群れと出会った時だった。怪物たちは傷ついた仲間を守ろうとする本能を見せるが、死んでしまえば関心を失い、その場を去った。それが怪物の習性のはずだ。


「兵士たち!」


 公爵の声は震えていたが、命令の重みを失ってはいなかった。


「この雛を——今すぐ殺せ!」


 兵士たちの顔に戸惑いが浮かぶ。剣を手にしながらも、その足は前に出ない。目の前にいるのは弱々しく横たわる雛であれど、紛れも無い怪物であった。彼らもまた躊躇していた。しかし、命令に従わねばならない。一人、また一人と兵士たちが雛に近づく。震える手で剣を振り上げる。


 雛の鳴き声が空気を切り裂いた。それは助けを求めるような、か細く悲痛な声だった。まるで生まれたばかりの鳥の鳴き声のように儚く、聞く者の胸を締めつける。さらに剣が突き下ろされる。一度、二度。やがて小さな命の灯火は静かに消えた。


「これで……これで飛竜は去る……」


 公爵の判断は経験に基づいていた。合理的で、冷静で、そして正しい。多くの怪物にとって、死んだ個体はもはや守るべき存在ではない。ただの肉塊でしかない。しかし公爵は知らなかった。世界には例外が存在することを。プリモール・ダスクロロスのように、人間が家族愛と呼ぶものに似た感情を抱く怪物がいることを。


 タイヴァーリ属は、数年に一度しか卵を産まない。一度に一つの卵だけを。多産なダスクロロス属とは正反対に、その一つの命に全てを注ぐ種族だった。


 公爵は知らなかった。この雛の親が、認識阻害魔法によって隠された我が子を求めて、昼夜を問わず大陸を駆け巡っていたことを。シーヴィ・ケイルメを誘き寄せる薬品に、その雛の血が混ぜられていたことを。すべてが仕組まれた罠だったことを。


 沈黙が空中庭園を包んだ。風すら止まったような静寂の中で、公爵はほっと息をついた。これで終わりだ。飛竜は去り、自分は英雄として——その思考を吹き飛ばすように、咆哮が世界を揺るがした。


 それは怒りだった。純粋で、原始的で、すべてを焼き尽くす怒り。怪物の感情など人には理解できない。だが、もしその瞳に宿る感情へと名前をつけるとすれば、それは我が子を奪われた親の、魂を引き裂くような憤怒だった。


 咆哮が止む。一瞬の静寂。そして——。


 イルマ・タイヴァーリの口から青白い業火が迸った。


 それは雷光にも似た速さで空中庭園を包み込んだ。公爵の目に映る最後の光景は、すべてを呑み込む蒼白い炎だった。悲鳴を上げる間すらなく、彼や兵士たちは、一瞬で灰燼に帰した。


 炎は空中庭園を越えて広がり、城の最上階を舐め尽くし、隣接する建物へと燃え移りながらその形を崩していく。


 再び咆哮が響く。イルマ・タイヴァーリは巨大な翼を広げ、街の上空を円を描くように旋回した。そして再び、怒りの炎を街へと注いだ。



 * * *



 街の外、小高い丘からラグナールが静かに状況を見つめていた。彼の表情には迷いがない。


「人は外にある脅威を知るべきなんだ」


 彼はつぶやく。


「何十年、何百年の平和があったとしても、その脅威がある限り、そんなものは幻想の平和に過ぎない。いつか終わる。そう、人は痛みでしか繋がれないのだから」


 ラグナールの眼差しは厳しく冷たいが、その奥には確固たる信念が宿っていた。



 * * *



 街は阿鼻叫喚の地獄と化していた。


 シーヴィ・ケイルメの群れは、空の王者の出現に怯えながらも、本能に従って逃げ惑う人々を襲い続けている。恐怖で我を失った人々の悲鳴が、炎に包まれた街にこだまする。イルマ・タイヴァーリは怒りのままに炎を吐き続け、石造りの建物すら溶かし崩していく。まるで街の存在そのものを許さないかのように。


 絶望的な状況の中でも、勇敢な者たちがいた。兵士たちや冒険者たちが、死を覚悟してイルマ・タイヴァーリに立ち向かう。剣を振るい、魔法を放ち、矢を射かける。だが、彼らの必死の攻撃も、飛竜の黒緑色の鱗に阻まれ、表面をかすめるだけに終わる。絶望的な力の差が、戦場に重く圧し掛かっていた。


「全砲門、一斉射撃!」


 城壁の上で隊長格の衛兵が、声を張り上げる。彼の顔には諦めではなく、最後まで戦い抜く決意が刻まれていた。


 轟音と共に大砲が火を噴く。集中砲火がイルマ・タイヴァーリを包み込み、煙と炎が空を覆った。一瞬、希望の光が兵士たちの目に宿る。


 しかし——


 煙が晴れると、そこには傷一つ負っていない飛竜の姿があった。イルマ・タイヴァーリにとっては、まるで虫に刺された程度の感覚なのだろう。虫を払うかのように首を振ると、砲台に向かって滑空する。巨体が風を切り裂き、鋭い爪が石壁を砕く。長い尾が鞭のように振るわれ、砲台も衛兵たちも、まとめて城壁から薙ぎ払われた。


 落下する人影が、燃えさかる街の中に消えていく。


 再び響く咆哮は、もはや勝利を確信した王者の雄叫びだった。絶対的な力の差を見せつけられた人々は、戦意を失い、ただ逃げることしか考えられなくなる。兵士も冒険者も、次々と戦線を離脱していく。


 街の一角、崩れた建物の影に身を潜めながら、ハンナ・アールバリはその光景を冷静に見つめていた。しかし、その瞳の奥には深い困惑が宿っている。


「これはやりすぎだ、ラグナール」


 低く呟かれた言葉に、苦悩が滲む。


 ハンナは理解していた。ラグナールの、そして帝国の悲願を。未開拓区域の奪還——それは人類の生存圏を広げるための崇高な目標だった。そのためには人々に脅威を実感させ、団結を促す必要がある。


 だが、目の前で繰り広げられている惨状は、もはや啓蒙ではなく虐殺だった。


「こんなことをしても、人々の心は折れるだけ。立ち向かう意志すらも……」


 ハンナの声が途切れる。遠くで子供の泣き声が聞こえ、炎に包まれた建物が崩れ落ちる音が響く。これでは人々は絶望し、未開拓区域への挑戦など夢にも思わなくなるだろう。


 決断の時かもしれない。帝国を出発する前の出来事をハンナは思い浮かべる。



 * * *



 夜が更けたレイソン帝国軍施設の廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。石造りの壁に掛けられた燭台の炎が、ハンナ・アールバリの影を長く伸ばしながら揺らめいている。彼女の足音は規則正しく、軍人らしい歩調で響いていた。


 指定された部屋の前で立ち止まり、ハンナは軽くノックをする。


「失礼いたします。ハンナ・アールバリ中尉、参りました」


 扉の向こうから低い声が響く。


「入れ」


 ハンナは扉を開き、部屋に足を踏み入れた。そこは質素な造りながらも、落ち着いた雰囲気の執務室だった。奥の机に向かって座っているのは、ヴァイノ・カルヤライネン中佐。四十代半ばほどの男で、顔に刻まれた皺が軍人としての長い経験を物語っている。


「中佐」


 ハンナは敬礼をする。ヴァイノは書類から顔を上げ、彼女を見つめた。その視線には、どこか疲れたような色が宿っている。


「ご苦労だった。座ってくれ」


 そう言って、ヴァイノは机の脇に置かれた椅子を指差す。ハンナは言われるまま腰を下ろした。その動作は軍人らしく無駄がない。


 ヴァイノは立ち上がり、壁際の棚に向かう。そこには酒瓶とグラスが並んでいた。


「一杯飲むか?」


 振り返りながらヴァイノは問いかける。ハンナは首を横に振った。


「結構です」


 短い返答だった。ヴァイノは自分の分だけグラスに琥珀色の液体を注ぎ、机に戻る。グラスを口に運びながら、彼はハンナの顔を観察していた。


「呼び出された理由をお聞かせ願えますでしょうか」


 ハンナの声は抑制されているが、わずかに緊張が滲んでいる。深夜の呼び出しなど、通常の業務では考えられない。


「ラグナール少佐の件だ」


 ヴァイノの答えは簡潔だった。予想外の理由に、ハンナの表情がわずかにこわばる。


「少佐に与えられた任務は知っているか?」


 ヴァイノは再び酒を口にしながら問いかける。その視線は鋭く、ハンナの反応を見逃すまいとしていた。


「トゥルークの領主を帝国側へ引き込む任務と聞いております」


 ハンナは正直に答える。隠すような事柄でもない。公然の任務として、彼女も把握していた。


 ヴァイノは静かに頷く。そして、グラスをテーブルに置くと、ハンナを真っ直ぐに見つめて言った。


「あの男の首輪になれ」


 その言葉に、ハンナは眉をひそめる。首輪——つまり、監視をしろということだ。同僚を監視するよう命じられるなど、軍人として決して愉快なことではない。


「理由をお聞かせください」


 ハンナの声に、わずかな抗議の色が滲む。同じ帝国軍人を疑うような指示には、納得のいく説明が欲しかった。


 ヴァイノは無言でグラスを手に取り、再び酒を飲む。その沈黙が部屋に重く漂った。やがて、ハンナが口を開く。


「少佐はライモ・レイクヴィク中将の息子であり、帝国に害を為すような裏切りをするとは考えられませんが」


 その言葉を聞いた瞬間、ヴァイノの表情が変わった。まるで何かに触れてはいけないものに触れられたかのように、顔が歪む。


「息子?」


 ヴァイノは吐き捨てるように言った。


「所詮、中将がどこかから拾ってきた子だ」


 その激しい口調に、ハンナは戸惑いを隠せない。ヴァイノの形相には、個人的な感情——それも負の感情が宿っていた。中佐ともあろう人物が、なぜこれほどまでに感情的になるのか。ハンナには理解できなかった。


 ヴァイノは自分の感情の露出に気づいたのか、取り繕うように咳払いをした。


「いや、時にやり過ぎる事があるのでな、少佐は」


 言葉を濁すような言い方だった。具体的に何を指しているのかはわからないが、ラグナールの行動に問題があると示唆している。


「それで、首輪の役割は何をすれば?」


 ハンナは実務的な確認をする。命令である以上、従わなければならない。ならば、具体的な指示を求めるのが軍人としての姿勢だった。


「中尉は教官職も務めている身だ。帝国軍人が持つべき矜持もよく理解していると思うが」


 ヴァイノの問いかけに、ハンナは無言で頷く。確かに彼女は訓練兵の教官として、帝国軍人の規律と誇りを教える立場にあった。


 ヴァイノは立ち上がり、窓の方へと歩いて行く。背中を向けたまま、静かに言葉を紡いだ。


「ならば、首を絞めたまえ。帝国を害すると判断した時に」


 その言葉の重さが、部屋の空気を一変させる。ハンナの背筋に冷たいものが走った。首を絞める——それは手綱を引けという意味なのか、それとも言葉通りの意味なのか。


 ハンナは立ち上がり、敬礼をする。


「承知いたしました」


 短い返答だった。それ以上の言葉は不要だ。軍人として命令を受けた以上、それに従うまでのことだ。たとえ、その命令がどれほど重いものであろうとも。


 ハンナは踵を返し、部屋を後にする。扉が静かに閉まる音が、夜の静寂に吸い込まれていった。


 廊下を歩きながら、ハンナは考える。中佐の考えが軍規の話なのか、政治の話なのか。この国は大きく、複雑すぎる。だが、いずれにせよ選択肢など存在しない。


 足音が廊下に響く。規則正しい軍人の歩調。彼女はその複雑に揺れている心の内を表面に出したりはしない。等間隔に響く音が夜の闇に消えていく。



 * * *



 炎と煙に包まれた街の中で、リーゼたち四人は呆然と立ち尽くしていた。


 目の前で繰り広げられる光景は、もはや戦いとは呼べない一方的な破壊だった。人間の力など、あの巨大な飛竜の前では塵芥にも等しい。


「どうしろっていうんだよ……あんなもの相手に……」


 ラースの声が震えている。握りしめた拳は力なく、足も小刻みに震えていた。だが、その瞳の奥で何かが燃えている。恐怖に支配されそうになる心と闘いながら、彼の脳裏に懐かしい記憶が蘇る。


 幼い頃に聞いた英雄譚の数々。絶望的な状況でも決して諦めなかった勇者たち。どれほど強大な敵であろうと、立ち向かうことを止めなかった英雄たち。彼らは皆、こんな時でも——。


「俺は……俺は……」


 震える足に力を込めて、ラースは立ち上がる。膝が笑っていたが、それでも彼は前を向いた。


「俺は逃げない!英雄は——英雄は逃げないんだ!」


 その叫びと共に、ラースは飛竜に向かって駆け出した。無謀だとわかっている。勝ち目などないこともわかっている。それでも、彼の足は止まらない。


「ラースさん!やめてください!」


 ルーカスの必死の叫びが背後から聞こえる。だが、ラースの耳にはもう届かない。彼は燃え盛る瓦礫を飛び越え、崩れた石壁を駆け上がり、イルマ・タイヴァーリに向かって剣を振りかざした。


 飛竜は、足元で蠢く小さな存在に気づく。わずかに首を傾げ、まるで好奇心でも抱いたかのように見下ろした。そして、その巨体をゆったりと宙に舞わせ、ラースの剣撃を軽々とかわす。


 空を切った剣の重みで、ラースは体勢を崩した。


 次の瞬間、イルマ・タイヴァーリの口が大きく開かれる。喉の奥で青白い炎が渦巻き始めた。


「ラースさん!」


 ウェデリアの悲痛な叫びが響く。彼女は震える唇で詠唱を紡ぎ始めた。


「アクヴォ・エルティラード!」


 彼女の手から迸る激流が、飛竜の口から放たれた炎と正面衝突する。火と水——相反する力がぶつかり合った瞬間、空気が爆ぜた。膨大な熱量が水を瞬時に気化させ、凄まじい蒸気爆発が四人を襲う。


 爆風に吹き飛ばされ、四人はそれぞれ地面に叩きつけられた。


 リーゼは頭を強く打ち、朦朧とした意識の中で周囲を見回した。視界がぼやけ、耳鳴りが頭を支配している。それでも、映り込む光景は地獄絵図だった。


 燃え盛る建物の残骸。瓦礫に押し潰された人々。泣き叫ぶ子供たちの声。そして空を舞う飛竜が、まるで審判を下すかのように街を見下ろしている。


 リーゼは震える手を空に向けて伸ばした。


「エク・ブーリロ……」


 呪文を口にしても、何も起こらない。体内の魔力は死んだように静まり返っている。意識しないうちに、頬に涙が伝った。


 滲む涙が視界を歪ませ、炎に包まれた街がさらに幻想的に見える。


 自分は何のために魔導士になったのだろう。あれほど嫌っていた力に、今更すがろうとしている自分が情けない。矛盾だらけの自分が、ひどく惨めに思えた。


 絶望の中で、リーゼは師の顔を思い浮かべる。


「先生……」


 か細い声が、炎の音にかき消されていった。



 * * *



 頬を叩く感触で、ウェデリアの意識が少しずつ浮上してくる。誰かが彼女の肩を揺さぶり、必死に呼びかけている。


「ウェデリアさん!ウェデリアさん!しっかりして!」


 切羽詰まったルーカスの声が、霞む意識を現実へと引き戻していく。


「ルーカス……さん……?」


 ウェデリアは重いまぶたを開けた。視界がぼやけているが、心配そうに覗き込むルーカスの顔が見える。彼の額には汗が浮かび、普段の冷静さの陰に焦りが滲んでいた。


「良かった……意識が戻りましたね」


 ルーカスは安堵の息を吐くと、すぐに道具袋へと手を伸ばした。迷いのない動作で木箱のような装置を取り出す。その手際には、調合師としての経験が表れていた。


「ウェデリアさん、お願いがあります」


 ルーカスの声は震えていない。この絶望的な状況でも、彼は自分の役割を見失っていなかった。


「あの飛竜の動きを止めなければ、このままでは……」ルーカスは一瞬言葉を詰まらせ、そして続ける。「これはマナヘルッカを組み込んだ拘束罠です。私が飛竜の近くに仕掛けますので、ウェデリアさんの魔力で起動させてください」


 ウェデリアは霞む視界で、ルーカスの手にある装置を見つめた。精巧に作られているが、あまりにも小さく見える。


「でも……その罠でも、イルマ・タイヴァーリを少しの間しか拘束できないんじゃないですか?」


 声に不安が滲む。あの巨大な飛竜を相手に、こんな小さな罠で何ができるというのだろう。


「短い時間で構いません」


 ルーカスは断言した。そして視線を背後に向ける。


 炎と煙の向こうで、まだ諦めずに戦い続ける人影が見えた。命知らずの冒険者たちが、矢を射かけ、魔法を放ち続けている。そして、その最前線で剣を握りしめているのは——


「ラースさん……」


 ウェデリアも彼の姿を見つけた。傷だらけになりながらも、ラースは立ち続けている。間合いに入りさえすれば必ず一撃を叩き込んでやる——そんな不屈の意志が、その佇まいから滲み出ていた。


 ルーカスがウェデリアに向き直る。その瞳には、先ほどまでの焦りではなく、静かな決意が宿っていた。


「私は仲間を信じています」


 短い言葉だったが、その重みは計り知れない。絶望的な状況の中で、仲間への信頼だけを支えに立ち向かおうとする意志。


 ウェデリアは言葉を失った。ルーカスの揺るぎない信念が、彼女の心の奥に眠っていた何かを呼び覚ます。リーゼとの思い出、共に過ごした日々、そして今まで築いてきた絆——。


 震える手を握りしめ、ウェデリアは頷く。


「わかりました。やってみます」



 * * *



 薄れゆく意識の中で、リーゼの心に懐かしい声が響いた。


 それは魔導施設での、あの穏やかな午後の記憶。陽だまりの教室で、カリーナ先生が優しく語りかけてくれた言葉たち。


「魔法とは思いの具現化です。あなた達に与えられたのは、自らの願いから生まれた副産物といってもいいでしょう」


 先生の声は今も変わらず温かく、リーゼの混濁した意識を包み込んでいく。


「ウェデリア。あなたは幼い頃から香水が好きだったと言っていたわね」

「はい、先生。家で取り扱っていたので」

「それが水の魔法へと結びついたのでしょうね」


 カリーナは慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、リーゼの方へと視線を向ける。


「あなたの魔法も同じですよ。リーゼ・ノルシュトレーム」


 記憶の中の先生の言葉が、リーゼの心の奥深くに響く。


 私の願い——私の本当の思いとは何だったのか。


 魔法を失った理由がようやく理解できた気がする。私はずっと自分の本当の願いから目を逸らしていたのだ。マナヴィフマの破壊的な閃光、それを恐れるあまり、魔法そのものを拒絶してしまった。


 でも、それは違う。


 手のひらに力を込めながら、リーゼは記憶を辿る。あの悲劇の夜、青白い光に包まれた母の最後の姿。その光の中にあったのは破壊ではなく——母の笑顔だった。


 人を幸せにし、周りを明るく照らす母の笑顔。私もそうなりたいと、心の底から願っていた幼い日の記憶。人と人とを結びつける、あたたかな光への憧憬。


 その瞬間、リーゼの胸の奥で何かが弾けた。


 心臓が激しく脈打ち、その鼓動が長い間閉ざされていた扉を開く。彼女の中で言葉が目覚めていく。頭の中に、詠唱が鮮明に浮かび上がる。無詠唱だと思っていたエク・ブーリロの、本当の姿が。


 ——募れ秘めし祈りよ。成就せよ渇望よ。


 声に出すその瞬間、体内で眠っていた魔力が呼応した。まるで長い冬を越えた花が、春の陽光に目覚めるように。


 ——与えられし蒼き血よ、汝の名はヴェホなり。呼びかける我が名はルンタルなり。


 リーゼはよろめきながらも立ち上がる。傷だらけの体に痛みが走るが、それ以上に心を満たしているのは確信だった。


 空を舞うイルマ・タイヴァーリを見上げながら、左手を天に向ける。不思議なことに、自分だけでなく周囲からも魔力が流れ込んでくるのを感じた。まるで街の人々の祈りや願いが、彼女の魔法に力を与えているかのように。


 ——体現せよ、その祝福を。


 リーゼの左手が青白く輝き始める。それは破壊のための光ではない。彼女の決意。人々を結び、希望を繋ぐための光が。


おまけ話


基本的には一通り書き終えた後に、描写不足等を見直した結果、全体の分量が増えるという制作過程でした。

できる限り1話の分量は同じぐらいにしたいと思いながら書いていたんですけど、この話だけ膨らみすぎ……でも、絶対にここが区切りだよなと思ってるところで終えたので、調整ができませんでした。


少ない分量で連載しながら引きで終われる人って、ほんとすごいよな。って思います。

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