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第8話 厄災(マナヴィフマ)

 カーレリア王国トゥルークの街は、アストラリアの北東に位置し、未開拓地域との境界を守る領主直轄の城塞都市だ。高くそびえる城壁は灰色の石で築かれ、その上には黒々とした砲身が規則正しく並んでいる。四方の城門は鉄と木で補強された重厚な造りで、門の両脇には常に武装した兵士が立っている。街全体が巨大な要塞のように、訪れる者に戦いの最前線であることを否応なく実感させる。かつて怪物との激戦が繰り広げられた時代の面影を、石壁に残る傷跡と共に今もなお留めていた。


 しかし、それも今は昔の話だ。長く続いた平和の影響で、兵士たちの緊張感にも緩みが見える。南門の見張り台では、門兵のトマスが退屈そうに欠伸を噛み殺している。毎日決まった時間に現れる少女の姿を認めると、彼は馴染み深い調子で声をかけた。


「よぉ、ウェデリア。今日もお迎えかい?」


 ウェデリアは明るい笑顔を浮かべ、手を振りながら答える。


「はい。いつものです」

「今日こそは来るといいな。もう何日も待ってるじゃないか」


 トマスの言葉に、ウェデリアは苦笑いを浮かべた。確かに、ここ数日間は空振りが続いている。それでも彼女は諦めることなく、毎日城門の外へとリーゼたちを迎えに出ていた。手紙で知らせた到着予定日は過ぎていたが、旅路で何かあったのかもしれない。


「ありがとう、トマスさん。今日もちょっと様子を見てきますね」


 軽やかに会釈を返し、ウェデリアは城門をくぐって街の外へと歩き出した。石畳の道を抜け、見晴らしの良い丘の上まで足を延ばす。そこからなら街道が一望でき、遠くからでも旅人の姿を確認できる。


 風が頬を撫でていく。ウェデリアは手で髪を押さえながら、街道の向こうを見つめた。そして――ついに見つけた。


 遠くに小さく見える人影。三人連れの旅人が、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。その中の一人は間違いなく、見慣れた黒髪の少女だった。


「リーゼ!」


 喜びに声を上げ、ウェデリアは丘を駆け下りる。だが、近づくにつれて違和感がつのった。


 リーゼの足取りが重い。かつての凛とした様子はなく、肩を落として歩いている。顔も見えないほど俯いて、まるで重い荷物を背負っているかのような様子だった。


「リーゼ!」


 もう一度名前を呼び、ウェデリアは駆け寄った。リーゼがゆっくりと顔を上げる。その瞬間、ウェデリアの胸に不安がよぎった。


 沈んだ表情。力のない瞳。魔導施設で初めて出会った頃よりもさらに弱々しい佇まい。


「久しぶり、ウェデリア」


 リーゼの声は震えている。笑顔を作ろうとしているが、その表情は痛々しいほどに引きつっていた。手紙の文面からは想像もできない、憔悴しきった姿がそこにあった。


「あなたが、ウェデリアさんですか?」


 リーゼの後ろから、眼鏡をかけた背の高い男性が進み出る。その顔には深刻な表情が浮かんでいた。


「私はルーカス・クロンヘイムと申します。突然で申し訳ありませんが、私たちの話を聞いていただけませんか」


 ルーカスの真剣な眼差しに、ウェデリアは思わずたじろぐ。彼の表情から察するに、きっと何か重大な出来事が起きたのだろう。リーゼの様子といい、この男性の切迫した様子といい、ただ事ではない雰囲気が三人を包んでいた。



 * * *



 トゥルーク中央市場の賑わいから少し離れた静かな通りに、ウェデリアの家はあった。白い石造りの二階建ての建物は、色とりどりの花が咲く美しい庭に囲まれている。商家らしく品の良い佇まいで、窓辺には季節の花を植えた鉢が並び、午後の陽光を受けてあたたかく輝いていた。


 二階の客間に通されたリーゼたちは、大きな窓から中央市場を見下ろすことができた。露店が立ち並び、商人たちが声を張り上げて客を呼び込む活気ある光景が眼下に広がっている。石畳の上を行き交う人々の姿は、まるで華やかな絵画のようだった。


 その情景とは打って変わって、部屋には重い沈黙が流れていた。ウェデリアが用意したティーセットが並ぶテーブルを囲んで座る四人だったが、誰も口を開こうとしない。ルーカスが道中で説明した内容があまりにも衝撃的で、ウェデリアもまだ整理がついていなかった。


 その静寂を破ったのは、リーゼの小さな乾いた笑い声だった。


「すごいお家だね。手紙で聞いてはいたけど、実際に見ると本当に立派で驚くよ」


 リーゼの声には、緊張を和らげようとする意図が込められていた。しかし、その笑顔はどこか痛々しく、無理をしているのが見て取れる。


「そんな……普通よ。商家なんてどこもこんなものだから」


 ウェデリアは控えめに首を振ったが、リーゼが自分の家を褒めてくれたことに、心の奥で小さな喜びを感じていた。だが、すぐにその感情を打ち消すように表情を引き締める。今はそんなことを喜んでいる場合ではない。


「それで……」


 ルーカスが重い口を開く。眼鏡の奥の瞳は真剣そのもので、わずかに震えていた。


「ウェデリアさん、どう思われますか?魔法が使えなくなるということが、本当にあり得るのでしょうか」


 その問いかけに、ウェデリアは困惑した。道中でルーカスから聞かされた話——リーゼが魔法を失ったという現実が、まだ受け入れられずにいる。


「少し……実際に確かめてみてもいいですか?」


 ウェデリアは席を立ち、サイドボードから空のグラスを手に取った。それをテーブルの中央に置くと、両手でそっと包み込むように構える。深く息を吸い、体内の魔力に意識を向けた。


 ——深淵の湖より我が声に応えよ。地の底深く、空の果て。大地の息吹、大気の脈動、それの名は生命の源。潜めし姿よ我が手の先に。どうかこの手に祝福を。


 静かな詠唱が部屋に響く。ウェデリアの手のひらが淡く光り始めると、周囲の空気に微かな湿り気が生まれた。


「アクヴォ・エルティラード」


 呪文と共に、透明な水が螺旋を描きながら彼女の掌から流れ出る。それは美しい軌道を描いて空のグラスに注がれ、やがて満々と水を湛えた。


「すげぇ……」


 ラースが感嘆の声を漏らす。日常的に魔法を目にする機会の少ない彼にとって、これほど身近で魔法を見るのは新鮮だった。


 ウェデリアは小さく息を吐いた。久しぶりの魔法使用で、わずかに疲労を感じている。


「確かに私たちは先生から教わりました。魔法とは思いの具現化だと」


 ウェデリアはゆっくりと説明を始める。


「私にできるのは水を生み出す魔法です。今お見せしたように、具体的にイメージできることなら、このような使い方も可能です。つまり……」


 言葉を詰まらせるウェデリア。その続きを察したラースが、苦々しい表情で代弁する。


「思い浮かべることができなければ、魔法は使えないってことになるな」


 ウェデリアは重い気持ちで頷いた。そして、ずっと黙っているリーゼに視線を向ける。


「でも、リーゼ……魔法のイメージを失うなんて、私には想像もできない。どうして……?」


 その問いかけに、リーゼは顔を上げることなく答えた。


「そうだね……でも多分、どこかで私はホッとしているんだと思う。魔法が使えなくなったことに」


 リーゼの声は震えている。


「私は自分の魔法が嫌いだから……ずっと」


 その告白に、ウェデリアは立ち上がろうとした。しかし、ルーカスが静かに手を上げて制する。彼の表情には、深い理解と同情が浮かんでいた。


「リーゼさん」


 ルーカスの声は優しいが、確固とした意志を秘めている。


「以前にもそうおっしゃっていましたね。でも、パーティを続けるにせよ、抜けるにせよ、その理由を教えてもらえませんか?私たちはずっと仲間として旅を続けてきました。その仲間にも、あなたの親友にも、話せないほどの理由なのですか?」


 部屋に重い静寂が降りる。四人の視線がリーゼに注がれ、彼女の答えを待っていた。


 やがて、リーゼがゆっくりと顔を上げる。その瞳には諦めにも似た決意が宿っていた。


「……分かったよ」


 深いため息と共に、リーゼは答える。


「決して愉快な話じゃないけど」


 そう前置きして、リーゼは語り始める。遠い昔、自分がまだ小さな子供だった頃の、痛ましい記憶を。



 * * *



 リーゼの母、カーミラ・ノルシュトレームは太陽のような存在だった。エヴェラス大陸南東のカリュヴァ地方で育った彼女は、背が高く健康的で、日に焼けた褐色の肌に汗を浮かべ、いつも陽気な笑い声を響かせていた。家事をしている時も、畑仕事をしている時も、カーミラの周りには常に明るい空気が満ちている。


 リーゼは母の躍動感あふれる姿に憧れを抱いていた。しかし、鏡に映る自分の青白い肌と細い体つきを見るたび、母との違いに小さな戸惑いを感じてもいた。


 ある夕方、台所で夕食の支度をする母の背中を見つめながら、リーゼは思い切って口にした。


「お母さん、私、あまりお母さんに似てないよね」


 包丁で野菜を刻んでいたカーミラの手が止まる。振り返った彼女の顔には、いつもの人懐っこい笑顔が浮かんでいた。


「あんたの見た目は父ちゃんに似ちゃったからねぇ」


 リーゼの父、ラッセ・ノルシュトレームは確かにカーミラとは対照的だった。小柄で色白、読書を好む内向的な性格で、外に出るよりも書斎に籠って文献を読んでいることが多い。外見的には、リーゼの方がずっと父親に近かった。


「でもねぇ、リーゼ」


 カーミラは手を拭きながらリーゼに近づく。


「ちゃんと私に似ているところがあるのよ。ほら、笑ってごらん」

「うん」


 リーゼが素直に笑顔を見せると、カーミラは娘の頭を両手で包み込むように撫でた。


「そうそう、そのいい笑顔。私にそっくりよ」


 母の温かい手のひらが頬に触れる。その瞬間、リーゼは自分の中に確かに母から受け継いだものがあることを実感した。


 リーゼにとって理解できないことがもう一つあった。敬虔なヴァルダ信徒である父と、信仰心の薄いカリュヴァ地方出身の母がどうして結ばれたのかということだ。その疑問をぶつけると、カーミラは恥ずかしそうに頬を染めて答えた。


「ああ見えて、ラッセは結構押しが強いのよ」

「本当に?」


 リーゼには信じられなかった。いつも遠慮がちで物静かな父が、積極的に母に求婚したなんて。


「本当よ。私の笑顔にベタ惚れしちゃってね」


 カーミラは得意げに胸を張る。そして、湯気の立つ魚の香草焼きを皿に盛りながら続けた。


「リーゼ、あんたは母ちゃんにそっくりよ。いつも笑顔でいなさい。そうしたら、母ちゃんみたいに周りの人をみんな幸せな気持ちにできるから」

「うん、わかった」

「良い子ねぇ。じゃあ、父ちゃんを呼んできて」


 リーゼは母の言葉を心に刻み、村の人々に笑顔で接するようになった。感情豊かで誰からも愛される母親は、リーゼにとって憧れであり、目標だった。いつか母のようになりたい——そんな純粋な思いを胸に、リーゼは穏やかな幼少期を過ごしていた。


 その平和な日々が一変したのは、夏の終わりを告げる涼しい風が吹き始めた、ある夜のことだった。



 * * *



 真夜中、リーゼは何かの物音で目を覚ました。最初は風で戸が揺れる音かと思ったが、それにしては規則的すぎる。まるで誰かが家の中を歩き回っているような音だった。


 起き上がろうとして、リーゼは異変に気づく。体が鉛のように重く、思うように動かない。熱があるのかと額に手を当てるが、むしろ冷たいくらいだった。それなのに、なぜこんなにも体調が悪いのだろう。


 視界も何だかぼやけている。まるで薄い膜が目を覆っているような感覚で、いつもなら月明かりでうっすらと見える部屋の輪郭すら曖昧だった。


 ふらつく足で立ち上がり、リーゼは恐る恐る部屋を出た。


 廊下に出ると、すぐに異常に気づく。突き当たりにある居間の方から、青白い光が漏れ出していた。それは月光とは明らかに違う、どこか人工的で不気味な光だった。まるで生きているかのように揺らめき、廊下の床に幻想的な影を落としている。


 近づくにつれて、リーゼの胸に不安が広がった。この光は一体何なのだろう。そして、なぜ自分の体調がこんなにも悪いのだろう。この光と体調は何か関係があるのだろうか。


 やがて居間の入り口が見えた時、リーゼは息を呑んだ。


 居間で母が膝をついて座り込んでいた。その全身から青白い光が立ち昇り、まるで炎のように揺らめいている。カーミラは苦悶の表情を浮かべ、両手で胸を押さえていた。時折、体を震わせて小さくうめき声をあげている。


 お母さん——そう叫ぼうとした瞬間、リーゼの肩に手が置かれた。


 振り返ると、父のラッセが蒼白な顔で立っていた。いつもの穏やかな表情は消え失せ、深刻な恐怖が刻まれている。彼の手は震えていたが、リーゼを制止する力は確かだった。


「お父さん……お母さんが……」


 震え声でリーゼは訴える。しかし、ラッセは無言のまま、娘をその場に留めるように肩に置いた手に力を込めた。


「カーミラ……」


 父の呼びかけは弱々しく、母に届いているかも分からない。リーゼはもどかしさに駆られ、思わず大声で叫んだ。


「お母さんっ!」


 その声に反応して、カーミラがゆっくりと顔を上げる。光に包まれた彼女の表情は、いつもの陽気さとは正反対の深い悲しみに満ちていた。それでも、リーゼと目が合うと、カーミラは懐かしい優しい笑顔を浮かべた。


「ラッセ、リーゼ……逃げて」


 その声は震えていたが、はっきりとしていた。母としての最後の責任を果たそうとする、強い意志が込められていた。


 ラッセは即座にリーゼを抱え上げ、玄関に向かって走り出した。背後から棚が倒れる音、ガラスの割れる音が響く。家全体が軋み、崩壊が始まっているのがわかった。


「お父さん、お母さんは?お母さんはどうなるの?」


 父の腕の中で、リーゼは必死に問いかける。しかし、ラッセは答えることができない。ただ唇を固く結び、一刻も早くこの場から離れようと足を早めるだけだった。


 門を抜けた瞬間、ラッセは立ち止まり、リーゼを強く抱きしめた。その体は小刻みに震え、激しい鼓動が伝わってくる。


「あの光は……魔力の……」


 父の呟きは絶望に満ちていた。その言葉の意味を理解する前に、リーゼを包む父の腕がさらに強く力を込められる。そして、彼女の頭を胸に押し付けるように抱きしめた。


 その瞬間——世界が白く染まった。


 雷光よりも眩しい閃光が夜空を引き裂き、大地を激しく揺らす轟音が響き渡る。熱波が押し寄せ、真夏の太陽を至近距離で浴びるような灼熱が全身を包み込んだ。空気そのものが燃えているような感覚に、リーゼは息もできない。


 光が収まった時、リーゼは父の腕から身をよじって振り返った。


 そして、言葉を失った。


 家があった場所に、巨大な光の柱が屹立していた。青白かった光は次第に朱色に変わり、内側から激しく燃え盛っている。それは単なる炎ではない——魔力そのものが具現化した、この世のものとは思えない業火だった。


 月明かりすら霞むほどの強烈な輝きが村全体を照らし、夜が昼のように明るくなる。やがてその光はふっと消え、後には何も残らなかった。家も、母も、すべてが跡形もなく消失していた。


 静寂の後に響いたのは、村人たちの悲鳴だった。


 爆音で目を覚ました人々が次々と飛び出してきて、リーゼたちを取り囲む。何が起きたのか、どこで爆発があったのか、怪我人はいないのか——無数の問いかけが雨のように降り注いだ。


 リーゼは混乱の中で、意識が薄れていくのを感じていた。耳鳴りがして、人々の声が遠くから聞こえる。そんな中で、一つの言葉だけがはっきりと聞こえた。


「マナヴィフマだ……」


 誰かが恐怖に震え声で呟いた、その不吉な響きの言葉が、リーゼの意識が闇に沈む直前まで耳に残り続けた。



 * * *



 意識が戻った時、リーゼは見慣れない天井を見上げていた。木の梁が規則正しく並び、その間に漆喰が丁寧に塗られている。自分の家とは違う、質素だが手入れの行き届いた部屋だった。


 体を起こすと、床に敷かれた清潔な布団の上に寝かされていることがわかる。部屋は決して広くないが、整理整頓が行き届き、窓から差し込む午後の陽光が優しく室内を照らしていた。


「目を覚ましたか、リーゼ」


 低く落ち着いた声に、リーゼは顔を向けた。部屋の隅に置かれた座椅子に、村長のモーテン・フィネルセンが座っている。彼は五十代半ばの威厳ある男性で、普段は厳格な表情を崩さないが、今は深い憂いを湛えた瞳でリーゼを見つめていた。


「村長さん……」


 声を出そうとして、リーゼの喉が渇いていることに気づく。唇も乾いて、どのくらい眠っていたのかわからない。


「水を飲むか?」


 フィネルセンは立ち上がり、サイドボードから水差しとコップを取り出した。ゆっくりと注がれた水を受け取り、リーゼは少しずつ口に含む。冷たい水が喉を潤し、ようやく言葉を発することができた。


「お母さんは……?お父さんは……?」


 震え声で問いかけるリーゼを見つめ、フィネルセンは重いため息をついた。そして、椅子に座り直すと、慎重に言葉を選びながら話し始める。


「リーゼ、辛い話をしなければならない」


 その前置きだけで、リーゼは最悪の事態を理解した。それでも、現実を受け入れることはできない。


「まず、お前の父親のことだが……今朝、村を出ていった」


 フィネルセンの言葉に、リーゼは息を呑んだ。父が自分を置いて去ったという事実が、胸に重くのしかかる。


「ラッセは……お前を私に託していくと言った。これを預かっている」


 村長が差し出したのは、小さく折りたたまれた手紙だった。見覚えのある父の筆跡で宛名が書かれている。リーゼは震える手でそれを受け取った。


 封を開けると、わずか数行の短い文章が目に入る。自分にはしなければならないことがあるということ。母のことを許して欲しいと。そして最後に、愛しているという言葉。


 手紙を読み終えた時、リーゼの目から涙が溢れた。父が何を伝えようとしているのかはわからない。でも父もまた、この出来事に押し潰されそうになりながら、一人でその重荷を背負おうとしているのだ。


「リーゼ」


 フィネルセンの声が、リーゼを現実に引き戻す。


「お前の母親に起こったことについて、説明しなければならない」


 村長は一呼吸置いてから、重々しく言葉を続けた。


「あれは、恐らくマナヴィフマと呼ばれる現象だ」


 初めて聞く言葉に、リーゼは顔を上げる。


「魔力を持ちながら、適切な制御を学ぶ機会を得られなかった者に起こる悲劇だ。体内に蓄積された魔力が制御を失い、爆発的に解放される……」


 フィネルセンの表情が曇る。カーミラがカリュヴァ地方の出身であることを思い出しているのだろう。


「カリュヴァの島々では、女神ヴァルダへの信仰が薄い。そのため、祝福の洗礼を受ける習慣もない。魔力の素養を持つ者でも、それに気づかずに一生を過ごすことが多い。お前の母親も、きっとそうだったのだろう」


 リーゼは母の最後の姿を思い出す。あの青白い光に包まれた母の表情に浮かんでいたのは、苦痛だけではなかった。自分たちを守ろうとする愛情と、申し訳なさそうな謝罪の気持ちもあったような気がする。


「それは……厄災と呼ばれている」


 フィネルセンの最後の言葉が、リーゼの心に重くのしかかった。母の死が「厄災」と呼ばれるものだったなんて。その響きは、まるで母を責めているようにも聞こえる。



 * * *



 マナヴィフマ——制御されない魔力の暴発。その現象を引き起こした家の娘として、リーゼの境遇は劇的に変化した。


 事件の翌日から、村人たちの態度は明らかに変わった。それまで親しみを込めて「リーゼちゃん」と呼んでくれていた人々が、よそよそしく距離を置くようになる。市場で買い物をしていても、人々は彼女を避けるように道を変える。


 子供たちの反応は、大人よりもさらに露骨だった。以前は一緒に遊んでいた友達も、親から止められることなく自然とリーゼから離れていく。彼らの本能が、リーゼを危険な存在として認識しているかのようだった。


 最も辛かったのは、直接的な非難の言葉ではなく、陰で囁かれる言葉だった。


『厄災の子』


 その呼び名を初めて耳にしたのは、事件から半年ほど経った秋の日のことだった。市場の陰で、二人の女性がひそひそと話しているのを偶然聞いてしまったのだ。


「あの子を見てると、不安になるのよ」

「わかるわ。母親と同じことが起こらないとも限らないし……」

「厄災の子って呼ばれてるけど、まさにその通りよね」


 その瞬間、リーゼは自分の置かれた立場を完全に理解した。人々は母を恐れているのではない。自分の中に眠っているかもしれない、同じ力を恐れているのだ。


 泣きたくても涙は出なかった。笑顔を作っても、誰も応えてくれない。母のようになりたい、母のような笑顔で周りを明るくしたいと思っていたのに、現実は正反対だった。


 リーゼは次第に内向的になり、人との関わりを避けるようになった。村長の家で静かに暮らし、外出は必要最小限に留める。そんな生活を送りながら、父からの便りを待ち続けたが、それが届くことはなかった。


 そして時は流れ、リーゼの十五歳の誕生日がやってきた。女神ヴァルダからの祝福を受ける、人生の重要な節目の日だった。


 父の不在により、村長が後見人として洗礼の儀式に立ち会うことになった。村の小さな神殿で、白い衣装に身を包んだ神官が厳かに式を執り行う。


「リーゼ・ノルシュトレーム」


 神官の声が静寂の中に響く。


「あなたは女神ヴァルダの祝福を受け入れますか?」


 その問いかけに、リーゼは言葉を詰まらせた。受け入れたくない気持ちと、運命に従わなければならない気持ちが胸の中で激しくぶつかり合う。


 戸惑うリーゼを見て、神官は慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。


「案ずることはありません。この洗礼を通じて、あなたに与えられた才能が明らかになります。それがどのような祝福であれ、女神からの贈り物として謙虚に受け入れなさい」


 神官の優しい言葉に背中を押され、リーゼは小さく頷いた。


 神官が古い祈りの言葉を唱えながら、空中に聖なる紋章を描く。そして、その手をリーゼの額に触れた瞬間、全身に温かな波が広がった。それは最初は心地よい暖かさだったが、徐々に熱を帯びていく。やがて、体の奥底で何かが目覚めるような感覚が生まれ、意識の深い部分で青白い光がほのかに灯った。


 その光と熱が一つになった時、神官が荘厳に宣言した。


「リーゼ・ノルシュトレームよ。我らが愛する女神ヴァルダより与えられた祝福は——魔法である」


 その言葉を聞いた瞬間、リーゼの顔から血の気が引いた。体内の暖かさは急速に冷え、全身に冷たい汗が浮かび上がる。


 母と同じ——その恐怖が脳裏を駆け巡った。


 恐怖に支配される中、リーゼの意識の奥で新たな知識が芽生える。自分が使える魔法の姿が具現化され、その呪文が脳裏に刻まれた。それは、あの夜見た光と同じ——一筋の閃光。その名は、エク・ブーリロ。


 式を見守っていた村人たちの間に、ざわめきが広がった。


「やはり魔法だったか……」

「母親の血を引いているのね……」

「今度は何が起こるんだろう……」


 リーゼは震えながらも立ち上がり、神官に向かって深く頭を下げた。


「ありがとうございます。女神様の祝福に、心から感謝いたします」


 形式通りの言葉を口にしたが、その心は恐怖で満たされていた。


 儀式の後、フィネルセンはリーゼを見つめて深いため息をついた。彼もこの結果を予想していたのだろう。村での生活を続けることの困難さを、誰よりも理解していた。


「リーゼ」


 フィネルセンは慎重に言葉を選びながら提案した。


「アストラリアの魔導施設で学んでみてはどうだろう。そこでなら、正しい魔法の使い方を身につけることができる」


 その提案に、リーゼは答えることができなかった。村を離れる寂しさと、新しい環境への不安が入り混じる。しかし、それ以上に強かったのは、自分の中に眠る力への恐怖だった。


 母のように爆発してしまうのではないか。大切な人たちを巻き込み、死んでしまうのではないか。


 そんな恐れを抱きながらも、リーゼは決意を固めた。ここに居続けることは、村の人々にとっても自分にとっても良いことではない。魔法を正しく制御する方法を学ばなければ、本当に母と同じ道を辿ることになってしまうかもしれない。


 村長の手配により、リーゼはアストラリアの魔導施設への入学が決まった。新しい環境で、新しい自分になれるかもしれない——そんな微かな希望を胸に、彼女は故郷を後にする決意を固めた。



 * * *



 「カリーナ先生は教えてくれた。私の魔法は他の誰とも違う特別なものだって。詠唱の必要がない、珍しい魔法だって」


 リーゼの声は次第に震えを帯びてくる。


「でも、私には分かる。それは特別なんかじゃない。あの夜と同じ、ただ魔力が暴走しているだけ。制御も何もない破壊の力」


 彼女は自分の左手を見つめる。魔法を失った今、そこにはもう何の力も宿っていない。


「私の魔法は祝福なんかじゃない。マナヴィフマと同じ破壊の厄災。母から受け継いだ、呪われた血なのよ」


 最後の言葉を絞り出すように語り終えると、部屋に重い静寂が降りた。


 ウェデリアは唇を強く噛みしめ、両手を膝の上で握りしめている。三年間も同じ部屋で過ごしながら、親友の深い苦悩に気づいてあげられなかった自分への後悔が、胸を締めつけていた。どれほど辛い思いを一人で抱え込んでいたのだろう。


 ラースは拳を握ったまま黙り込み、ルーカスは眉を深く寄せて何かを考え込んでいる。誰も簡単に言葉をかけることができない。リーゼの告白は、それほどまでに重く、痛ましいものだった。


 やがて、ラースがゆっくりと立ち上がった。窓辺まで歩き、外の喧騒を眺めながら背中で話しかける。


「そっか……それで自分の魔法を嫌っていたんだな」


 しばらくの間を置いてから、ラースは振り返る。その表情には、いつもの軽やかさはない。代わりに、強い決意を秘めた真剣な眼差しがあった。


「でもな、リーゼ。俺は違うと思う」


 その言葉に、リーゼは顔を上げる。


「お前の魔法は破壊なんかじゃない。確かに強力で、時には恐ろしいほどの力を持っているかもしれない。でも、俺たちはその魔法に何度も救われてきた」


 ラースの声には、偽りのない感謝の気持ちが込められている。


「ダスクロロスとの戦いでも、プリモール・ダスクロロスを助けた時も、お前の魔法がなかったら俺たちは生きていなかった」


 ルーカスも静かに頷きながら言葉を添える。


「リーゼさんの魔法は、確かに大きな力を持っています。でも、それを使う人の心によって、破壊にも救済にもなり得るのではないでしょうか」


 彼は眼鏡を押し上げながら続ける。


「少なくとも私は、リーゼさんの魔法を見て恐怖を感じたことはありません。むしろ、仲間を守ろうとする強い意志を感じていました」


 ウェデリアは涙を拭いながら、リーゼの手をそっと取った。その手は冷たく震えている。


「ねえ、リーゼ。覚えてる?」


 ウェデリアの声は優しく、懐かしい記憶を呼び起こすような響きを持っていた。


「卒業試験の時、あなたの魔法が虹を作り出したことを」


 その言葉に、リーゼの表情がわずかに和らぐ。確かに覚えている。ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤとの戦いの後、自分の魔法の光がウェデリアの水と混じり合って、美しい虹を生み出した瞬間を。


「あの虹は、あなたの魔法が作り出した美しいものだった。破壊じゃない、希望の光だったのよ」


 ウェデリアの言葉に、リーゼの目に涙が浮かぶ。しかし、彼女は必死にその感情を押し殺そうとする。


「でも……」


 リーゼは震え声で反論しようとする。


「たとえそうだったとしても、今の私にはもう魔法は使えない。もう二度と使えないかもしれない」


 彼女は自分の手を見つめる。


「そして、使えないだけならまだいいの。でも、行き場を失った魔力がいつか暴走して、本当のマナヴィフマを引き起こしてしまうかもしれない。母のように、大切な人たちを……」


 言葉が詰まり、リーゼは下を向く。


「だから私は離れるべきなの。みんなから。みんなを危険にさらす前に」


 その言葉を聞いて、ウェデリアは立ち上がった。そして、リーゼの頭に手を添え、自分の胸に抱き寄せる。


「だめだよ、そんなこと言っちゃ」


 ウェデリアの声は涙で震えていたが、その中に強い意志が宿っていた。


「ここにいるみんなは、リーゼを厄災だなんて思わない。リーゼが自分を信じられなくても、リーゼを信じているみんなのことを信じて」


 リーゼはウェデリアの温かい胸に顔を埋め、友の心音に耳を澄ませる。規則正しく、力強く響くその音が、どこか懐かしく感じられた。


「ねえ、カリーナ先生に手紙で相談してみましょう」


 ウェデリアは優しくリーゼの髪を撫でながら提案する。


「先生なら、きっと何か解決策を知っているはず。返事が届くまで、私の家にいればいいから。一人で抱え込む必要なんてないのよ」


 本当は離れたくない。仲間でいたい。そんな素直な気持ちが、リーゼの胸に溢れてくる。長い間封じ込めてきた想いが、友の温かさに触れて溶け出していく。


 リーゼは何も言わずに、ただ小さく頷いた。その頷きには、諦めではなく、わずかな希望が込められていた。



 * * *



 ヴィエスティ・リンツが届けてきたリーゼからの手紙を、カリーナは眉間に皺を寄せたまま三度読み返した。美しい文字で綴られた文面は、しかし読み進むほどに彼女の心を重くした。彼女はリーゼの境遇については知っていた。カリュヴァ地方出身の母が引き起こしたとされる悲劇を。そして娘にまで向けられた厄災の子という疎ましい視線を。しかし、魔法を失うなど—そんな事になるとは。


 どのように導くべきか。カリーナの中に迷いが生まれる。彼女が信頼を寄せる教育方針は、教え子の言葉を信じ、その痛みに寄り添いながら成長を促すことだった。だが、今回ばかりは違う答えが必要かもしれない。


 やがて迷いを振り払うようにしてカリーナは立ち上がった。椅子の軋む音が、静まり返った執務室に小さく響く。そして魔導施設の長い廊下を歩き出す。ヒールが石畳を打つ甲高い音が、夕暮れの施設に規則正しく響いた。


 向かいから同じような音が聞こえてくる。歩いてくる人影は、短く切りそろえた銀色の髪と、年齢を感じさせない凛とした姿勢。カリーナの長年の友人であり、同僚のエレノアだった。


「やぁ、カリーナ。随分と深刻な顔をしているじゃないの。どちらまで?」


 エレノアの問いかけに、カリーナは足を止めることなく答える。


「えぇ、エレノア。先生のところまで」


 その答えを聞いたエレノアの片眉がぴくりと揺れた。魔導施設で「先生」といえば、地下深くに眠るあの存在以外にはない。


「そう。それは難問ね」

「えぇ、本当に難問よ」


 そう言って互いに軽い会釈を交わし、カリーナは歩みを進める。魔導施設の地下へと続く螺旋階段。エレノアの視線が背中に向けられているのを感じながら、カリーナは石段を一歩一歩降りていく。


 カリーナ達が教える魔導施設の歴史は古く、そして長い。どんな長い歴史にも必ず始まりがある。この施設も、魔法への飽くなき探究心を持つ一人の人物から始まった。彼女の名はロプトン・ティエドンヤノ。始祖とも称される魔導士の知識への執着心は、常人の理解を超えた狂気に等しいものだった。


 彼女が求める真理を手に入れるには、人の肉体の寿命はあまりにも短すぎた。故に彼女は禁忌とも言える魔法を使い、その魂を永久にこの地へと固着化させたのだ。


 地下の最深部。螺旋階段を降り切った先に広がる円形の空間で、カリーナの目の前に巨大な炎が揺らめいている。それは絶えず色を変え続ける七色の炎—ロプトン・ティエドンヤノその人であった。


「また来たのかい、カリーナ」


 炎から響く声は、年老いた女性のものだが、その奥に計り知れない叡智の深みを湛えている。カリーナは苦笑いを浮かべながら答えた。


「お会いするのは数年ぶりですよ、先生」

「私の時間感覚からすれば、数年なんて昨日のようなものさ。それで今日は何の相談事だい?随分と深刻そうな顔をしているじゃないか」


 カリーナは胸の内に溜めていた重荷を吐き出すように、リーゼの状況をロプトンに伝えた。マナヴィフマの悲劇に見舞われた母、厄災の子と呼ばれた過去、そして魔法を失った現在を。話し終えると、炎は静かに揺らめいた。


「マナヴィフマねぇ……」


 ロプトンの声に、どこか懐かしさが混じる。


「私がまだ二本の足で大陸を歩き回っていた頃からある古い伝承だね」

「えぇ、私も文献で読みました。制御を失った魔力が引き起こす破壊的な厄災だと」

「ふふっ……」


 ロプトンの笑いに呼応するように炎は大きく揺れる。その笑い声には、長い年月を生きた者だけが持つ、深い洞察が込められていた。


「ねぇ、カリーナお嬢ちゃん。あんたには想像もできないほど長い時間、私はここにいる。それはわかるね?」

「えぇ。もちろん存じております」


 そう言ってカリーナは静かに頭を下げる。施設の始祖への敬意を込めて。


「それだけの時間、私は外の世界を見続けているし、お嬢ちゃん以外にもたくさんの先人たちから話を聞いてきた。魔導士の系譜、災いの記録、様々な悲劇と奇跡をね。それでも—それでもだよ、カリーナ。本当のマナヴィフマが起こったなんて話は、一度として聞いたことがない」


 炎の色が深紅に変わる。


「まぁ、珍しい現象が起こることだってある。それは認めよう。だがね」


 ロプトンの声が厳しさを増した。


「考えてごらん、お嬢ちゃん。長い歴史の中で、ごくごく稀にしか発生しない現象が、たかだか家を一軒消し飛ばす程度の規模で、なぜ大陸全土に厄災として語り継がれているんだい?発生頻度の割には被害規模が小さすぎる。被害規模の割には恐れられすぎている。おかしいと思わないかね?」


 カリーナの額に冷や汗が浮かんだ。教え子の言葉を信じ、その傷に寄り添いながら導く—それがカリーナの教育者としての信条だった。しかし、その優しさが、かえってリーゼを苦しめていたのかもしれない。


「それは本当にマナヴィフマだったのかい?それとも—」


 ロプトンの言葉の真意を悟った瞬間、カリーナの心臓が早鐘を打った。


「失礼致します、先生」


 カリーナは深々と頭を下げ、踵を返して地下室を後にする。螺旋階段を登る足取りは来た時よりもずっと速かった。私はあの時、あの子の言葉を否定してあげるべきだった。一刻も早くリーゼに伝えなければならない。あなたは厄災の子などではない。あなたの母に起きたことは、きっと別の何かだったのだと。


おまけ話


この物語を通して一番難産だったのがこのエピソードになります。

過去にこんな感じの出来事があったというふわっとしたプロットで書き進めてたんですが、具体的な文章に落とし込むのに詰まって何ヶ月も進みませんでした。

ここを乗り越えてちゃんと完結まで進めれてよかったと自分では思っています。


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