第7話 喪失(ヘルッカ・スオムツ)
ウェデリア・ブレーデフェルト様へ、リーゼ・ノルシュトレームより。
ウェデリアは、見慣れた小さな文字で綴られた手紙を受け取った瞬間、言葉を失った。リーゼからの便りなど、夢にも思っていなかったのだ。二人が一緒に過ごした日々が、まるでつい昨日のことのように感じるし、遠い過去のできごとのようにも感じた。しかし、最後に別れた日の情景だけは、ウェデリアの心に深く刻まれている。
あの日、リーゼは寂しげな微笑みを浮かべ、ウェデリアから遠ざかっていった。その佇まいを見送りながら、ウェデリアの胸に不安が募った。もしかしたら、もう二度とリーゼに会うことはないんじゃないだろうか。そんな予感に囚われていた。だが、今、手紙を通じてリーゼからの便りがもたらされた。ウェデリアの予感は外れたようだ。
ベッドに横たわりながら、ウェデリアは手紙の内容を何度も読み返した。ルーカスやラースという仲間と共に、リーゼが会いに来るというのだ。時期についても大まかに書かれていた。簡潔な内容の手紙だったが、ウェデリアの心を大きく揺さぶるには十分だった。
「何だか悔しいな……」
思わず、ウェデリアはつぶやいた。魔導施設で三年もの間、リーゼと同じ部屋で過ごしてきたというのに、彼女がこうして誰かに手紙を書くような人だとは思ってもみなかった。私はリーゼのことを分かっていなかったのだろうか。それとも、新しい仲間たちとの出会いが、リーゼを変えてしまったのだろうか。そんな風に思いながら、ウェデリアは過去の記憶を辿りだす。
* * *
商家の娘として生まれたウェデリアにとって、家業は身近で親しみ深いものだった。父の営む店には様々な品物が並んでいたが、中でも彼女の心を捉えたのは、色とりどりの小瓶に詰められた香水だった。
朝の爽やかさを思わせる柑橘の香り、昼下がりの花壇を彷彿とさせる花の香り、夜の神秘を纏ったような深い香り。時間と共に変化していく香りの移ろいが、幼いウェデリアには魔法のように思えた。
いつか店を継いだら、もっとたくさんの香水を集めて、店へ訪れる人に素敵な香りを提案したい。それが彼女の小さな、けれど確かな夢だった。
だからこそ、十五歳の誕生日に女神ヴァルダから魔法の祝福を授かったとき、ウェデリアは戸惑った。
「私は冒険者にならなければいけないの?」
不安げな娘の問いかけに、父は優しく微笑んで答えた。
「魔法があるからといって、冒険者になる必要はない。危険なときに身を守る力があるというだけで、十分に価値のあることだよ」
父の大きな手が、ウェデリアの頭を包み込む。
「実は父さんにも、狩猟の祝福があるんだ。でも、この商売を選んだ。人は自分の道を選べるものなんだよ」
その言葉に、ウェデリアは目を見開いた。
「でもね、ウェデリア」父の表情が少し真剣になる。「魔導施設で学ぶのは良いことだと思う。魔法の技術だけでなく、人との出会いがある。商売人にとって一番大切なのは、人との縁だからね」
父の声に温かな確信が込められていた。
「きっと女神様が、お前の夢を叶えるために必要な人たちとの出会いを、用意してくれているんだろう」
その言葉が胸に響いた。私の魔法は、大切な人たちとの縁を結ぶために与えられたのかもしれない。
そうして期待と不安を胸に、ウェデリアは魔導施設への入学を決めた。
* * *
アストラリアの魔導施設に到着した日の午後、ウェデリアは割り当てられた寮の扉の前に立っていた。重い木の扉の向こうで、これから三年間を共に過ごす同室者が待っている。
深呼吸をして、扉を開く。
窓辺に座る少女の横顔が、夕陽に照らされて浮かび上がった。青みがかった黒髪が肩で揺れ、白い肌が光を受けて輝いている。綺麗だ、とウェデリアは率直に思った。けれど同時に、そのたたずまいには触れてはいけない何かがあるような気がした。
「あなたが同室の子ね。私はウェデリア。ウェデリア・ブレーデフェルトよ」
できるだけ明るく、そして自然に声をかける。
少女はゆっくりと振り返った。伏し目がちでありながら、力強い光を湛えた瞳がウェデリアを見つめる。
「よろしく。私はリーゼ。リーゼ・ノルシュトレーム」
短く、けれど丁寧な挨拶。その声音には、優しさと同時に距離を置こうとする意志が感じられた。まるで『ここから先には踏み込まないでください』という見えない境界線を引いているかのように。
ウェデリアは微笑みを浮かべたまま答えた。
「よろしくね、リーゼ」
その瞬間、自分の心の中で何かが決まった。この人の引いた線を、無理に越えようとはしない。でも、その線の手前で、精一杯の明るさで接していこう。いつか、きっと——その線が自然に消える日が来ることを信じて。
父の言葉を思い出す。人との縁を大切にすること。きっとリーゼとの出会いにも、意味があるのだろう。
それから三年。ウェデリアは持ち前の明るさで、常にリーゼに寄り添い続けた。決して踏み越えてはいけない一線を守りながら、それでも諦めることなく。
だが今、手にした手紙を読み返しながら、ウェデリアは思う。
あの三年間で、私はリーゼとの距離を縮めることができただろうか。それとも、ただ一方的に見守っていただけだったのだろうか。
新しい仲間たちの名前を見つめながら、ウェデリアの胸に小さな嫉妬にも似た感情が宿った。彼らは、私が三年かけても越えられなかった境界線を、いとも簡単に越えてしまったのかもしれない。
でも、それでも——。
リーゼが元気でいること、仲間がいること、そして自分のことを覚えていてくれたこと。それだけで十分に嬉しかった。
手紙を大切に折り畳み、ウェデリアは小さくつぶやく。
「また会えるね、リーゼ」
* * *
トゥルークから南へ半日の距離に位置するイェブレの村。石造りの家々が寄り添うように建ち並ぶ小さな集落で、リーゼたちは一夜の宿を取っていた。
「んで、ヘルッカ・スオムツって、どんな怪物なんだ?」
村外れの森へ向かう細い道を歩きながら、ラースは振り返ってリーゼに問いかける。その表情には、いつもの威勢の良さとは裏腹に、わずかな不安がにじんでいた。
「まさか、何も知らないで依頼を受けたの?」
リーゼは足を止め、呆れたような表情でラースを見つめる。
「困ってるって言われたら、放っておけないだろ!それに、村の人たちの顔を見てたら——」
言い訳するラースの視線が、なぜかルーカスに向けられる。リーゼも同じようにルーカスを見ると、彼は明らかに視線を逸らしながら苦笑いを浮かべていた。
「ルーカスも賛成したの?」
恨みがましい口調でリーゼが問いかけると、ルーカスは観念したように小さくため息をついた。
「村長さんが、本当に困り果てた様子で……それに、ラースさんの熱意に押し切られたというか」
責める気持ちを抑えるように深呼吸して、リーゼは説明を始める。しかし、その声には不安が滲んでいた。
「ヘルッカ・スオムツは——」
リーゼの脳裏に、魔導施設で学んだ知識が蘇る。カリーナ先生の授業で見た図版、そこに描かれた異形の鳥の姿。
「鳥に似た怪物だけど、翼は退化していて飛べない。二本の強靭な脚で大地を駆け回る地上性の生物。巨大なクチバシで地面を掘り返して、地中の生物を食べて生きてる」
暗記した図鑑の文章をそのまま読み上げるようなリーゼの言葉に、ラースは興味深そうに頷く。
「それなら、そんなに危険じゃなさそうだな」
「甘いよ、ラース」
リーゼの表情が曇る。
「縄張り意識がとても強いの。侵入者と判断されたら、そのクチバシで容赦なく襲いかかってくるし、致命傷を与えるのに十分な破壊力を持ってる」
「防御力はどうなんだ?」
「体表は硬い鱗で覆われてるけど、そこと比較したら腹部は比較的柔らかいっぽいよ。何よりも――」
リーゼは歩みを止める。
「聴覚がとても発達してるの。私たちが気づく前に、向こうが先に察知する可能性が高い」
「なるほど、不意打ちは難しいってことか」
事の発端を思い出してリーゼの不安は深まった。村に到着した時、買い出しから戻ると、ラースとルーカスがすでに依頼を受けていたのだ。
イェブレの村は、ラモッタヤという植物の産地として知られている。その植物に含まれる麻痺成分は、狩猟用の毒や罠に欠かせない貴重な素材だった。しかし、採取地にヘルッカ・スオムツが住み着いてしまい、村人たちは近づくことができなくなっていた。
沈黙が続くリーゼを気遣うように、ルーカスが声をかける。
「リーゼさん、怒ってますか?」
「怒ってはいないよ」
そう答えながらも、リーゼの胸には複雑な感情が渦巻いていた。ヘルッカ・スオムツは、冒険者が恐れるような強大な怪物ではない。むしろ『一人でヘルッカ・スオムツを討伐できることが、駆け出し冒険者の卒業試験』とさえ言われる相手だった。
だが、それは十分な準備と経験があってこその話だ。
「ねぇ、ルーカスさん」リーゼは振り返る。「ヘルッカ・スオムツの討伐経験はある?」
「ありません。そもそも私は、討伐依頼を受けるタイプの冒険者ではありませんから」
「そうだよね」
リーゼは心の中で計算する。ラースの様子からして、彼にも経験はないだろう。つまり、三人ともヘルッカ・スオムツとの戦闘は初めてということになる。
群れではなく、一匹で怪物と称される種族。魔法を躊躇してはいけない。たとえ使いたくなくても、仲間を守るためには——。
「なあ、もしかしてあれか?」
ラースの声に、リーゼは現実に引き戻される。彼が指差す先、森の入り口付近に何かの影が見えた。
夕陽に照らされて、地面を熱心に啄む姿。細く長い首の先には、頭部の大部分を占める巨大なクチバシ。時折見える丸い瞳は、意外にもつぶらで愛らしい。長い脚は地面をしっかりと掴み、安定した姿勢を保っている。
リーゼは瞬時にその大きさを測った。ラースの背丈を二回りほど大きくしたような体格——思っていたより大きい。
ヘルッカ・スオムツは首周りの襟飾りを小刻みに震わせながら、地中から人の頭ほどもある石を咥え上げた。その動きは驚くほど素早く、見た目の重厚さとは裏腹に軽やかだった。
長い尻尾を左右に振り、退化した翼を小刻みに震わせる様子は、どこか儀式的で神秘的にすら見える。
そして——パキッ。
乾いた音が森に響いた。硬い石が、まるで木の枝のように砕け散る。
「何をしてるんだ?」
ラースの疑問に、ルーカスが首を傾げる。
「遊んでいるんでしょうか?石を砕いて楽しんでいるとか」
その答えを聞いて、ラースの表情が緩んだ。まるで暇つぶしに小石を蹴って遊ぶ子供のよう——そんな印象を抱いたのだろう。警戒心が薄れていく様子が、手に取るようにわかる。
リーゼの背筋を、嫌な予感が走り抜けた。
「ラース、気をつけて——」
警告の言葉が終わる前に、それは起こった。
ラースが無意識に剣の柄に手をかけた瞬間、わずかな金属音が鳴る。
ヘルッカ・スオムツの動きが止まった。
石を咥えたまま、ゆっくりと首を回転させる。その動きには、機械仕掛けの人形のような不気味さがあった。円らな瞳が、まっすぐにラースを捉える。
次の瞬間、首周りの襟飾りが花のように開いた。
鮮やかな緑と茶色の幾何学模様が、扇状に広がる。体のサイズを倍以上に見せる威嚇でもあり、こちらの音をよく聴く集音器のような役割——リーゼの記憶に刻まれた知識が、目の前の現実と重なる。
甲高い鳴き声が森を貫いた。
それは鳥の鳴き声というより、金属を引っ掻くような不快な音だった。リーゼの鼓膜が痛みを訴え、思わず両手で耳を塞ぐ。
ヘルッカ・スオムツの瞳が、危険な光を帯びた。咥えていた石を吐き捨て、巨大なクチバシを戦鎚のように振り上げる。
「まずい——」
「行くぞ!」
リーゼの危機感など意に介さず、ラースは剣を抜いて駆け出した。
本来なら作戦を立て、役割分担を決めてから戦闘に入るべきだった。しかし、ラースの行動は早すぎる。リーゼはルーカスと視線を交わす間もなく、状況に対応するしかなかった。
振り下ろされるクチバシに向かって、ラースは正面から剣を振るう。金属が空気を裂く鋭い音。その巨躯からは想像できないほど軽やかに、ヘルッカ・スオムツはラースの攻撃をかわした。そして、体を回転させながら長い尻尾を鞭のように振るう。
「うわっ!」
ラースは咄嗟に身を屈めた。頭上を掠める尻尾の風圧が、彼の金髪を乱す。空気を切り裂く音が、耳元で不吉に響いた。
「くそっ!」
体勢を立て直したラースは、今度は低い姿勢から脚を狙って剣を振るう。だが、ヘルッカ・スオムツは退化した翼を羽ばたかせて軽々と後方に跳躍した。
舞い上がる砂埃が視界を遮る。リーゼは目を細めながら、戦況を把握しようと努める。
「素早い野郎だ!」
ラースの苛立った声が聞こえる。彼の呼吸が既に荒くなり始めていた。普通に剣を振るうより、空振りを続ける方がはるかに体力を消耗する。このままでは——。
「ラース、一度下がって!」
リーゼは左手に魔力を集中させる。体内を流れる青白い光の奔流を、指先に収束させていく。魔法を放つ——これまで一度も外したことのない、確実な一撃を。
ヘルッカ・スオムツの動きを予測し、最適な射線を計算する。怪物は規則的に左右に動いている。次の瞬間、必ず右に動く——。
「エク・ブーリロ!」
指先から放たれた閃光が、空気を焼きながら目標に向かって飛ぶ。光の矢は音速を超え、回避不可能な軌道で——ヘルッカ・スオムツは、首を僅かに傾げただけで閃光をかわしていた。魔法は怪物の横を素通りし、背後の大木を貫いて消える。焦げた樹液の匂いが鼻をつく。
「そんな——」
言葉にならない衝撃が、リーゼの全身を麻痺させた。
避けられるはずがない。光速で飛ぶ魔法を、どうやって回避したというのか。これまで一度として外れたことのない魔法が——。
その一瞬の隙を、ヘルッカ・スオムツは見逃さなかった。
「リーゼ!危ない!」
ラースの絶叫が響く。時が止まったように、リーゼは迫り来る巨大なクチバシを見つめた。槌のように振り下ろされる凶器が、自分の頭上に迫っている。光を反射して、不吉に輝いている。
死——その言葉が脳裏を過ぎる。
「させるかっ!」
ラースがヘルッカ・スオムツの背中に飛びかかる。剣を両手で握り、全体重を乗せて振り下ろした。
しかし、怪物は彼の動きを予測していたかのように体を回転させる。巨大なクチバシがラースの胸を捉え、人形のように弾き飛ばした。
鈍い衝撃音。ラースの呻き声。それとほとんど同時に、長い尻尾がリーゼの腹部を打った。内臓が圧迫される激痛。視界が白く染まり、呼吸が止まる。体が宙に浮き、重力を忘れたように舞い上がった。
そして——激突。
地面に叩きつけられる衝撃で、リーゼの意識が途切れそうになる。肺から空気が押し出され、苦しみながらも息を吸おうとする。
「ラースさん!リーゼさん!」
遠くからルーカスの声が聞こえる。絶望に染まった叫び声。
霞む視界の中で、リーゼはルーカスの表情を見た。普段の冷静さは跡形もなく、ただ無力感に苛まれている。何もできない——そんな絶望が、彼の顔に刻まれていた。
三人の心に、同じ言葉が浮かんだ。
全滅。
ヘルッカ・スオムツは勝利を確信したかのように、再び甲高い鳴き声を上げる。そして、とどめを刺すためにゆっくりと近づいてくる。
リーゼの意識が、深い闇の中に沈んでいく。
最後に見えたのは、夕陽に照らされた怪物の巨大な影だった。
* * *
森の奥、古い樫の木の陰で一人の女性が戦いの一部始終を見つめていた。
ハンナ・アールバリ。腰まで伸びるカーキ色の髪を夕風になびかせながら、彼女は冷ややかな視線で三人の戦闘を観察していた。帝国で訓練兵の教官を務めていた経験が、目の前の光景を的確に分析する。
前衛の動きは素人同然。怪物の習性を理解せず、闇雲に突撃を繰り返している。中衛は状況把握ができておらず、適切な支援も指示も出せない。魔導士に至っては、一度の失敗で完全に動揺してしまっている。
「レベルが低すぎる……」
思わず漏れた呟きに、自分でも呆れる。ラグナールは一体何を考えて、こんな三流冒険者たちの護衛を命じたのか。この程度の実力では、たとえ今回助けたところで、すぐに野垂れ死にするのが関の山だろう。
だが、命令は命令だ。
「アヌリーゴ」
ハンナは認識阻害魔法を解除する。周囲の空気が微かに揺らぎ、隠蔽されていた存在が現実に姿を現した。同時に、体内の魔力を練り上げていく。
――深淵より響き渡る古の旋律よ。その調べに乗せて我が言葉に力を与えよ。渦巻く音の海原にて、溺れ足掻きたまえ。
詠唱の声は囁くように小さい。しかし、ヘルッカ・スオムツの鋭敏な聴覚はその音を即座に捉えた。怪物は首を回転させ、新たな脅威の存在を探る。その瞬間、身構えるように金切り声をあげる。
戦場にいたルーカスも、突然現れた人影に気づく。別の冒険者か、それとも——混乱する思考の中で、彼は新たな希望を見出そうとした。
「カプトゥルナ・ソノンド」
ハンナの唇から呪文が紡がれた瞬間、空気が震えた。
見えない音の奔流が、ヘルッカ・スオムツの頭部を直撃する。圧縮された音圧が三半規管を激しく揺さぶり、怪物の巨体がふらつく。平衡感覚を失った怪物は、その場で翼をばたつかせながらよろめいた。
「今だ!」
好機を見逃さず、ラースは最後の力を振り絞って剣を構える。露わになった腹部——唯一の弱点に向けて、全身の力を込めて刃を突き立てた。
鈍い手応えと共に、剣が深々と肉に沈む。そのまま上方に引き裂くように剣を動かすと、ヘルッカ・スオムツは甲高い断末魔の悲鳴を上げた。緑がかった血液が噴き出し、巨体が地面に崩れ落ちる。
返り血を袖で拭いながら、ラースは恩人に向き直る。
「助かった。ありがとう」
素直な感謝の言葉を口にするラースを、ハンナは無表情で見つめた。そして、ゆっくりと二人に歩み寄る。その足音は、まるで審判者が法廷に向かうように厳かで冷たい。
「君たちは、ヘルッカ・スオムツの討伐経験が豊富だったりするのかな?」
皮肉を込めた問いかけに、ラースは言葉を詰まらせる。
「いや……」
「だろうね」
ハンナは冷淡に言葉を重ねる。その声には、失望と軽蔑が入り混じっていた。
「不慣れな怪物相手に事前観察もせず、作戦も立てずに闇雲に突撃する前衛。状況判断ができず、適切な支援も指示も出せない中衛。一度の失敗で戦意を失う魔導士」
容赦ない分析が、まるで解剖刀のように三人の問題点を切り分けていく。
「君たちは自殺志願者か?それとも、怪物討伐というものを心底舐めているのか?」
ハンナの視線がラースを捉える。まるで訓練場で未熟な兵士を叱責する教官のような、冷酷で的確な眼差し。
「ヘルッカ・スオムツは優れた感覚器官を持つ怪物だ。人間の動きや魔力の波動を先読みして行動する。だが、それでも習性がある。利き脚の方向にしか回避しない、回転方向も一定——少し観察すれば分かることだ」
ラースは反論しようとして、口を開きかける。しかし、言葉は出てこない。確かに、戦闘中にそんなことを考える余裕はなかった。
ハンナの視線がルーカスに移る。
「観察ができないなら、動きを封じればいい。音で驚かす道具も、脚を止める罠も、なぜ何も用意していない?」
ルーカスは蒼白になって口を開くが、やはり言葉にならない。準備不足だった——それは紛れもない事実だ。
「そして——」
ハンナの視線が、地面に倒れたままのリーゼに向けられる。
「あそこで倒れている魔導士は、なぜ仲間に助言の一つもしなかった?知識があるなら、それを共有するのが魔導士の役割だろう」
その言葉に、ラースとルーカスははっとしてリーゼに駆け寄る。彼女は地面に横たわったまま、浅く荒い呼吸を繰り返している。
「おい、リーゼ!しっかりしろ!」
「リーゼさん、これを飲んでください」
ルーカスが回復薬を差し出すが、リーゼの焦点の定まらない瞳は虚空を見つめたままだ。
ハンナも近づき、リーゼの状態を観察する。魔導士としての経験が、彼女の症状を即座に理解させた。
「自分の魔法が外れた程度で、ここまで動揺するとはね」
冷たい評価を口にしながら、ハンナはリーゼから立ち上る魔力の乱れを感じ取る。それは単なる疲労や負傷によるものではない。もっと根深い、精神的な損傷の兆候だった。
「ああ、もう駄目だね、その子は」
断定的な言葉が、静まり返った森に響く。
「駄目って、どういうことだ!」
ラースが食ってかかる。その必死さとは対照的に、ハンナは医師が診断を下すような冷静さで答えた。
「死ぬという意味ではない。だが、魔導士としては終わりだ」
ハンナの視線がリーゼの蒼白な顔に注がれる。
「魔法は思念の具現化だ。この子の魔法が『絶対に避けられない閃光』だとしたら——それが否定された今、再び同じイメージを描くことは困難だろう」
「つまり、どういうことなんだ?」
ラースの問いかけに、ハンナは小さくため息をつく。
「簡単に言えば、この子はもう魔法を使えない」
宣告は、まるで死刑判決のように重く響いた。夕暮れの森に、絶望的な静寂が降りる。
ハンナは振り返ることなく、森の奥へと歩み去ろうとする。その背中に向かって、ラースが叫んだ。
「待てよ!お前は何者なんだ!」
足を止めることなく、ハンナは答える。
「通りすがりの冒険者だ。たまたま君たちの無様な戦いを見かけて、助けただけ」
嘘だった。だが、真実を告げる理由もない。
「それより、その子を早く街に運んでやることだね。魔法だけでなく、命まで失わせたいなら別だけど」
最後の忠告を残して、ハンナの姿は夕闇の中に消えていった。
残されたのは、重い沈黙と、リーゼの荒い呼吸音だけだった。
* * *
カーレリア王国トゥルークの城。その中にある外界の音を完全に遮断した応接室。厚い絨毯と重厚なカーテンに包まれた密室に、重苦しい空気が漂っていた。
窓から差し込む夕陽が、室内を血のような赤で染めている。その光の中で、ラグナール・レイクヴィクはゆったりとした動作でグラスを手に取った。煉瓦色の液体が光を受けて輝く。
「ご機嫌はいかがですか、ベンクト・フォシュマン公爵」
テーブルを挟んで向かい合う男——ベンクト公爵は、明らかに不機嫌そうな表情を浮かべていた。小太りな体躯を窮屈そうに椅子に収め、額には薄っすらと汗を浮かべている。
「相も変わらず、といったところだよ」
その答えには、苛立ちが隠しきれずに滲んでいる。
ベンクト公爵は指で机を軽く叩きながら続けた。
「探りを入れてみたがね、確かに貴族の中には帝国の思想に理解を示す者もいる。だが民衆は違う。彼らは現状に満足している」
「なるほど」
ラグナールは相槌を打ちながら、葡萄酒を一口含む。その仕草は優雅で、まるで午後の茶会を楽しんでいるかのようだった。
「王室も同じ考えでしょうね。長い平和に慣れ親しんだ人々にとって、変化は脅威でしかない」
ベンクト公爵は机に肘をつき、ため息をこぼす。
「そういうことだ。永劫に続くとは限らない平和だというのに、彼らはそれに気づこうとしない」
その言葉を聞きながら、ラグナールは内心で苦笑した。おそらくベンクトは、もっと都合の良い報告をするつもりだったのだろう。帝国からの報酬を確実に手にするために。あるいは、将来の地位向上を約束してもらうために。
だが、現実は甘くない。
「公爵」
ラグナールはグラスを置き、穏やかな笑みを浮かべる。その表情には、まるで古い友人に語りかけるような親しみがあった。
「人の心を動かすのは、理屈ではありませんよ。恐怖や怒り、憎しみ——そうした原始的な感情こそが、人々を結束させるのです」
ベンクトの眉が僅かに動く。
「大多数の民衆は、生涯を通じて怪物と出会うことなく暮らしています。そんな彼らに『未開拓区域の脅威』を説いたところで、所詮は他人事でしかありません」
ラグナールは立ち上がり、窓辺へと歩を進める。カーテンの隙間から覗く街の風景——建国祭の準備で賑わう人々の姿が見える。
「では、どうすれば彼らに現実を理解させることができるでしょうか?」
振り返ったラグナールの手には、小さな暗い色の瓶が握られていた。それをゆっくりとテーブルの中央に置く。ベンクトの視線が瓶に向けられる。
「何だね、それは?」
警戒を込めた問いかけに、ラグナールは満足げに微笑む。
「帝国の錬金術師が開発した、特別な薬品です。シーヴィ・ケイルメを誘引する効果があります」
その名前を聞き、ベンクトは眉間に皺をよせる。シーヴィ・ケイルメ——群れをなして飛来し、毒液を撒き散らす忌まわしい怪物。
「まさか……」
「もうすぐカーレリア王国の建国記念日ですね」
ラグナールは瓶を指で軽く回転させながら、まるで天気の話でもするような軽やかな口調で続ける。
「毎年恒例の祝砲に、この薬品をほんの少し混ぜるだけです。風に乗って運ばれた香りが、シーヴィ・ケイルメの群れを引き寄せることでしょう」
ベンクトの手が小刻みに震える。
「君は——君は私に、領民を危険に晒せというのか?」
その問いかけに、ラグナールは心底可笑しそうに笑い声を上げた。
「危険?公爵、それは過大評価というものです」
再び席に戻り、ラグナールは自信に満ちた表情で語る。
「トゥルークには精鋭の兵士が何人駐屯していますか?最新の大砲は何門配備されていますか?シーヴィ・ケイルメなど、所詮は数だけが取り柄の下等怪物です。訓練された軍隊なら、容易に撃退できるでしょう」
「しかし——」
「多少の負傷者は出るかもしれません」
ラグナールの声に、わずかな冷たさが混じる。
「ですが、それがどうしたというのでしょう?むしろ、それこそが必要なのです」
立ち上がったラグナールは、まるで舞台で演説するかのように両手を広げる。
「想像してみてください、公爵。怪物の襲撃に怯える民衆を、あなたが勇敢に指揮して撃退する姿を。血を流しながらも民を守り抜いた英雄として、あなたの名が歴史に刻まれる瞬間を」
ベンクトの瞳に、野心の炎が宿り始める。
「民衆は気づくでしょう。平和など、いつ破られるかわからない脆い幻想に過ぎないと。真の安全を得るためには、より強大な力——帝国の力が必要だと」
ラグナールの声は次第に熱を帯びてくる。
「あなたは単なる一地方の領主ではなくなる。民衆に愛され、貴族に尊敬される真の指導者となるのです、ベンクト・フォシュマン公爵」
その言葉に、ベンクトの心は完全に捕らえられた。権力への渇望、名声への憧れ、そして何より——これまで軽んじられてきた自分が、ついに真の英雄になれるという誘惑。
それらすべてが、彼の理性を麻痺させていく。
「確かに……それは素晴らしい機会かもしれない」
ベンクトの声は震えていたが、それは恐怖ではなく興奮のためだった。
「民衆の犠牲など、大義の前では些細なことです」
ラグナールは満足げに頷く。その瞳に宿る光は、まるで獲物を捉えた捕食者のそれだった。
「では、お決まりですね」
「ああ……決まりだ」
ベンクトは瓶を手に取る。その小さな容器の中に、数百人の運命が封じ込められているとも知らずに。
応接室に沈黙が降りる。夕陽が西に傾き、部屋を照らす光がさらに深い赤に変わっていく。
ラグナールは椅子にもたれながら、窓の向こうに見える街並みを眺めた。祭りの準備に勤しむ人々、笑い声を上げて走り回る子供たち——やがて訪れる悲劇を知る由もない、平和な日常。
その光景を見つめながら、ラグナールの口元に冷たい笑みが浮かんだ。
計画は完璧だった。そして、誰も真実を知ることはないだろう。
* * *
薄い光が差し込む宿屋の窓。リーゼは重いまぶたをゆっくりと開けた。視界がぼんやりと定まらず、天井の木目が霞んで見える。身体を起こそうとして、全身を襲う鈍い痛みに思わず顔をしかめた。
イェブレの村まで、ラースに背負われたまま帰ってきたのだという。気を失ってから丸二日が経っていた。
目が覚めて最初に感じたのは、体の中の空虚感だった。まるで内側から何かが抜け落ちたような——いや、それは比喩ではない。これまで常に感じていた魔力の温かな流れが、冷たい風の通り道に変わっている。まるで血管に氷水が流れているかのような、慣れ親しんだはずの感覚の完全な変質。
指先でそれを掬い取ろうとする。だが、水が指の間をすり抜けるように、魔力は彼女の意思に応えない。
「リーゼ!」
ラースの安堵の声が響く。椅子に座っていた彼が勢いよく立ち上がり、ルーカスも本を閉じて振り返る。二人の顔には、深い疲労の色が浮かんでいた。きっと看病で眠れなかったのだろう。
「ごめん……迷惑かけて」
申し訳なさでいっぱいになり、リーゼは頭を下げる。顔を上げる気力もない。自分が情けなくて、仲間の優しさが重荷に感じられる。
「何言ってるんですか」
ルーカスは穏やかに微笑む。その表情には、迷惑だったなどという感情は微塵もない。
「仲間が怪我をしたら看病するのは当然でしょう。それに……」
そこでルーカスは言葉を止める。迷惑以前に自分は何の役にも立てなかった、と言いかけて、その言葉を飲み込んだのだ。
「でも、どうやって討伐したの?」
リーゼの問いに、ラースとルーカスは顔を見合わせる。そして二人は正直に事の顛末を話した。ラースの歯切れの悪い説明と、ルーカスの補足。戦いの最中に現れた謎の女性の圧倒的な実力。そして最後に告げられた、冷酷な宣告。
「でも、ほんと助けてもらったのは感謝だけどよ」
ラースは立ったまま、苦笑いを浮かべる。
「あの女、絶対に性格悪いぜ。人のこと散々こき下ろした挙句、最後にリーゼはもう魔法が使えないとか言い出すしよ。そんなの信じる必要ねぇって」
馬鹿馬鹿しいと笑うラースだが、その声の奥に隠しきれない不安が混じっている。まるで自分に言い聞かせるような、必死さが滲んでいた。
リーゼは彼から視線を逸らし、沈黙する。カリーナ先生の言葉が脳裏に蘇る。
『魔法とは思いの具現化です』
思い描けないものは、決して形にならない。では逆に、形にならないということは——。
「リーゼさん……どうしました」
ルーカスが心配そうに声をかける。リーゼの表情がさっと青ざめていくのを見て、彼の胸に不安が募った。その問いかけに答えず、リーゼは自分の手のひらをじっと見つめる。かつてはここから魔法が放たれた。閃光という名の、決して外れることのない光の矢が。今はただの、魔力の欠けた普通の手。
そっと魔力を練ろうとする。体内の流れに意識を向ける。かつて感じていた体内での温かな渦が起きない。何度試しても、まるで誰かが内側から蛇口を閉めたように、魔力は感じ取れない。まるで心臓が止まっているのに、身体だけが動いているような恐ろしさ。
恐怖が背筋を這い上がる。
「その人の言ってる事は……本当かもしれない」
何とか言葉を絞り出す。自分で言うことで、その現実を受け入れようとしているかのように。声が震えているのを隠すことができない。
「おい、何言い出すんだよ、リーゼ」
ラースの声には、今度ははっきりと焦りが混じっている。冗談じゃないという表情で、彼女を見つめる。
「確かに魔力が、練れない。まるで……」
リーゼは震える声で続ける。
「自分の中の何かが、死んでしまったみたい」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が重くなった。ラースはタチの悪い冗談は止めろよ、と口にしようとする。だが、リーゼの蒼白い表情と震える手を見て、その言葉を飲み込んだ。彼女が嘘をついているのではないことが、痛いほど伝わってくる。
ラースは片手で髪の毛を掻きながら、力なく椅子に腰を下ろした。
「そうだとしても……きっと一時的なものですよ」
ルーカスがそう励ますが、その声にも確信は込められていない。魔法を失うということが、どれほど深刻な事態なのか、彼にもわからないのだ。
リーゼの心は晴れない。他の魔導士であればそうかもしれない。でも、自身の魔法を嫌っている私が、再びそれを思い描く事ができるだろうか?
魔法を失ったことで解放された気持ちと、何か大切なものが永遠に失われたという恐怖。相反する感情が、胸の中で渦を巻いていた。
長い沈黙の後、リーゼは小さな声で呟く。
「私は……パーティから抜けるべきだろうね」
言葉にした瞬間、目に涙が浮かぶのを感じた。それを必死に堪える。
「何を言い出すんですか!」
ルーカスが珍しく強い口調で立ち上がる。普段の冷静さはどこへやら、明らかに動揺していた。
「だってそうでしょう!」
リーゼは声を荒げる。
「魔法も使えない魔導士が何の役に立つっていうの!ただの足手纏いにしかならないよ!」
自分の無力さが怒りに変わる。外に向けた怒りは、内なる恐怖を隠すためのものだった。自分が惨めすぎて、優しい仲間たちに八つ当たりしている自分がさらに嫌になる。
魔法だけの問題じゃない。カリーナ先生に教わったことすら、私はできていなかった。
『最悪の事態を想定し、それに対処する準備を怠らないこと』
そうしていれば……ヘルッカ・スオムツの動きを読み、適切に回避できたかもしれない。仲間を危険に晒すこともなかったかもしれない。リーゼの心の中で、魔法の喪失と冒険者としての失敗が結びつき、自分への信頼が音を立てて崩れていく。
後悔に唇を噛むリーゼを見つめ、ラースがゆっくりと口を開く。
「とりあえずよ……リーゼもトゥルークの街には行くんだろ」
彼の声は、いつもの威勢の良さとは違って、穏やかで優しかった。
「だったら、そこに着いてから考えようぜ。俺たちには魔法の事はよくわからないからよ。リーゼの友達も魔導士なんだろ?話を聞いてもらおうぜ」
ラースの言葉にリーゼは、ウェデリアの顔を思い浮かべる。いつも明るく笑いかけてくれた、唯一の親友。
だが同時に、胸が締め付けられる。
こんな情けない姿を、彼女にどうやって見せればいいのだろう。仲間の足を引っ張り、自分への信頼すら失ってしまった私を。魔法という彼女との繋がりさえも、失ってしまったというのに。