第6話 不吉(クオレ・マコトカ)
ウープストンデルーセの山道は、徐々にその様相を変えていった。道に転がる石の数が増え、岩のように大きくなっていく。時折、身の丈ほどもある巨大な落石が目に入る。それらを避けながら進む一行の足音が、静寂の山に響いていた。その単調なリズムとは対照的に、リーゼの脳裏では昨夜の出来事が繰り返し蘇っていた。
「クオレ・ヴォイッタヤ。そんなものが、本当に存在すると思っているんですか?」
ルーカスの口調は厳しく、まるで詰問するかのようだった。
「それは分からないね」
ラグナールは特に感情を込めずに答える。
「でも、神話や伝承というのは人の手で書かれたものだ。だとすれば、そのまま同じ形でなくとも、それに近しい何かが存在していても不思議じゃないと思わないかい?」
リーゼの知る限り、少なくともアストラリアでは、死者が蘇ったという記録は一切ない。そんな馬鹿げた話だと一蹴してしまえたはずなのに、どこかで引っかかってしまうのは、プリモール・ダスクロロスとの遭遇があったせいかもしれない。あの時も、伝承と現実が交錯する瞬間を体験したのだから。
「おい、見つけたぞ!これだろ、ルーカス」
先行するラースの声で我に返る。リーゼはルーカスと共に、ラースの下へと駆け寄った。目の前に広がるのは、まるで絨毯のように敷き詰められた透き通るような紫色の花々だった。薄紫の花弁が風に揺れ、淡い芳香が鼻腔をくすぐる。ルーカスが手元の地図を確認する。
「リーラクッカの花ですね。ハンプスさんが教えてくれた場所とも一致します」
「さて、君たちはどうするんだい?」
ラグナールの問いかけに、ラースが怪訝な顔を見せる。
「どうするって、どういう意味だよ」
「だって、君たちの本来の目的はこのリーラクッカの採取なんだろう?僕がクオレ・マコトカの討伐を行うんだから、ここで引き返すという選択肢もあるはずだ」
ラグナールの言うことは正論だ。ルーカスもそう考えていた。そもそも、クオレ・マコトカの討伐を検討していたのは、紫痕病が終息しなかった場合を想定した二次的な目的でしかない。だが――。
「冗談じゃない。町の人たちに『他の冒険者が討伐に向かったから大丈夫だ』なんて言えるわけがないだろ!」
ラースならそう言うだろうな、とルーカスは予想通りの言葉を聞いて苦笑した。
「まぁ、どちらでも構わないよ。ただし」
そう言ってラグナールが指差したのは、頭上の空だ。三人が見上げると、大空を悠々と舞う影が目に入った。クオレ・マコトカだ。四メートルほどにもなる巨大な翼を広げ、まるで死神のように優雅に旋回している。その数は見える範囲で四羽程度。
「上空には十分気をつけた方がいい。ここは既に、彼らの縄張りの中だからね」
ラースは宙を舞うクオレ・マコトカを睨みつける。無論、ラースの剣が届く距離ではない。歯噛みするような悔しさが彼の表情に浮かんだ。
「奴らが疲れ果てて降りてくるまで待つしかないのか」
「そう簡単に疲れ果てることはないと思うよ。クオレ・マコトカは見た目に反して驚くほど軽いんだ。一週間ぐらいは飛び続けることができるらしい」
「じゃあ、どうすればいいっていうんだ」
ラースの不満げな問いかけに、ラグナールが静かに答える。
「巣だよ」
「巣?」
「そう、ラグナールさんの言う通り。クオレ・マコトカの巣に突入すれば、私たちは排除されるべき侵入者とみなされる。向こうから襲いかかってくるはずだよ」
リーゼの説明に、ラースは納得したように頷いた。ルーカスが口を開く。
「では、進みながら巣を探しましょう。ところで、ラグナールさん。クオレ・マコトカの巣がどんなものか、ご存知ですか?」
「実物を見たことはないんだけどね。どう表現したらいいか……普通の鳥の巣みたいなものだよ。地上にある、巨大な鳥の巣」
こうして四人がリーラクッカの群生地を後にしたとき、真っ先に声を上げたのは先頭を歩くラースだった。
「おい、なんだよ、これ!」
ラースの眼前にはリーラクッカの美しい紫とは対照的に、緑色の絨毯のような苔が不気味に広がっている。それだけではない。無数に転がる人や野生生物の死骸。損傷が激しく、中には白骨化したものもある。腐臭が鼻を突き、思わず顔をひそめたくなる光景だった。
「クオレ・マコトカの穀倉ってところだろうね」
ラグナールは静かにつぶやく。クオレ・マコトカは死体を集めて、高いところから落としてついばむ。ここにあるのは、まさにそうやって集められた死体達だ。その光景が与える不気味さを誤魔化すように、ラースは乾いた笑いを浮かべながらつぶやく。
「なぁ、ルーカス。この苔がクオレ・ヴォイッタヤ……なんて話はねぇよな」
ラースの言葉にルーカスは深いため息を返す。
「そんな伝承の植物が、こんな無造作に広がってるわけがないでしょう」
「だよなぁ……」
その会話を聞いていたかのように、視界の向こう側で何かが動いた。四人は息を呑む。
「そ、そんな馬鹿な!」
ルーカスの顔から血の気が引き、腰が抜けたかのように尻餅をつく。緑の絨毯の一番向こう側で、死体がゆっくりと——まるで眠りから覚めるように——動き出したのだった。
* * *
その死体は、まるで生前の意志を思い出すかのように、苔と地面の境界線まで這うようにゆっくりと進み、そこで糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「まだ生きてた……なんて事は、無いよね?」
リーゼが言葉を紡ぐ。その声には、恐怖と驚愕が混じり合い、わずかに震えていた。その声に、ラースは蒼白な顔で首を振る。
「背中が苔に覆われるまで虫の息で生きてるやつなんていねぇよ……それに、もう動かねぇ」
動揺する三人を横目に、ラグナールはまるで研究者のような冷静さでナイフを取り出し、足元にある苔を削り取る。そして、刃の上に乗った緑の塊をじっと見つめて、呆れた口調でつぶやく。
「なるほど……これがクオレ・ヴォイッタヤの正体か。解ってみればつまらない話だ」
「どういう事だよ」
ラースが問いかける。ラグナールはそれに答えず、ルーカスの前でしゃがみ込み、ナイフに乗せた苔を突き出した。
「ルーカスくんは、植物に詳しいんだよね。これをどう見る?」
ルーカスは差し出された苔を注意深く観察する。今までに学んだ知識を総ざらいするするように、眉間に皺を寄せながら思考を巡らせていた。
「これは……クオレ・ペイテに似ていますね」
「そう。死体に生える苔、クオレ・ペイテの類似種だろうね」
「ルーカスさん、そのクオレ・ペイテって何なの?」
リーゼの疑問にルーカスは答える。クオレ・ペイテは動物の死体に生え、その死体を栄養源として繁殖する植物だ。クオレ・ペイテに覆われた死体は通常より早く分解され、苔ごと消滅する。自然の循環の一部を担う、決して悪意ある植物ではない。
「そんな害の無い植物って事か……って、じゃあさっきの動く死体は何なんだよ」
ラースが困惑を隠せずに疑問を口にする。
「これは僕の推測だが、この類似種は死体全身に神経のように根を張り巡らせて、まるで操り人形のように死体を動かして生息範囲を広げるんだろうね。死によって静止した肉体を動かす——確かに伝承通りだよ。魂の回帰には程遠いけどね」
皮肉のこもった声でラグナールは言う。誰に問うというわけでもなく、リーゼの口から新たな疑問が溢れる。
「ねぇ、これがクオレ・ペイテの類似種だとして、こんなに大規模に増殖するものなの?」
ルーカスは考え込むように眉を寄せながら答えた。
「おそらく、分解する速度よりも死体の供給量が多いからじゃないでしょうか。クオレ・マコトカが運んでくる死骸が、苔の処理能力を上回っている。それで生息範囲がどんどん広がっているんだと思います」
「だとしたら、リーラクッカの群生地はどうなるの?このままだと飲み込まれちゃうんじゃ……」
リーゼの言葉が示す危機感に、ラグナールは静かに口を開く。
「クオレ・マコトカより先にやるべき事ができたみたいだね。ルーカスくん、油を持ってるよね。火を付けてくれないか?」
「持っていますが、これらを全て燃やせるほどの量では……」
「いいから頼むよ」
穏やかに笑うラグナールには有無を言わせない迫力があった。ルーカスは渋々と油を撒き火を付ける。だが、水分を多く含んだ苔は簡単には燃えない。小さな炎がちろちろと舐めるだけで、火の勢いはあっという間に弱まっていった。
その時、ラグナールの低い声が響く。
――目覚めよ内なる種よ。高揚せよ、その感情を。汝の名は暴君なり。その姿は進軍なり。
詠唱?とリーゼは驚く。確かにラグナールは魔法を使えると言っていた。でも、本当に祝福の洗礼も無しに魔法を使えるなんて。戸惑いを隠せない表情を浮かべるリーゼを横目に、ラグナールは厳かに詠唱を続ける。
――万物を飲み込む熱波となり、己が魂の叫びに応えよ。そして自らを灰燼に帰さん。
「フラモ・アルティーゴ!」
ラグナールが呪文を唱えた瞬間、ルーカスの付けた小さな火が猛獣のように激しく燃え上がった。炎は瞬く間に広がる苔を飲み込み、散乱した死骸も全てを業火に包んでいく。その光景を見て、ルーカスは自分の村が炎に包まれた記憶が脳裏に浮かび、思わず目を逸らした。
「僕の魔法は火を生み出すわけじゃなくて、燃焼を加速させる魔法でね。どうにも使い勝手が悪いんだ」
天に届きそうな火柱を背に、ラグナールは謙遜するように言う。しかし、その威力は謙遜など必要としないほど圧倒的だった。
「すげぇ……」
それを見ながらラースは思わずつぶやく。パチパチと爆ぜる音と共に、全てを飲み込む炎の轟音だけが山の静寂を破り続けていた。空気が熱で歪み、立ち上る煙が夕空を黒く染めている。
* * *
見える限りのクオレ・ペイテを燃やし尽くし、火は静かに消えた。風に舞う灰が舞い踊り、焦げた匂いが鼻腔を刺激する。ラースが白い灰を見つめながら口を開く。
「これで、クオレ・ペイテは無くなったって事でいいのか?」
ラースに視線を向けられたラグナールは、困ったように口元を緩ませる。そして、助けを求めるような目でルーカスに視線を送る。その無言の合図に気づいたルーカスは、苦笑いを浮かべながらラースに説明を始めた。
「いえ、ラースさん。野生の植物はそんな簡単に根絶できるものじゃないです。胞子や根の一部が残っていれば、いずれ再生するでしょう。もっとも、あれほど異常に増殖していなければ、本来は問題のない植物ですし」
「つまり、後はクオレ・マコトカを討伐したら問題なしって事だな?」
「そういうことになりますね」
四人は辺りを警戒しながら、足音を殺すようにして進んでいく。山の静寂が戻り、時折聞こえる風の音だけが彼らの緊張を和らげていた。そして、巣を最初に見つけたのはリーゼだった。
「見つけたよ。あれでしょ」
リーゼが指す先には、直径四メートルほどの巨大な巣が堂々と鎮座していた。地面に無造作に置かれているように見えるその巣は、丁寧に編み込まれた木の枝で作られ、まるで職人が織り上げた籠のような美しさを持っていた。
クオレ・マコトカは集団で一つの巣を共有する。まるで人間の共同住宅のように。そのため、常にいずれかの個体が巣を守っている。彼らにとって、巣を隠す必要などないのだ。強者の余裕とでも言うべきか。
そして、巣を守る一羽のクオレ・マコトカは、リーゼ達の姿を認めると、まるで警鐘を鳴らすように甲高い鳴き声で仲間に警戒の合図を送った。
その声を聞いた瞬間、ラグナールは電光石火のように巣に向かって駆け出す。そして、剣を抜くと同時に、クオレ・マコトカの細い首を一閃のもとに両断した。鮮血が地面に散り、首を失った怪物がばたりと倒れる。
「さあ、集まってくるよ。君たちも巣に入った方がいい」
ラグナールに急かされるように、三人も巣の中に駆け込んだ。外観から感じた固さとは裏腹に、巣の内部は柔らかな羽毛や植物の繊維が敷き詰められ、足が心地よく沈み込むような感触だった。足元を見たラースの視界に、薄青色の殻を持つクオレ・マコトカの卵が飛び込んでくる。
「こいつも壊しといた方がいいよな」
「いや、ラースくん。今はまだダメだ」
卵に手を伸ばそうとするラースを、ラグナールは制するように言う。
「卵のように守るべきものがあるからこそ、彼らは巣を必死に守ろうとするんだ。もしそれがなければ、逃げ出してしまうだろう。卵は最後に処理しよう」
ラグナールの戦術的な判断に頷き、ラースは視線を上空に向ける。警戒の鳴き声に呼応するように、集まった六匹のクオレ・マコトカが、大空で不吉な弧を描きながら旋回している。その影が地面に交錯し、まるで死神の輪舞のようだった。
「二匹、増えてますね」
ルーカスは緊張した面持ちでそう言い、乾いた喉に唾を飲み込む。リーゼはそんなルーカスを横目に、短剣の柄を握りしめながら言った。
「これで全部だといいけどね」
クオレ・マコトカたちは、まるで意思を疎通させるかのように、耳障りな鳴き声を交わし合う。やがて、バラバラに散るように旋回を止め、空中で静止したまま、鋭い鉤爪を四人に向けた。獲物を品定めするような、冷たい視線。
「来るぞ!」
ラースの叫び声が合図となったかのように、クオレ・マコトカ達は一斉に急降下を始めた。風を切り裂く翼音が、戦いの始まりを告げる。
彼らには冒険者を掴み、上空に持ち上げる力がある。だが、それだけだ。彼らが怪物に分類されるのは、致命的な危険性があるからではない。ただ、不快で迷惑な習性を持つ生物だからだ。それ故、経験を積んだ冒険者が彼らに遅れを取る理由はない。
リーゼは、向かってくる一羽の鉤爪を身をひねって華麗に交わすと、その胸元に短剣を突き立てた。突き刺さる刃に、肉が抵抗するのを手に感じながら、彼女は体重をかけるようにしてクオレ・マコトカの胸元を深く切り裂く。その勢いに負けるように足元に叩きつけられたクオレ・マコトカの首元を、リーゼは容赦なく踏みつけた。
長時間の飛行に特化して進化したクオレ・マコトカの骨格は軽くて脆い。骨が砕ける嫌な感触を踵に感じながら、リーゼは次なるクオレ・マコトカへの警戒を怠らない。しかし、振り返ってみると、残りのクオレ・マコトカは、すでに仲間の手によって討伐されていた。巣の中には、七つの死骸が無惨に転がっている。
「余裕だったな」
そう言いながら剣を鞘に収めるラースの向こうで、不意に木々がざわめいた。
「まだ居る!」
リーゼの鋭い叫びに、三人はその視線の先を追う。一匹のクオレ・マコトカが、木々の間から空へと舞い上がっていく。
逃げられてしまう――そう感じたリーゼは、遠ざかるクオレ・マコトカに狙いを定めるように左手を突き出した。
「エク・ブーリロ!」
放たれた閃光は一筋の光の矢となって、上空のクオレ・マコトカを正確に貫いた。羽ばたきを止めたその身体が、石のように落下して木々を激しく揺らした。
それを見たラグナールは驚愕の表情を浮かべる。
「今のが、リーゼくんの魔法かい?」
戦いの緊張から解放されるように深く息を吐いて、リーゼは無言で頷いた。感心するようにラグナールは興味深そうな笑みを浮かべる。
「僕もたくさんの魔導士を見てきたけどね。初めて見たよ、無詠唱魔法とはね。素晴らしい才能じゃないか」
褒め称えるようなラグナールの言葉に、リーゼの表情は僅かに曇った。まるで暗雲が晴れ間を覆うように。そのやり取りを、ルーカスは黙って見つめていた。彼女の心の内に渦巻く複雑な感情を、ルーカスは察することしかできない。
* * *
三人はラグナールと別れ、リーラクッカの採取を終えるとトールニオへの帰路についた。険しい山道を下り、見慣れた街並みが視界に入ってきた頃、ルーカスは肩の荷が下りたような表情で口を開いた。
「ラグナールさんが居てくれて本当に助かりましたね。我々だけでは、クオレ・ペイテの大量発生に対処できなかったかもしれません」
「まぁ、確かにすげぇ魔法だったけどよ。でも、リーゼだって負けてねぇと思うぜ」
後ろを黙って歩いていたリーゼは、ラースの突然の言葉に戸惑いを隠せない。
「そんな事はないと思うけど……」
「そうかぁ?あれは絶対に、リーゼに言ってたんだと思うけどな」
リーゼの脳裏に、別れ際のラグナールの言葉が鮮明に蘇る。
『君たちはまだ旅を続けるんだろう?ぜひ、帝国にも来て欲しいよ』
ラグナールは、やや大袈裟な身振りを交えながら続けていた。
『広い世界を自分の目で見たうえで、帝国という国を実際に体感して欲しい。色々な誇張された噂じゃなくて、自分の感覚で判断してみてほしいんだ。そうすれば、きっと我々は分かり合えるはずだよ』
そう言って、ラグナールは意味深な笑みを浮かべていた。
野営の時にも、似たような事を言われたような気がする。リーゼはそんなことを考えていた。だが、別れ際の言葉には、それ以上の重みが込められていたように感じられる。まるで特別な意図があるかのような——。それは、私の魔法を目にしたからだろうか?そんな考えを、リーゼは首を振って否定する。きっと、ラグナールはどんな人に対しても、あのように話すのだろう。
リーゼの思考を中断させるように、大きな声が響き渡った。
「お前ら、戻ってきたのか!」
トールニオの町から、ハンプスが息を切らしながら駆けつけてくる。その顔には安堵と期待が混じり合っていた。ルーカスもハンプスに歩み寄りながら、リーラクッカを詰めた鞄を外して手渡す。
「これが採取してきたリーラクッカです。十分な量があると思います。それでは、薬の調合に取り掛かりましょう」
「いや、調合まで手伝ってもらうのは申し訳ないよ。町の連中でどうにかするさ。お前らは疲れてるだろう?ゆっくり休んでいってくれ。本当にありがとうな!」
ハンプスはそう言うと、大切そうに鞄を抱えて足早に町へと戻っていった。
「慌ただしいおっさんだよな、ハンプスさんも」
ラースは笑いながら、ルーカスの肩に親しみを込めて手を置く。
「でもよ、あの明るい顔を見る限り、きっと誰も重症化してないんだろうな。本当に良かったぜ」
「ええ、そうですね」
ルーカスは心から安堵したように微笑む。故郷の村での苦い記憶が、ほんの少しだけ癒されたような気がしていた。
「荷物を部屋に置いて、少し休憩したら、祝杯でも挙げに行きましょうか」
* * *
石畳の道を歩く三人の前に、小さな広場が見えてきた。夕暮れの光が石造りの建物を温かく照らしている。そこでラースは、聞き覚えのある声に振り返る。
「ラースのにいちゃん!」
手を振りながら駆け寄ってくるのは、出発前にクオレ・ヴォイッタヤの事を教えてくれた少年だ。息を弾ませながら、期待に満ちた瞳でラースを見上げている。
「なぁ、見つかったか?」
「ああ、それがな……」
目を輝かせる少年を前に、ラースは言葉に詰まる。何と答えるべきか迷いながら、ラースはゆっくりと腰を落とし、少年と同じ高さで視線を合わせた。
「残念だけど、ウープストンデルーセでクオレ・ヴォイッタヤは見つからなかったよ」
「そっか……」
少年の肩が小さく落ち、落胆の色を隠せない。その表情を見て、ラースの胸が痛む。だが、彼は少年の両肩に優しく手を置き、力強く語りかける。
「でもな、それは俺たちが本当に必要としていなかったから、見つけられなかっただけかもしれないし、他の山にあるのかもしれない。もし、それを見つけたいと思うなら、冒険者になって自分の力で見つけなきゃな!」
「俺なんかが、本当になれるかな……」
戸惑う少年の頭を、ラースは兄のように優しく撫でる。
「大丈夫さ。お前がそう心から望むなら、きっとなれるし、見つけられるって。俺が保証する」
少年は力なく頷いたが、やがて何かを決意した表情でどこかへ駆けていった。その小さな後ろ姿を、ラースは父親のような優しい眼差しで見守る。やりとりを黙って見ていたリーゼは、呆れたような、それでいてどこか羨ましそうな表情で口を開く。
「あんまり、無責任な事は言わない方がいいと思うけど」
「いいんだよ」
ラースは立ち上がり、リーゼたちを真っ直ぐに見据える。
「人が前に進むには原動力が必要なんだ。夢だってそうだろ?周りがそれを簡単に潰しちゃダメさ。俺だって、そうやって今まで歩いてきたんだから」
ラースの笑顔には、夢や憧れを糧に生きてきた者ならではの揺るぎない自信があった。だからこそ、リーゼは複雑な表情を浮かべる。自分にはそんな純粋な原動力があるだろうか——。
「お前らだってそうだろ?何かしら、前に進む理由があるはずだ」
「どうかな……よくわからないや」
そう言い残し、リーゼはラースに背を向けて歩き出す。
「おい、どこ行くんだよ」
「郵便屋。手紙出してくるの」
腰のポーチから取り出した手紙を見せるように振りながら、リーゼは店に入っていく。
「なぁ、ルーカス。郵便屋って何だ?手紙なんて配送依頼で運ぶもんじゃねぇの?」
「トールニオぐらいの町であれば、町と町を繋ぐ連絡網があるんですよ。あの郵便屋の屋根を見ていてください。小さな穴があるでしょう」
ルーカスが指差した辺りを、ラースはぼんやりと眺める。しばらくすると一羽の鳥が力強く飛び立っていく。足元には先ほど、リーゼが見せた手紙らしきものが結びつけてあった。ルーカスは感心するように言う。
「ヴィエスティ・リンツという鳥なんです。町間を行き来するよう調教された賢い鳥で、人よりもずっと速く確実に運べます。まぁ、安全性で言えば冒険者への依頼の方が確実ですけどね」
「へぇ、便利なもんがあるんだな。使った事無かったよ」
郵便屋から出てきたリーゼに、ラースが好奇心旺盛に問う。
「誰に手紙を出したんだ?」
「カーレリアまでもうすぐでしょ。ウェデリアに、もうすぐ訪ねに行くからっていう連絡をしたの」
「ウェデリアって、リーゼの友達なんだよな?」
不思議そうな顔でラースは首を傾げる。
「そうだけど、それがどうかした?」
「いや、親友相手なんだろ。そんな事、事前に連絡しなくても『おう!久しぶり!』ぐらいのノリで突然訪ねてもいいんじゃねぇの?」
呆れ果てたように、リーゼは深いため息と共に肩を落とす。
「ねぇ、ラース。あなた、女の子にモテた事ないでしょ」
「はぁ?どういう事だよ、それ!」
「ああ、お腹減った。ごめんね、ルーカスさん。待たせちゃって。さ、行こっか」
ルーカスは苦笑いを浮かべながら、リーゼの後を歩き出す。
「おい、ちょっと待てよ、お前ら!俺の質問に答えろよ!」
ラースの必死の抗議の声が、夕暮れのトールニオの町に響き渡った。
* * *
ウープストンデルーセの中腹、岩に腰を下ろしたラグナールが眼下に広がる森を見下ろしていた。夕陽が山肌を赤く染め、木々の影が長く伸びている。静寂に包まれた山の空気の中で、彼はさも当然のことのように声をかけた。
「なぁ、ハンナ。その辺にいるんだろ。出てこいよ」
風で木々が揺れる音にかき消されるような、ささやくような声が空気に響く。
「アヌリーゴ……」
まるで霧が晴れるように、ラグナールの背後に一人の女性が姿を現した。ラグナールと同じ黒い服に身を包み、腰まで伸びるカーキ色の長い髪が山の風になびいている。その髪の隙間から覗く瞳が、刃のように冷ややかな視線をラグナールに向けていた。
「何か用?」
「相変わらず見事だね、君の認識阻害魔法は」
振り返ることなく、ラグナールは称賛するように言葉を続ける。
「姿だけじゃなく、匂いも気配も完璧に遮断できる。こんなすぐ後ろにいるなんて、思いもしなかったよ」
にこやかに微笑みながら、ラグナールはようやくハンナを見上げる。長い沈黙が二人の間に流れた。やがてハンナは、諦めたように小さく息を吐く。
「お褒めいただき光栄です……それで、何の用でしょう。まさか、久しぶりに顔が見たかっただけとか言いませんよね?」
「もちろんさ。君にお願いしたいことがあってね」
ラグナールは立ち上がり、背に負った白いコートの裾を風になびかせる。
「ずっと僕を見てたなら、一緒にいた三人のことは分かるだろ」
「ええ、よくもあんな出鱈目をスラスラと語れるものだと感心していました。それが何か?」
ハンナの皮肉を気にする素振りもなくラグナールは続ける。
「奇遇にも、彼らの目的地は僕らと同じカーレリアらしい。せっかくの縁だ。あの駆け出しの冒険者たちが無事にカーレリアに到着できるよう、影ながら助けてあげてほしいんだ」
予期していなかった言葉に、ハンナの眉がわずかに動く。
「少佐、一体何を考えているんですか」
「せっかく知り合った仲じゃないか。無事にカーレリアまで来てほしいと思わないかい?」
ラグナールの言葉を反芻しながら、ハンナはその真意を探ろうとする。彼の表情に浮かぶ笑みの裏にある意図を読み取ろうと。
「つまり、道中で死ぬくらいなら、カーレリアで死んでほしいということですか?」
「まさかぁ、そんなことは言っていないよ」
そう言ってラグナールは肩をすくめ、無邪気に笑ってみせる。だが、その青みがかったグレーの瞳には、別の光が宿っていた。
「ただ、彼らには知ってもらいたいんだ。私たちのこの世界が、どれだけ厄災と隣り合わせで不安定なものかということをね。そう……カーレリアで起ころうとしている厄災でね」
その言葉に、ハンナの表情がわずかに強張る。カーレリアで起ころうとしていること。それがどれほどの惨事をもたらすか、彼女もまた知っているのだ。
「そう……まぁ、あまり期待はしないでね」
ハンナは顔を背けながら、静かに詠唱を口ずさむ。その声は風に溶け込むように小さく、しかし確実に魔力を編み上げていく。
――古き水面に漂う霧よ。深き深淵に眠る夢よ。閉ざされし扉の向こう。ああ、貴方には届かぬ言葉よ。
「ペルセプト・イゾラード」
まるで最初から誰もいなかったかのように、ハンナの姿は夕闇に溶けるように消えていった。空気がわずかに揺れるだけで、彼女がそこに存在していた証拠は何も残らない。
「恐ろしいね。まったく」
一人残されたラグナールが、誰に言うでもなくつぶやく。そして、ゆっくりと立ち上がると、白いコートの襟を立てた。
「さて、どうにも気が重いね。会いたくない人の元に行くのは……まぁ、これも仕事か」
ラグナールは遠くの地平線を見つめる。そこにはトゥルークの街があり、そして運命の舞台が待っている。何かの前触れのように、ウープストンデルーセに吹いていた風が静かに止んでいた。まるで世界そのものが、これから起こる出来事のために息を潜めているかのように。
おまけ話
また名前の話になりますが、意味のある単語を組み合わせて用語を作っているのですが、「クオレ」は「死の~」といったニュアンスの単語になります。
その結果、死体を運ぶものとか、死に打ち勝つとか、死体にはえるとかの意味で用語を作った結果、全部クオレ何とかになって逆にわかりにくくなったのは、どうなんだろうと自分でも思っています。