第5話 回帰(クオレ・ヴォイッタヤ)
エヴェラス大陸の西にある大国アストラリア。その北東に隣接する王国カーレリア。三人は小規模な依頼をこなしながら、カーレリアへの旅を続けていた。木立を縫って走る馬車の中で、短剣の鞘を磨くリーゼの姿を見て、ルーカスの脳裏に一つの疑問が浮かんだ。
魔導士とは、そもそもどの程度の頻度で魔法を使うものなのだろうか。
リーゼの魔法を目にしたのは、ダスクロロスとの戦いでただ一度きりだった。その後もいくつかの依頼をこなしたが、彼女が魔法を使う素振りはなかった。
魔法に関するルーカスの知識は限られている。魔導士が体内の魔力を用いて魔法を発動させるということぐらいは知っていたが、それ以上の詳しいことは分からない。一度の魔法でどれほどの魔力を消耗するのか。戦闘中、魔力をどの程度温存するものなのか。一般的な魔導士の立ち回り方も、まるで見当がつかない。
これまで受けてきた依頼は、採取や警護といった比較的危険の少ないものばかりだった。運悪く怪物と遭遇した時も、ラースの剣で事足りていた。戦闘の機会が限られていたのだから、魔法を使わなかったのも納得がいく。ルーカス自身、矢で援護する程度の役割だったのだ。
それでも、疑問は膨らんでいく。リーゼの表情には時折影が差す。まるで何かを抱え込んでいるような、重い沈黙。それは魔法と関係があるのだろうか。
思い切って尋ねてみようか——そう思い、ルーカスはリーゼに視線を送る。するとリーゼも、その視線に気づいたのか、不思議そうな表情を見せた。
「どうかしたの?ルーカスさん」
リーゼの言葉に、ルーカスは口を開きかけた。しかしそこへ、先頭を歩むラースの声が割って入る。
「見えてきたぞ。トールニオの町だ」
ラースの声に、ルーカスは抱いた疑問を胸にしまい込んだ。別に今でなくても良いだろう。そう考えて、ラースの言葉に続ける。
「いえ、だいぶカーレリアに近づきましたね」
「そうだね。ここでも、いい感じの依頼があるといいね」
* * *
トールニオはハーマンマーからカーレリアへと向かう途中にある町だ。険しい山々に囲まれ、冷たい風が吹きつける環境の中にたたずんでいる。決して快適とは言い難い土地柄のため、ここを拠点にして活動する冒険者もいない。旅人が移動の際に少し休むのにちょうどいい町——まさに谷間の町といえる場所だった。
そんな町なので、冒険者組合に出される依頼も、さほど緊急性のない些細なものばかりだろう。そんな気持ちで冒険者組合の扉を開いたリーゼ達の目に、予想もしていなかった光景が飛び込んできた。
「とにかく!今すぐ動けそうな冒険者はいないのか!」
がっしりした体格の男が、受付の男を強い口調で問い詰めている。受付カウンターの中にいる初老の男は、困惑の表情を浮かべながら、必死に男をなだめようとしていた。
「とりあえず落ち着いてくれ、ハンプス。お前さんだって、この町の冒険者事情ぐらい解ってるだろ」
「そんな事は解ってる!」
ハンプスと呼ばれた男は、受付の机を拳で強く叩く。木製の机がきしみ、今にも壊れるんじゃないかと思うほどの大きな音が響いた。物々しい雰囲気に圧されながら、ルーカスは恐る恐る声をかける。
「あの……どうかされましたか?」
ハンプスは余計な連中に構ってる場合じゃないとでも言いたげな顔つきで振り返る。そして、ラースの装備を見て目を大きく見開いた。
「おい、あんたら冒険者か?」
「ああ、その通りだ」
力強く答えたラースに向かって、ハンプスはすがるような表情で歩み寄った。
「助けてくれ!紫痕病が発生したんだ!」
「紫痕病ですって!」
ハンプスの言葉を聞いたルーカスが、思わず大声を上げる。その反応の激しさに驚いて、リーゼはルーカスを見上げた。その顔は血の気が引いて青ざめ、わずかに震えているようにも見えた。
* * *
紫痕病――それはエヴェラス大陸で時折発生する厄介な疫病だった。初期症状は頭痛や発熱、倦怠感といった風邪に似た兆候から始まるため、多くの人がその深刻さに気づくことなく日常を過ごしてしまう。それこそがこの病の最も恐ろしい点だった。
やがて病状が進行すると、皮膚に赤い斑点が現れ始める。それは痒みを伴いながら全身へと広がり、患者はようやく自身の異常を自覚する。しかし、その頃にはすでに手遅れだ。感染力の高いこの病気は、知らぬ間に周囲へと拡散されている。
最終段階では、斑点が徐々に紫色へと変色していく。高熱により意識は混濁し、呼吸困難におちいる。運良く一命を取り留めたとしても、脳に記憶障害が残り、皮膚に刻まれた紫の痕は二度と消えることはない。それゆえに紫痕病と呼ばれるのだ。
「なんて言うか、タチの悪い病気だね」
ルーカスの説明を聞いて、リーゼは率直な感想を口にする。隣に座るラースも、同意するように深く頷いた。
紫痕病の治療には、リーラクッカという花から抽出されるエキスが必要となる。近くの群生地としてはトールニオ近郊、ウープストンデルーセという山にあるのだが、最近そこにクオレ・マコトカという怪物が出没するようになったため、冒険者に採取してきて欲しい――それがハンプスの依頼内容だった。三人はその依頼を受けることにする。
「でもよ、ルーカス。話を聞く限りじゃ、進行すると相当ヤバい病気なんだろ?だったらさっさと出発した方がいいんじゃないか?」
ラースがもっともな疑問を口にする。しかしルーカスは、出発前に町の調合師を何人か集めて欲しいとハンプスに頼んでいた。
「それはですね――」
「おう!とりあえず三人ばかりかき集めてきたぜ!」
説明しようとするルーカスの言葉を遮るように、冒険者組合の扉が勢いよく開かれた。ハンプスに連れられてきた調合師たちを見て、ルーカスは駆け寄るように立ち上がる。そして懐からメモを取り出し、彼らに手渡した。
「ここに書かれている素材の在庫は十分にありますか?」
一人の調合師がメモに目を通し、うなずいた。
「不足しているものはないな。だが、この組み合わせで何を作るつもりだ?」
「素材一覧の下に調合手順も記してあります。これから実際にお見せしますので、手順を覚えてください」
そう言ってルーカスは鞄から素材を取り出し、手慣れた様子で調合を始める。その光景を眺めながら、ハンプスが疑問を口にした。
「お前さん、一体何を調合してるんだ?リーラクッカがないと薬は作れないはずなんだが」
「これはヤルキスオヤという薬です。紫痕病の根治にはなりませんが、病気の進行を遅らせ、後遺症の発生を抑制する効果があります」
「そんな薬があるのか」
ハンプスは感心したような表情でルーカスの手元を見つめたが、次第に何をしているのかさっぱりわからないという顔になる。やがて諦めたように、離れたテーブルで待つリーゼたちの元へとやってきた。
「なぁ、お前さんらの仲間は、やけに紫痕病に詳しいようだが、元々は医者か何かなのかい?」
ハンプスの問いかけに、リーゼとラースは顔を見合わせて首をかしげる。
「医者だとは聞いてないけどね」
「俺たちだって初めて聞く話ばかりだよ」
「そうか。何にせよ、ヤルキスオヤなんて薬は初めて耳にしたよ」
ハンプスはそう言いながら、二人のテーブルにウープストンデルーセの地図を広げる。
「今のうちにリーラクッカの群生地について説明しておこう。あっちはまだまだ時間がかかりそうだからな」
* * *
薬の数は多いに越したことはない――そう言ってルーカスは、今日一日を調合の手伝いに費やすことにした。ウープストンデルーセへの出発は明日の朝。リーゼとラースは、その準備のための買い出しに向かう。
「遠くまで行くわけじゃねぇから、保存食はそんなに多くなくてもいいよな」
「ハンプスさんの説明だとそうだけど。でも何が起こるかわからないし、多少の余裕は持っておいた方がいいと思う」
二人はそんな会話を交わしながら、石畳の道をゆっくりと歩いていく。通りに面して並ぶ木造の家々の向こうに、小さな広場が姿を現した。広場の外周に沿うように店が軒を連ね、その中央には古い祠が静かに鎮座している。人々の手で丁寧に手入れされているのか、清楚な花々で丁寧に飾られていた。
「信心深い町なんだな」
祠を眺めながらラースがつぶやく。山間から吹き下ろす冷たい風が髪を乱すのを押さえながら、リーゼが応える。
「厳しい環境で暮らす人ほど、神々に縋りたくなるっていうからね」
「ふーん、そういうもんか」
ラースはそう言って祠に歩み寄る。そこには一人の老婆が静かに手を合わせていた。
「すみません。この祠は何を祀っているんですか?」
老婆は振り返り、ラースの旅装束を値踏みするように見つめる。そして疲れをにじませた微笑みを浮かべながら答えた。
「旅の冒険者さんかい。キホラ様を祀っているのさ」
「キホラ様?リーゼ、知ってる?」
リーゼは小さく首を横に振る。
「やれやれ、若い子はそんなもんかねぇ。それじゃあ、トゥオネラ様はどうだい?」
「ああ、それなら知ってるぜ。冥界を司る神様だろ」
ラースは得意げに答える。その様子を見て、老婆は深く頷いた。
「キホラ様はね、トゥオネラ様のお后様でね。死者の魂を冥界へと導く案内役をなさっているのさ。ハンプスが騒いでたけど、あんたたちかい?ウープストンデルーセに行く冒険者ってのは」
「ああ」
ラースが頷くと、老婆は山に視線を向けながら続ける。
「あの山はね、数ある冥界への入り口の一つでね、トゥオネラ様の御領域なのさ。きちんと祈っておいた方がいいよ。間違って冥界に迷い込まないようにとね」
老婆に促されるように、ラースは祠の前に膝をつき、目を閉じて両手を合わせる。その敬虔な姿を満足そうに見守った老婆は、静かにその場を立ち去っていった。入れ替わるように、リーゼがラースの隣に歩み寄る。
「ラースって意外と信心深いのね」
「まあ、それなりにってところかな。戒律を厳格に守るとか、そこまで熱心じゃないけど、普通程度にはね」
「そうなんだ」
「リーゼはそうでも無いんだな」
「そうだね。あまり興味がないかな」
ラースは立ち上がり、大きく背伸びをする。
「まあ、人それぞれだからな。さっさと買い出しを済ませちまおうか」
そう言って、ラースはリーゼと連れ立って店の方へと向かった。
その少年がラースに話しかけてきたのは、一通りの買い出しを終えて宿へ戻ろうとした時のことだった。
「なあ、兄ちゃんたち、ウープストンデルーセに行く冒険者なんだろ?」
駆けてきたのだろうか、小さな肩で息を切らしている。年の頃は十歳にも満たないように見えた。
「そうだけど、どうかした?」
「頼みがあるんだ」
少年は幼い顔に真剣な表情を浮かべ、ラースをまっすぐに見つめた。その瞳には、子供らしからぬ強い意志の光が宿っていた。
* * *
遥か昔、生きたまま冥界の扉をくぐった男がいた。男は最愛の妻を失い、その魂を現世に取り戻すため、死者の王トゥオネラに嘆願したのだ。哀れに思った神は男に告げる――冥界の入り口に生える苔を妻に与えよ。死に打ち勝つ苔、その名はクオレ・ヴォイッタヤ。
「それで、その苔がウープストンデルーセにあるって話なんだよ!すげぇだろ、ルーカス!」
宿に戻ってきたルーカスに向けて、ラースは目を輝かせながら興奮気味に語りかける。しかし、その様子を見たリーゼは呆れたような表情で首を振った。
「子供が聞かせてくれた昔話でしょ、ラース」
「でも、そういう伝承が残ってるってことは、何かしら根拠があるってことじゃないか?」
熱意のこもった問いかけに、ルーカスは苦笑いを浮かべる。
「申し訳ありませんが、私もリーゼさんの意見に賛成ですね」
「それより、ルーカスさんって元々医者だったりするの?ハンプスさんが不思議がってたよ。紫痕病についてやけに詳しいって」
不満そうに口を開こうとするラースの言葉を遮るように、リーゼが話題を変える。ルーカスの表情が一瞬曇った。
「医者だなんて、とんでもない。ただ……」
ルーカスは言葉を濁した。そして、二人の顔を見てしばしうつむいた。
「いえ、お話ししておきましょう。私が育った村で、紫痕病の大流行があったんです」
そう前置きして、ルーカスは遠い夕焼けを見つめるような瞳で、静かに語り始めた。まるで封印していた記憶の扉を、そっと開くかのように。
ルーカスの故郷は、エヴェラス大陸の片隅にある小さな集落だった。風に揺れる麦穂と、子供たちの笑い声が響く、穏やかな村。冒険者が立ち寄ることもない僻地で、住人たちは皆が皆、産声を上げた時から知り合いの、大きな家族のような場所だった。
朝露に濡れた草花を踏みしめながら薬草摘みに出かける母。頬を赤く染めて駆け回る幼馴染みたち。静かな声で子どもたちに昔話を聞かせてくれる、皺だらけの優しい手をした老婆――そんな温もりに満ちた日常が、当たり前のように続いていくものだと信じていた。
そんな辺境の村には薬を調合する店など存在せず、誰かが熱を出せば野山で薬草を摘み、母や祖母たちが代々受け継いできた知恵でそれを煎じて飲ませるのが精々だった。それでも皆、互いを労わり合い、病人が出れば村中で見舞い、回復を共に喜び合っていた。
だからこそ――紫痕病という名も知らぬ死の影が村を覆った時、人々には為す術がなかった。
最初は風邪だと思っていた。いつものように薬草を煎じ、額に濡れ手拭いを当て、皆で看病した。しかし病魔は、住人たちの愛情と献身を嘲笑うかのように容赦なく牙を剥く。
慈愛に満ちた母の微笑みが、苦痛に歪んだ。共に野駆けした幼馴染みの屈託のない笑い声が、うめき声に変わった。やさしく昔話を聞かせてくれた老婆の温かな手が、冷たく硬くなった。ルーカスの大切な人々が、一人、また一人と、まるで夕闇に溶けていく蝋燭の炎のように消えていく。
やがて村全体が死の臭いに包まれた。生者の吐息よりも、死者の沈黙の方が重く響く村になった。祭りの笑い声も、井戸端の女たちの話し声も、子供たちの遊び声も――すべてが永遠に失われた。
生き残った僅かな住人たちは、魂の一部を置き去りにしたまま、故郷を捨てて他の土地へと逃れることを決めた。しかし、立ち去る前に――最愛の人々への、最後の別れを告げねばならなかった。感染拡大を防ぐため、積み上げられた村人たちの亡骸に、震える手で松明の火を放つことを。
「父は言いました――病に冒された死体を、恐怖と共に焼き払え。未知なる疫病を、清浄なる炎で浄化するのだと」
ルーカスの声が、まるで秋風に散る木の葉のように震える。あの日の光景が、傷口を抉るように鮮明に蘇ってくる。遺品も遺骨も不浄のものとされ、何も残すことは許されなかった。愛する人々の笑顔で満ちていた故郷が、すべての思い出と共に赤々と燃え上がる炎に包まれ、空に舞う灰となって散っていく様を。言葉にできないほど重い肉と油の焼ける臭いが鼻を突き、ルーカスは何度も嗚咽を堪えたことを。煙に包まれながら、幼い日の記憶すらも一緒に燃やしてしまうしかなかった、あの絶望の夕暮れを。
「あの日――私の村は、この世界から永遠に消え去りました」
言葉の最後が、途切れそうになる。まるで声にすることで、失ったものの重みを改めて思い知らされるかのように。
「ごめん……つらい記憶を話させてしまって……」
リーゼが申し訳なさそうに視線を伏せる。しかしルーカスは穏やかに微笑み返した。
「構いませんよ。それから私は祝福を授かり、調合術を学びました。懸命に勉強もしました。ですが、いつも後悔ばかりなんです。もし、もっと早くこの知識を得ていれば、もっと早くこの技術を身につけていれば――何かが変わっていたのではないかと」
静かに震えるルーカスの握り拳を、ラースは黙って見つめる。重い沈黙が室内を支配した後、ルーカスは意を決したようにラースに視線を向けた。
「クオレ・ヴォイッタヤ――そんなものが本当に存在すればと願う気持ちが、ないわけではありません。ただ、死んでしまった者は、二度と帰ってきません。だからこそ、今生きている人たちの力になろう――そうやって自分なりに折り合いをつけてきました。だから、そんなものは存在して欲しくないという気持ちも、同じくらい強くあるんです。複雑なんですよ、お分かりいただけますか」
ラースは困ったように考え込む。どんな言葉をかければいいのか、答えが見つからないようだった。過去の話をこれ以上引っ張らないようにと、ラースは話題を変える。
「なぁ、紫痕病の治療薬はわかってるんだろ?普通に材料として店に置いてあったりはしないのか?」
「リーラクッカは生花でなければ薬効がないため、長期保存ができないんです。ですから、必要な時に採取に向かうしか方法がないのが現状ですね」
ラースの問いかけに、ルーカスは優しく微笑みながら答える。その表情は、ラースの気遣いを理解していることを物語っていた。
「ですので、今回の依頼はリーラクッカの採取が主目的ですが、クオレ・マコトカの討伐も視野に入れておきましょう。町の人々だけでも安全に群生地へ向かえるように」
「おう、任せとけ!」
重苦しい空気を払拭するように、ラースは力強く宣言した。
* * *
トールニオの東にそびえるウープストンデルーセ――三人はその険しい山道を辿っていた。他の町へと通じるわけでもないこの道は、人の手がほとんど加えられておらず、とても歩きやすいとは言い難い。少しでも傾斜を緩やかにしようと幾重にも折り返された細い道が、蛇のように山肌を這い上がっている。
踏み固められた道筋から僅かでも外れれば、緩んだ足場と急な傾斜のために転げ落ちてしまいそうになる。道の両脇には長い年月をかけて成長した古木が鬱蒼と茂り、重なり合う枝葉が陽光を遮って視界を狭めていく。自分たちがどの辺りまで登ったのか、それすら定かではなくなりそうだった。
枝葉の擦れる音に、ラースが反射的に身構える。しかし飛び立っていったのは小鳥だった。安堵の息を吐きながら、ラースが呟く。
「ここから急にクオレ・マコトカが飛び出してきたりしないよな」
「大丈夫だと思うけど」
そう答えながらリーゼは空を見上げる。だが、道端から伸びた枝葉が視界を遮っていた。
「もう少し空が開けないと見通しが利かないね」
「そういえば、クオレ・マコトカってどんな怪物だったっけ?」
ラースが疑問を口にした疑問にリーゼは答える。
「大きな鳥のような怪物かな。そんなに凶暴ではないから、わざわざ覆ってある木を貫いてまで襲いかかってくることはないと思う」
「そう聞くと、あまり怪物らしくない感じだけど、群れると厄介とか、そういうタイプか?」
「なんて言うのかな……気味が悪くて嫌われてる」
嫌悪感を隠さずに、リーゼは続ける。
「墓地を荒らして死体を集める習性があってね、不吉の怪鳥って呼ばれているの。それで集めた死体を高い所から地面に落としてついばむの。でも、死体だけじゃなくて、生きている人間に対しても同じことをするから、襲ってくるとしたら上からかな」
ラースは死体を弄ぶように空中から落とし、裂けた身体をついばむ怪鳥達の姿を思い浮かべる。
「うわ……そりゃ、確かに気持ち悪いな」
「だから、空が見えるまでは安全だと思う」
そう言われてラースも空を見上げる。開けた空から巨大な怪鳥が急降下してきて、自分を掴み上げようとした時の対処法を頭の中で考え始める。
それを油断と責めるのは酷というものかもしれない。木々の枝を激しくへし折るような音が響いた時、ラースの意識は反射的に空へと向かった。それが間違いだと気づいて横を向いた時には、すでに遅かった。山道の脇から飛び出してきた巨大な影を視認したラースは、慌てて逆方向に跳び下がりながら剣を抜く。
「しまった!」
しかしラースが着地した場所は、緩んだ傾斜地だった。足を滑らせたラースは体勢を立て直すこともできずに、そのまま斜面を滑り落ちていく。
「ラースさん!」
ルーカスはラースの身を案じながら声をかけつつ、ラースと入れ替わるように山道に立ちはだかる獣に視線を向けた。
ヴオリスト・カルフ――そう呼ばれるその生物は本来雑食性の臆病な獣で、積極的に人を襲うことはない。しかし後肢で立ち上がったその姿は成人男性の二倍ほどもあり、そこから振り下ろされる鋭い爪の殺傷力はダスクロロスのような怪物にも匹敵する。
丸い耳が警戒するように小刻みに動いている。全身を覆う太く厚い毛が木漏れ日の中で黒々と輝き、その毛の隙間から赤い血が滲んでいるのが見えた。
血――負傷しているのか、何者かに襲われたのか。いずれにしても興奮状態にあるのは間違いない。危険だ。そう判断したルーカスは、ヴオリスト・カルフに向けて仕込み矢を構える。
ルーカスが放った矢を軽やかにかわすと、ヴオリスト・カルフは発達した筋肉をバネのように使って跳躍した。その跳躍力は凄まじく、ルーカスの頭上を飛び越えて巨体をリーゼの方へと向ける。
リーゼは右手に魔力を練りながら、迎え撃つ構えを取った。鋭い牙を露わにして大きく開かれた口、小さく丸い瞳がリーゼを捉えている。その生物が放つ殺気を、リーゼは全身で感じ取っていた。
生物――その分類がリーゼに一瞬のとまどいを生む。リーゼは身を低く屈めると、前方に向かって飛び込むように回避行動を取る。ヴオリスト・カルフの振り下ろされた前足は、まるで戦士が振るう戦斧のように大地を深く抉った。リーゼは転がるようにして体を起こし、短剣を構える。
「リーゼさん――」
「うおおおっ!」
その動きに違和感を覚えたルーカスは、魔法を使ってくれとリーゼに伝えようとする。その言葉を、ラースの雄叫びが掻き消した。斜面を駆け上がりながらヴオリスト・カルフに向かうラースは、その巨体に剣を振り下ろそうとする。しかし、それよりも速い一撃が、ヴオリスト・カルフの頭部を身体から切り離した。
「すまないね。僕の討ち漏らしのせいで、迷惑をかけてしまったようだ」
崩れ落ちるヴオリスト・カルフの向こうから、穏やかな声が響く。ラースの視線の先には、背の高い細身の男が立っていた。
短く整えられたブロンドヘアに切れ長の瞳。青みがかったグレーの眼差しが一瞬鋭く光ったかと思うと、すぐに柔和な笑顔に変わった。黒ずくめの服装の上に身の丈ほどもある白いコートを羽織り、細身の剣についた血を払いながら鞘に収めている。返り血でコートが汚れないよう、手慣れた動作だった。
「冒険者か……」
呆然と立ち尽くすラースの前に、ルーカスが歩み出る。
「ありがとうございます。助かりました」
「いやいや、元々は僕の不始末だからね。君たちは冒険者かい?」
ルーカスの言葉に、男は和やかな微笑みを浮かべる。そして三人をゆっくりと見回しながら名乗った。
「僕の名前はラグナール・レイクヴィクだ。君たちの名前も教えてもらえるかな?」
* * *
ラグナールと名乗った男は、別の町でクオレ・マコトカの討伐依頼を受けて来たのだという。その道中で遭遇したヴオリスト・カルフと戦闘になり、討ち漏らした個体が三人に襲いかかったのだと説明した。
「足場が悪くて、上手く致命傷を与えられなかったんだ」
そう言って苦笑するラグナールを見て、ラースは自分の失態を思い出して眉をひそめる。
「話を聞く限り、君たちもクオレ・マコトカの討伐が目的なんだろう?一緒に行こうじゃないか」
「そうですね。それでは、ラースさんと一緒に前衛をお願いできますか」
「了解した、ルーカスくん。よろしく頼むよ、ラースくん」
そう言ってラグナールは親しげに右手を差し出す。その馴れ馴れしさに戸惑いながらも、ラースはその手を握った。
「あんた、見た目に反して力があるんだな」
「ありがとう。それなりに鍛えているからね」
歩き始めた二人のやり取りを見ながら、リーゼはルーカスに小声で話しかける。
「あの二人、あまり相性が良くなさそうだけど大丈夫かな?」
「まあ、剣士同士、何かしら思うところがあるんでしょう。それより、少し聞きたいことがあるのですが」
「何?」
「リーゼさんは、魔法を使いたくない理由でもあるんですか?」
ルーカスの問いかけに、リーゼは困惑の表情を浮かべる。
「ヴオリスト・カルフが飛びかかってきた時、どうして魔法を使わなかったんですか?」
「それは、相手が怪物じゃなくて――」
そう言いかけたリーゼは、ルーカスの真剣な眼差しと向き合う。ああ、この人は本当に心配してくれているのだ。そう感じたリーゼは静かに首を振った。
「そうだね。私は自分の魔法が好きじゃないんだ。だから、できれば使いたくない。でも、その理由をうまく説明することはできない。まだ、自分の中で整理がついていないから……」
リーゼの言葉にルーカスも困惑する。自分の魔法を嫌う魔導士など、聞いたことがない。しかし、彼女の言葉に嘘はないようだった。ルーカスは静かに頷く。
「わかりました。ただ、本当に危険な時だけは使ってください。私は仲間に死んでほしくありませんから。さあ、行きましょうか」
そう言ってルーカスは先に歩き出す。深く詮索しないのは、同じように複雑な想いを抱えるルーカスの優しさなのだろう。リーゼは何も答えず、黙ってその後に続いた。
前方から吹いてくる風に導かれるように、リーゼは風の向かう先に視線を向ける。冥界への入り口があると言われるウープストンデルーセ。もしその伝承が真実で、ここが魂の回帰する場所であるならば――そこにいるであろう母に、私は聞いてみたい。自分の魔法を信じていいのかと。
* * *
ウープストンデルーセの中腹を越えると、空気が薄くなるのと同様に、木々の背丈も徐々に低くなっていった。視界の開けた場所を好むか、それとも周囲から目立たない隠れやすい場所を選ぶか――野営地の選択は冒険者の経験と性格が分かれるところだ。リーゼたちは、中腹を完全に抜ける前に野営の準備を始めることにした。
ラグナールは天性の人懐っこさを持つ男だった。焚き火を囲んで座ると、巧みな話術で皆の緊張を解きほぐしていく。いつしか一行を包んでいた警戒心は和らぎ、穏やかな空気が辺りを満たしていた。そんな中、ルーカスがふと口を開く。
「ところで、ラグナールさんはどちらの出身なんですか?」
「僕かい?レイソン帝国だよ」
その言葉が発せられた瞬間、焚き火の周りの空気が一変した。まるで冷たい風が吹き抜けたように、緊張が場を支配する。ラグナールはその変化を敏感に察知したのか、和やかな微笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「おいおい、そんな険しい顔をしないでくれよ。まあ、君たちアストラリアの人々が帝国をどう見ているかは、十分承知しているつもりだけどね」
レイソン帝国――ある意味で神を否定するその大国の成り立ちは、皮肉にも神話そのものに根ざしている。
遥か昔、エヴェラス大陸は超大国アヴァロアによって統一されていたという。しかし大厄災と呼ばれる災禍により、人類はその支配権を根こそぎ奪われた。それでも女神ヴァルダの加護によって生き延びた人々が大陸西方に築いた国――それがアストラリアの建国神話である。つまり、現在大陸の三分の一を占める未開拓区域は、かつて人類が統治していた失われた領土ということになる。
未開拓区域――怪物たちの楽園と化したその土地に対する考え方は二つに分かれる。現状維持を良しとし、人の領域と怪物の領域が分かれたままでよいとする考え方と、人類は大陸全土を奪還すべきだとする考え方と。そして後者の理念を掲げる複数の国家が結集して誕生したのが、レイソン帝国だった。
こうした根本的な世界観の違いが、帝国の内と外に深い溝を生んでいる。人類は未開拓地域を攻略するために結束すべきだという帝国の呼びかけは、帝国に参加しなかった国々からすれば、各国は帝国の支配下に入れという恫喝に聞こえる。
「レイソン帝国では女神ヴァルダへの信仰を否定していると聞きましたが」
「いやいや、ルーカスくん。それは大きな誤解だよ」
ラグナールは大仰に首を振って見せる。
「帝国は信仰そのものを否定などしていない。それを必要とする人々がいることは十分理解しているさ。ただ、僕たちはこう考えているんだ――たとえ大昔の神話が真実だったとしても、人類の真の歴史が始まったのは神々がこの大陸から去った後だろう?だからこそ平和は神に祈って得られるものではなく、自分たちの手で勝ち取らねばならない」
「ラグナールさんも女神を信じていないんですか?祝福の洗礼も?」
リーゼが問いかける。
「そうだね。帝国の人間が皆洗礼を受けないわけではないが、僕は受けていない」
その答えにリーゼは驚愕を隠せない。
「じゃあ、ラグナールさんは祝福を持っていないってこと?」
ラグナールは苦笑いを浮かべた。
「どうだろうね?ただ、僕は剣術も魔法も扱えるよ」
そう言ってラグナールは説明を続ける。
「祝福の洗礼は才能を開花させるものではなく、それを把握するためのものに過ぎない。人は生まれた時点で既に祝福を授かっており、洗礼の有無に関わらずそれを伸ばすことができる。それが帝国の考え方だ」
ラグナールは表情を緩め、リーゼに視線を向ける。
「それにもし、僕が洗礼を受けていたら、鍛冶師の祝福が判明していたかもしれない。だが僕は鍛冶師になりたくない。人生は自分自身で選択したいと思っているんだ。そうは思わないかい?」
リーゼは沈黙し、ゆっくりと視線を落とした。もし自分が帝国で生まれ育っていたら、魔導士以外の道を歩むことができたのだろうか――そんな考えが頭を巡る。その時、ずっと黙り込んでいたラースが重い口を開いた。
「なあ、ラグナールさんよ。話を聞いていて思ったんだが、あんた軍人なんじゃないか?」
その指摘に、リーゼとルーカスは息を呑んだ。二人の視線が一斉にラグナールに向けられる。
「その通りだ。僕は軍に属している。よく分かったね」
「そんな風に帝国の代弁者みたいな物言いをしていれば、嫌でも察しがつくさ」
ラースは明らかに不機嫌な様子で言い放つ。
「ラースくんは軍人があまり好きではないのかな?」
「ああ、そうだ」
「どうしてだろう?僕たちは帝国領の弱き人々のために戦っている。弱者を守るという点では、ラースくんの目指す英雄と何ら変わりはないよ」
「それは違う!」
感情を抑えきれなくなったラースが勢いよく立ち上がる。ラグナールを見下ろしながら、強い語調で言葉を続けた。
「弱い人々のためになると言っても、それは結果的にそうなるだけの話だ。俺の目指す英雄は、弱者を救うことそのものが目的なんだ。一緒にしてもらっては困る!」
「ラース、落ち着いて」
興奮するラースを宥めるように、リーゼが声をかける。ラグナールは困ったような苦笑いを浮かべた。
「すまなかった、ラースくん。君を怒らせるつもりはなかったんだ。ただ、君たちも僕ら帝国軍人に対して悪い先入観を抱いているのではないかと思うんだ。もしこのまま旅を続けるなら、いつか帝国にも足を向けてほしい。そうすれば、もう少し理解し合えるのではないかな」
ラースは座り直しながらラグナールを睨む。そして、その提案には答えず、別の疑問をぶつけた。
「もう一つ納得いかないことがある。なぜ遠い帝国の人間が、こんな辺境で討伐依頼を受けているんだ?本当は別の目的があるんじゃないのか?」
その言葉に、ルーカスの胸に嫌な予感が走る。まさかと思いながらも、その考えが口から漏れ出た。
「まさか……クオレ・ヴォイッタヤ……?」
その瞬間、ラグナールの表情から笑みが消え、鋭利な刃のような眼差しがルーカスを貫いた。しかしすぐに、まるで何事もなかったかのように、穏やかな笑顔を取り戻す。
「さすがだね。死に打ち勝つ苔――その調査こそが僕の真の任務だよ」
そんなものは存在するはずがない。存在してほしくない。ルーカスの心の奥を掻き乱すように、どこか遠くで夜鳥が鳴き、静寂の中に不吉な調べを響かせた。