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第4話 宿怨(アーク・ダスクロロス)

 野営の準備を終えた頃には、すっかり日が沈んでいた。松明を手にして浮き立つラースを先頭に、三人は進み出す。しかし、すぐにルーカスが足を止めた。息を呑み、目を輝かせながら、眼下に広がるマナヘルッカの群生地を見つめる。


「すごい、こんなにたくさんのマナヘルッカが……夢みたいですね」


 興奮を隠せないルーカスの声に、ラースは苦笑いを浮かべる。


「採取するなら帰りにしようぜ。どうせこの道を戻るんだし」


 そのまま採取を始めそうなルーカスを制するように、ラースは振り向いて声をかける。気まずそうにルーカスは笑う。


「ええ、そうします」

「マナヘルッカって、珍しいんだよね。いい値段で売れたりするの?」

「まぁ、それなりって感じですかね。調合素材としては消耗品の類ですし」

「良かったね。色々調合してたから、赤字になるんじゃないかと心配したよ」


 そんな話をしていた二人に、前方からラースの声が響く。


「見えてきた。すげぇぞ」


 足を止めたラースに、二人は駆け寄る。周囲を取り囲む木々の間に、まるで森が息抜きをするために生まれたような小さく開けた空間が現れた。密集した木々が作り出した自然の円形劇場——その中心に、古の遺跡があった。


 三人は息を呑んで、その光景を見つめた。ラースは興奮した様子で目を輝かせ、リーゼは神妙な面持ちで遺跡に近づく。ルーカスは流れた時の重みを感じ取るように、厳かな表情を浮かべている。


 何かの魔法陣のように、あるいは木々による侵食を防ぐ結界のように、大きな石が規則正しく点在している。その石に囲まれるようにして、朽ち果てかけた石造りの祭壇が静寂の中に鎮座していた。祭壇を覆う苔が、この遺跡が忘れられてきた悠久の時を物語っている。


「神聖な場所って感じがするね」


 森の中よりも一段と冷たく澄んだ空気に包まれて、リーゼは小さく呟く。月明かりで照らされる祭壇に目を奪われていたルーカスだったが、ふとその祭壇の裏で動く影に気づいた。そして、警戒を込めた小さな声で二人に伝える。


「隠れて!何かがいます!」



 * * *



 祭壇を囲むように置かれた石のかげに身を潜めながら、三人は祭壇の裏側が見えるよう静かに移動する。祭壇の向こうには二匹の獣が居た。一匹は地面にうずくまり、もう一匹はそれを守るように凛として立っている。月明かりを浴びた白い毛が銀色に輝き神々しさすら感じさせる。


「嘘だろ……まさか、本当にタルヒエンタヤが……」


 唖然とするラースの言葉に、リーゼは静かに首を振る。


「違う。あの風貌——白い毛に青い瞳。プリモール・ダスクロロスだ。こんなところに居るなんて……」

「ダスクロロスって、あんなでかいのもいるのか?ルーカスよりでかいぞ」


 リーゼは小さく頷く。


「プリモール種はダスクロロス属の原種に当たる種族なんだ。群れで活動しやすいように小型化した通常のダスクロロスより、ずっと大きい」

「ダスクロロスの祖先って、アンシェント種じゃなかったんですか?」


 ルーカスの疑問に、リーゼは慎重に言葉を選びながら答える。


「そのアンシェント種の祖先がプリモールなんだ。元々、知的で好戦的でないプリモール種が、異種との交配によって攻撃的になったのがアンシェント種。二つの種族は控えめな表現だけど、すごく不仲だったらしい。アンシェント種は絶滅したけど、プリモール種も数を大きく減らした。今では目撃例もほとんどないはずだよ」

「やべぇな、英雄譚で聞いたまんまじゃないか」


 ラースは身震いをする。


「やっぱり、プリモールがタルヒエンタヤだったんだ。そうに決まってる」


 ラースの断定的な言葉に、リーゼは困惑を隠せない。それが正しいのかはわからない。どう答えればいいのか迷っているうちに、ルーカスが別の疑問を口にする。


「あの一匹は、なぜうずくまっているんでしょう?」


 リーゼは目を凝らして、二匹のプリモール種を見つめる。うずくまっている個体は雄よりも若干小型で、腹部が膨らんでいるのが見て取れる。

 

「多分、妊娠してる。出産が近いんじゃないかな」

「だとしたら、離れた方がよくないですか?どんな生物でも妊娠中は警戒心が高まりますし、攻撃的になっても不思議ではありません。見つかる前に戻った方が——」

「とっくに気づかれてるよ」


 リーゼは落ち着いた声で、ルーカスの言葉を遮る。


「でも、こちらが敵意を見せない限り大丈夫」


 その言葉が終わるか終わらないかという瞬間、雄のプリモール・ダスクロロスが流れるような動きで祭壇の上に飛び乗った。ゆっくりと首を巡らせて周囲を見回し、深く息を吸い込む。そして、静寂に包まれた遺跡の空気を震わせるような、長く力強い遠吠えを発した。それは侵入者への警告なのか、それとも別の何かへの合図なのか——三人は思わず身をすくめ、その圧倒的な存在感に呑まれていた。



 * * *



 凄まじい音圧を浴びながら、ラースは武器を鞘に収めたまま身構える。剣を抜かなかったのは、リーゼの言葉を完全に疑ったわけではないからだ。


「リーゼ、本当に大丈夫なのか?めちゃくちゃ威嚇してきてるぞ!」


 リーゼは石陰から身を乗り出すようにして、プリモール・ダスクロロスを見つめる。その視線は祭壇上の白い獣ではなく、周囲の闇へと向けられていた。


「こっちを見てないってことは、威嚇している相手は他にいるってことだと思う。もしかしたら——」


 リーゼの言葉が終わるよりも早く、周囲の茂みがざわめき始めた。枝葉を押し分ける音、地面を踏みしめる足音——次の瞬間、黒い影が一斉に飛び出してくる。その影は統率された軍隊のように、祭壇の周りを取り囲んだ。


「ダスクロロスの群れ……そういう事ですか」


 ルーカスの声に緊張が滲む。以前に遭遇した時よりも、ずっと数が多い。ざっと見て三十匹はいるだろう。プリモール種を囲うようにして、地を這うような低い姿勢から威嚇の唸り声をあげている。赤い瞳が闇の中で不気味に光り、牙を剥き出しにしたその姿は、まさに死を運ぶ影の軍団だった。


「どうやら、標的はメッツァキュラじゃなかったみたいだね」


 リーゼの声には、自分の推測が外れたことへの苦い自嘲が混じっている。


「狙いはタルヒエンタヤって事か」

「しかし、なぜまた?プリモール種と不仲なのはアンシェント種であって、ダスクロロス種まで敵対関係にあると文献には書かれていないでしょう?」


 困惑するルーカスの問いかけに、リーゼは唇を噛みながら答える。


「元はアンシェント種だからね。その血に刻まれた憎悪を引き継いでいても不思議はない。それに、もしこの出産の時を狙って来たのだとしたら……」


 そう言って、リーゼは下唇を強く噛む。少しの間を置いて、憎むような口調で続ける。


「あのアーク・ダスクロロスは、相当悪質で狡猾だよ」


 ダスクロロス種——生存のために高めた知性と自制心を持つ種族。それなのに群れを率いて長距離を移動し、プリモール種を狩ろうとするなんて。常軌を逸した行動としか思えない。


「始まったみたいだぞ」


 ずっと様子を窺っていたラースの低い声に、二人もまた顔を覗かせる。


 飛びかかっていくダスクロロスの喉元に、雄のプリモールが鋭い牙を突き立て、石畳に叩きつける。鈍い衝撃音が遺跡に響く。その隙に、別のダスクロロスの爪がプリモールの側腹を切り裂いた。返り血が石畳に飛び散る。月明かりを浴びて銀色に輝いていた白い体毛が、徐々に赤黒い血の色に染まっていく。


「どっちが勝ちますかね」


 ルーカスの問いに、ラースは苛立ちを隠せない声で答える。


「そりゃ、群れの方だろ。多勢に無勢ってやつだ」


 無意識に剣の柄を握りしめながら、ラースは歯噛みする。


「こんな時は群れのボスを一気に叩けば済む話だけど、あいつは妊娠した雌を守りながら戦ってるから、あの場所から一歩も動けない。完全に不利だ」


 ラースの握り拳が小刻みに震えているのを見て、ルーカスは制するような強い声で言う。


「何をするつもりですか!」


 ルーカスの剣幕に、ラースは思わず戸惑う。


「何って……」

「いいですか、ラースさん。メッツァキュラの村を襲おうとしているなら、ダスクロロスを討伐するのは理解できます。でも、すでに状況は変わっている。野生の種族同士の争いなら、私たちは関与すべきではありません」


 ルーカスの真剣な眼差しに、ラースは思わず視線を逸らす。そして、リーゼに縋るような声で問いかける。


「なぁ、もし戦ってる雄が倒されたら、妊娠してる雌はどうなるんだ?」

「それは……多分、ラースの考えている通りだと思う」


 言葉を濁したリーゼを見て、ラースは苦い笑みを浮かべる。そして真剣な顔つきでルーカスに向き直る。


「なぁ、ルーカス。確かに俺は戦わずに逃げるってのは嫌いだし、今までも色んなパーティで迷惑をかけてきた。お前の言ってることが正しいってのもわかる。でもな——」


 そう言って、ラースは自らを鼓舞するように握りこぶしで胸を強く叩く。


「納得はできねぇ!俺が憧れてきた英雄なら、たとえ怪物でも生まれてくる命を見捨てたりしない!今ここで見捨てたら、俺はもう英雄になりたいなんて口が裂けても言えなくなっちまう!」


 ラースの激情に押されるルーカスは、助けを求めるような視線でリーゼを見る。それに気づいたリーゼは、自分の右腕をそっと撫でる。回復したとはいえ、あの時に抉られた痛みの記憶が蘇る。


「私はラースほど強い気持ちがあるわけじゃないけどさ……」


 リーゼは静かに微笑む。その笑みには、どこか復讐心にも似た冷たさが宿っていた。


「結構、根に持つ性格なんだよね」

「そんな、リーゼさんまで……」


 戸惑うルーカスに、リーゼは穏やかに微笑みかける。


「ルーカスさんは優しい大人だから、私たちを命の危険があるような目に遭わせたくないんでしょ。その気持ちはよくわかる。でも、ここで撤退したら、私たちは冒険者として——いえ、人として、もっと大切な何かを失うことになると思う」


 静かな決意の込もった瞳。それでもルーカスは躊躇する。その肩を軽く叩くようにして、ラースは屈託のない笑顔を見せる。


「死んだりしねぇよ。すげぇ効くんだろ?ルーカス特製の回復薬は」


 ラースの表情——迷いのない、純粋な信頼を見て、ルーカスは深くため息を吐く。命の喪失。それが心の中に何を残すのか。それは自分にもよくわかっている。だからこそ、きっと何を言っても二人を止めることなどできないだろう。そう理解して、ルーカスも腹を括る。


 プリモール・ダスクロロスを囲む群れは、徐々にその包囲網を狭めていく。勝利を確信するかのように。


「どうやって、あの群れの中に飛び込みますか?」


 観念したようなルーカスの言葉に、三人は身を寄せ合って作戦を練り始める。月明かりが三人の影を長く地面に伸ばしていた。



 * * *



 全く嬉しいことを言ってくれる。ルーカスは苦笑いを浮かべながら思う。自分が調合した回復薬を信じてもらえる——調合師として、これほど心に響く言葉はない。しかし、その限界もまた、ルーカスは身に染みて実感している。

 

(それでも、死んだら全部終わりなんですよ)


 石の影から左腕を突き出し、狙いを定める。毒薬を塗った仕込み矢。前回とは違い、威嚇ではない。確実に命を奪うための一撃。数を減らし、皆の生存の可能性を少しでも高めるために。


 矢が風を切る音——それを合図に、三人は祭壇に向かって駆け出す。放たれた三本の矢は、三匹のダスクロロスの背中に深々と突き刺さった。振り向こうとした怪物たちは脚をふらつかせ、毒に侵されながら地面に崩れ落ちる。包囲網に穴が開く。


 ダスクロロスの群れは三人を警戒していたはずだ。それでもこの乱入は予想外だったのだろう。隊列を乱しながら威嚇の声を上げ、その殺意を三人に向ける。赤い瞳が憎悪に燃え、牙を剥き出しにした口から唸り声が漏れた。


 リーゼは走りながら、祭壇に視線を向ける。そこに立つプリモール・ダスクロロスの澄んだ青い瞳と目が合う。言葉が通じるわけではない。それでも、人の敵意を理解する高い知性を持つというのなら、どうか伝わってほしい。


(私たちは敵じゃない。だから、お願い——目を閉じて)


 その思いが伝わることを祈りながら、リーゼは目を閉じ伏せるような仕草を何度か繰り返す。


 思いが通じたのかはわからない。それは突然の乱入者に対する牽制かもしれない。プリモール・ダスクロロスは天を仰ぐように目を閉じ、力強く吠えた。その咆哮を合図にするように、リーゼは閃光玉を地面に叩きつける。


 炸裂音と共に、激しい稲妻のような光がダスクロロスたちの視界を奪う。


 視界を奪われた一匹のダスクロロスが、闇雲に飛びかかってくる。その横腹目がけて、ラースは剣を薙ぎ払った。刃が肉を裂く鈍い音。その勢いに押されるように地面に叩きつけられたダスクロロスは、衝撃と激痛に身を悶えさせながら絶命の悲鳴を絞り上げた。


 三人はこうして、ダスクロロスの群れの中心に飛び込む。プリモール・ダスクロロスに背を向けるようにして、取り囲む群れと対峙する。付着した血を振り払うように剣を一閃させながら、ラースは不敵に笑う。


「さて、ここからは何の作戦もなしだな」


 怒りと憎悪に塗りつぶされたダスクロロスの赤い瞳がさらに鋭く輝いた。



 * * *



 前衛へと立つラースに向けて、ダスクロロスの群れは交互に飛びかかっていく。ラースは軽やかな足捌きで身を交わしながら、手にした剣をダスクロロスの背に叩きつける。まるで舞うような、流れるような戦い方——ルーカスはラースの言葉を思い出す。


(こう、襲ってくる相手に反応して、いち早く斬りつけてだな)


 なるほど、この人はこういう戦い方をする人だったのか。動きに無駄がない。本能に裏打ちされた、野性的な美しさすらある剣技だった。


 それでもダスクロロスの数は多い。ルーカスは右手に握った短剣で身を守りながら、ラースの死角へと飛びかかるダスクロロスに矢を放つ。小さく上がった悲鳴に反応したラースは、握った拳を叩きつけるようにしてダスクロロスを弾き飛ばす。そして、群れから視線を離すことなく声をかける。


「悪い。助かった」

「いえ、お任せしてすみません」


 そう返しながら、ルーカスはリーゼに視線を向ける。同じように短剣を握りしめ、身を守る構えを取っているリーゼの表情には、何かを深く考え込むような色が浮かんでいた。


「どうかしましたか?リーゼさん」

「うん。なぜダスクロロスは逃げ出さないんだろう?」


 リーゼの疑問に、ルーカスは周囲を見回す。ダスクロロスの群れは半数ほどにその数を減らしている。


「確かに。予想外の状況なわけですから、撤退してもおかしくないはずですが」


 リーゼは思考を深めていく。目的がプリモール種の狩猟であれば、この状況で目的を達成するのは困難なはずだ。自制心を持って生き残ることを優先してきた習性——群れが全滅するほどの状況で戦闘を続けるなど、合理的ではない。


 ならば、アンシェント種であればどうだ?自らの命をも捨て去るような狂気じみた攻撃性。それがプリモール種相手にのみ受け継がれているとしたら。自身を焼き尽くすような憎悪の業火で、相手を根絶やしにしようとするのなら——。


 リーゼは祭壇の裏へと駆け出す。ラースに飛び掛かる群れは囮だ!本命は妊娠した雌のプリモール・ダスクロロス。うずくまる雌に駆け寄ろうとするリーゼよりも早く、影が躍り出る。


 アーク・ダスクロロス!


「エク・ブーリロ!」


 リーゼは左手を突き出しながら呪文を唱える。手のひらから放たれた閃光の矢が、アーク・ダスクロロスの腹部を貫いた。


 間に合った——その考えはすぐに打ち砕かれる。


 力強い四肢で大地を駆ける勢いは、リーゼの魔法を受けても止まる気配を見せない。貫かれた痛みに身を悶えさせながらも、アーク・ダスクロロスは真っ直ぐに進み続ける。理性の青と激情の赤が混じり合った紫の瞳——それは徐々に赤い色彩を強め、もはや理性の欠片もない、ただ憎悪だけに支配された獣の眼と化していた。プリモールに突き立てんとする鋭い爪が、殺意を込めて振り上げられる。


 もう一撃!そう思う手を振りかぶろうとするリーゼの視界に、突如として白い影が立ちはだかった。


 雄のプリモール・ダスクロロス。


 その巨大な爪が風を切り裂きながらアーク・ダスクロロスに振り下ろされる。鋭い爪がアーク・ダスクロロスの肉を深々と引き裂き、その巨体を吹き飛ばした。鮮血が石畳に飛び散る。


 それでもアーク・ダスクロロスは諦めない。血を流しながら身を捩るようにして立ち上がり、全身の毛を逆立てるように威嚇する。脚を引きずりながらも、なおも前へと進もうとするその姿に、リーゼは身震いした。


 何なんだ、これは。そうまでして進もうとする憎悪の根源は何なのか。血に流れる過去の因縁が呪いのように続いているのだとしたら――。


 リーゼが思わず後ずさりする中、雄のプリモールが最後の攻撃に出る。鋭い牙を喉元に突き立てるように食らいつき、アーク・ダスクロロスを振り回すように叩きつける。そのまま振り下ろされた爪は、アーク・ダスクロロスの身体を引きちぎった。プリモールが上半身を放り投げるように雄叫びを上げると、鮮血が飛沫となって周囲に飛び散る。


 勝利の雄叫びが夜の森に響き渡る。


 その声を聞いたダスクロロスの群れは、我先にと逃げ出していく。まるで恐ろしい天敵から逃れるかのように、必死の形相で走り去っていく。あっという間に、その姿は森の闇に呑み込まれ、静寂が戻った。


 戦いは終わった。



 * * *



「終わったな」

「全く、生きた心地がしませんでしたよ」


 二人は武器を納め、息を荒げながらリーゼの元に近寄る。雄のプリモールは三人のことなど眼中にないかのように、雌に寄り添ってその背中を愛おしそうに舐めた。戦いの喧騒が嘘のように静まり返った森の中で、雌のプリモールが発する小さな唸り声だけが響いている。


「出産が始まりそうだ。少し離れよう」


 そう言って、三人は祭壇から適度な距離を取る。逃げ出したダスクロロスの群れが再び戻ってくることはないだろう。それでも万が一のことを考えて、そっと見守ることにした。


 やがて雌のプリモールの呼吸が徐々に速くなり、苦しげな鳴き声が聞こえてきた。羊膜に包まれた小さな体が、ゆっくりと外の世界に姿を現す。雌のプリモールは母性本能に突き動かされるように、優しく子供の体を舐めて羊膜を取り除いた。


 新しい命は、よろよろと立ち上がると、この世に生まれた喜びを表現するかのように力強い鳴き声を上げた。


「俺たちが守ったんだな」


 新たな生命の誕生を見つめながら、ラースは感動に小さく身を震わせる。リーゼは自分の左手のひらに視線を落としながら、静かに言葉を返す。


「そうだね。守れたんだ」


 その声には、久しく感じることのなかった充実感が込められていた。


「さあ、戻りましょうか」


 ルーカスはそう促しながら心の中で呟く。きっとこれで良かったのだと。


 祭壇を後にする三人の背後から、プリモール・ダスクロロスの遠吠えが響いた。それは月夜に響く美しい調べのように聞こえる。ルーカスには、その声が感謝を伝えるような優しさに満ちていたように思えたのは、考えすぎなのだろうか。



 * * *



 メッツァキュラの安い宿に到着すると、三人は泥のように深く眠った。どんなに質素な宿のベッドであっても、野営の硬い地面に比べれば天国のように快適だ。目覚める頃には日はとっくに沈み、窓の外には星が瞬いていた。


 村の住民しか相手にしていないような小さな食堂で、三人は隅のテーブル席に腰を下ろす。素朴だが心のこもった料理に舌鼓を打ち、十分すぎるほど腹を満たした頃、ラースが話を切り出した。


「で、ルーカスはどうするんだ?」

「どうするというと?」


 突然の問いかけに、ルーカスは何のことかわからないという表情を浮かべる。


「何のことって、調査報告だよ。遺跡とか、プリモールとか、そういうのって冒険者組合に報告するのか?マナヘルッカの群生地だって見つけたんだろ」

「ああ、そういうことですか」


 ルーカスは少し考え込むように目を伏せる。そして、リーゼに問いかけた。


「リーゼさん。推測でかまわないのですが、あの森に危険な生物が存在しないのは、プリモール・ダスクロロスが棲んでいるからと考えても問題ないでしょうか?」


 リーゼは食後のお茶を飲む手を止める。カップをテーブルに置く乾いた音が、静寂に小さく響いた。


「可能性としては十分考えられるね。ただ、プリモール・ダスクロロスがあの場所に定住しているのかどうかはわからないけど」

「そっとしておきましょうか」


 ルーカスは穏やかに微笑む。


「どうせ忘れ去られた遺跡です。そのままにしておいた方がいいでしょう。学術的には惜しい気持ちもありますが」


 その言葉を聞いたラースは、嬉しそうに笑いながらルーカスの肩に腕を回す。


「なあ、ルーカス。気に入ったぜ。まだ色んな場所を調査しに行くんだろ?このまま、みんなで一緒に行かないか。パーティ継続ってやつだ」


 思わぬ提案にルーカスは驚く。


「皆さんがそれでよろしいなら構いませんが。リーゼさんはどうです?」

「私もかまわないよ。しょっちゅう人が代わるのって、疲れそうだし」


 リーゼの素直な返事に、ラースは手を叩いて喜ぶ。


「決まりだな。次はどこに向かう?俺は強くなりたいだけだから、どこでもかまわないぜ」


 満面の笑顔を浮かべながら、ラースは言う。


「そんな急に言われても、何も考えていませんよ。リーゼさんは何かありますか?」

「そうだねえ……」


 少し考えて、リーゼは鞄から地図を取り出し、テーブルに広げた。あまり精度は高くないが、エヴェラス大陸全体を俯瞰できる世界地図だ。


「メッツァキュラは、この地図だとこの辺りになるのか?」


 そう言ってラースはハーメンマー王国の北東辺りを指差す。その問いかけに、リーゼとルーカスはほぼ同じタイミングで頷く。


「こうして見ると、未開拓地域って本当に広いんだな」


 ハーメンマー王国の北には同程度の大きさのカーレリア王国があり、西のアストラリア神国はハーメンマーとカーレリアを合わせた領土よりも大きい。そして南に位置するレイソン帝国は、アストラリアよりもさらに巨大だ。しかし、ハーメンマーの東から広がる空白地帯は、その帝国をも上回る広さを誇っている。エヴェラス大陸の三分の一は、怪物たちの楽園と呼ばれる未開拓地域なのだ。


「言っておきますけどラースさん。東に行くっていうのは無しですからね」

「この三人で行こうなんて、さすがにそこまで無謀じゃねえよ」


 ルーカスの半ば本気の忠告に、ラースは苦笑いを浮かべる。


「帝国に行けばそういう依頼もあるかもしれませんけどね。風の噂程度ですが、未開拓地域への遠征が計画されているらしいと聞きますよ」

「いや、いいよ」


 ラースは普段とは違う低く重い声で、ルーカスの言葉を遮った。


「帝国はあまり好きじゃない」


 その表情には、何か深い理由があることを窺わせる影が差している。リーゼはラースの顔をちらりと見てから、あえて話題を変えるように地図に視線を戻した。触れてはいけない過去があるのだろう。そんな風に感じながら、地図に記された都市名を眺める。


 そして、トゥルークの文字を見つけ、不意にウェデリアのことを思い出した。


「どこでもいいなら、北の方かな。カーレリアの方向」


 そう言ってリーゼは再び置いたカップを手に取る。


「カーレリアに用事でもあるのか?」

「トゥルークの街に、魔導施設時代の友達がいるはずなんだ。久しぶりに会えたら、元気にやってるよって伝えてみるのもいいかなって」


 口にした茶の温もりと、脳裏に浮かんだウェデリアの笑顔のおかげか、リーゼの表情がふわりと和らいだ。


「それなら、北を目指してみましょうか」


 そう言って、ルーカスは手にしたカップを中央に突き出す。二人もカップを手にし、そっと重ね合わせる。三つのカップが触れ合う小さな音が、新たな出発への決意を象徴しているかのようだった。

 

 目的地はトゥルーク。北へ向かう旅が、今始まる。


おまけ話


ダスクロロス属はオオカミとか野犬の群れをイメージして作った生物分類になります。

通常種はそれこそ群れをなした小型オオカミ、プリモール種はでかいオオカミみたいに。


ただ、公開前に読んでもらった人に、名前的に昆虫みたいなデザインと思ったって言われて、言われてみれば……と思いました。

名前から連想する印象って大事ですね。


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