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第3話 群体(ダスクロロス)

 ヘイノーラの森での調査開始から三日が経った。初日のダスクロロス遭遇を除けば平穏な日々と言ってもいい。警戒を強めていた三人も、徐々に気が緩み始めていた。


 実は、三人が障害なく探索を続けられたのは、ルーカスの調合した香水の効果が大きい。霧の覆いという意味を持つ花、ウスヴァペルクカから抽出したエキス。それを使った香水は体臭を霧のように曖昧な香りに変える。そのおかげで怪物たちに存在を気づかれにくくなっていたのだ。


 森の木漏れ日が頬を照らす。周囲を見回しながら先頭を歩くラースは、伸びをするように腕を振り上げた。心地よい疲労感が全身を包む。腕を下ろしながら、ふと口にする。


「なぁ、ルーカス。今回の調査って具体的な目的地は無いんだろ?どのぐらい続ける予定なんだ?」


 その問いかけに、リーゼは呆れた表情を浮かべ、思わず天を仰いだ。


「ねぇ、ラース。あなた、ちゃんと依頼書読んだ?」

「えっ?書いてあったっけ?」


 苦笑いを浮かべながら、ルーカスは答える。


「十日間の予定ですよ。予定通り、明日行けるところまで進んだら、折り返してヘイノーラまで戻ります。珍しいものが見つからなかったのは残念ですが」


 珍しいものはなかったのか——ラースの記憶では、ルーカスがずいぶん熱心に採取していたはずだが。あれが普通の採取だとしたら、珍しいものを見つけた時、ルーカスはどんな風になるんだろう。そんなことを考えると、思わず口元が緩む。


「まぁ、何事もなく終わりそうだな」


 そう言ってラースはあくびをする。だが、その楽観的な予測は外れることになる。



 * * *



 暗闇に赤い瞳が浮かび上がった。いくつも、いくつも。まるで血のような赤が、闇の中で不気味に光っている。


 リーゼは手にした短刀を強く握りしめ、息を殺す。一体いつの間に——そんな疑問が脳裏を駆け巡る。

 

 ほんの数分前まで、三人は野営の焚き火を囲んでいた。木々の間を吹き抜ける風の音と、薪のパチパチという音だけが聞こえる平和な夜。その静寂を破ったのは、ラースの声だった。


「何か来るぞ!」


 ラースは跳ね起きるように立ち上がり、剣に手をかける。リーゼとルーカスも咄嗟に立ち上がり、三人は背中合わせになって周囲を警戒した。薄暗い闇の中、ゆらゆらと浮かび上がる赤い瞳が次第にその数を増やしていき、ダスクロロスの群れが徐々に姿を現す。

 

 リーゼの背筋を冷たいものが駆け抜ける。ダスクロロスが群れで狩りをするのは、勝利を確信した時だけ。つまり、自分たちは囲まれてしまったのだ。リーゼは息を呑み、短刀を構える手に力を込めた。

 

 警戒体勢を保ったまま、ルーカスが焚き火に手を伸ばし、火のついた薪を周囲にばら撒く。光の範囲が広がり、揺れる炎がダスクロロスの身体をはっきりと浮かび上がらせる。


 それを見て、リーゼは自身の考えを打ち消す——囲まれていない?


 ダスクロロスがいるのはリーゼの正面だけ。ルーカスとラースの前には何もいない。二人はリーゼの方向へと体勢を変える。視認できるダスクロロスは六匹。一人二匹なら討伐不可能な相手ではない。


 ルーカスがダスクロロスの群れに向けて左腕を突き出す。指先の動きだけで撃てる袖の中の仕込み弓。そこから撃ち出した矢は、威嚇するようにダスクロロスの足元に突き刺さる。


「いくぞ!」


 ルーカスの矢で少し後退りしたダスクロロスの群れへ向かい、叫び声を上げながらラースは斬りかかっていく。それに続くように、短剣を手にルーカスも駆け出す。


 私も——そう思い駆け出そうとするリーゼの身体が、殺気に満ちた視線を感じて硬直する。


「待って!何かおかし——」


 その疑念をリーゼが口にし始めた瞬間、彼女の視界の外から黒い影が飛びかかった。他のダスクロロスより一回り大きく、伸ばされる太く鋭い爪。その凶悪な一撃は、リーゼの右腕の肉を抉りながら彼女の身体を近くの木に叩きつけた。


 血飛沫が周囲に散る。叩きつけられた衝撃と、右腕を焼くような痛み。


「リーゼ!?」


 ラースは剣を振るう手を止め、慌ててリーゼの元へと駆け寄る。ルーカスもダスクロロスを目で制するように視線をそらさずに、素早くリーゼの元へ移動した。

 

 リーゼは右腕を押さえながら、うずくまるようにその場に座り込んでいる。二人が駆け寄ると、彼女は顔を上げた。その表情は苦痛に歪み、額には冷や汗が浮かんでいる。

 

「大丈夫ですか!?」


 ルーカスが声をかける。リーゼは返事をせず、ラースとルーカスの間から、自分を叩きつけた影を睨みつけた。


「アーク……ダスクロロス……」


 その言葉に、ラースとルーカスの視線がその影へと向けられる。


 八十センチメートル程度の体高と、比例して大きくなっている太く力強い縞模様。力強いたてがみを逆立てながら、地の底から響くような低い唸り声を上げている。太い脚を真っ直ぐに伸ばし、地面に爪を突き立てる姿は、自身をより大きく見せようとする意志を感じさせた。


 その姿を視界に捉えたまま、リーゼはゆっくりと立ち上がる。右腕から流れ落ちる血が、地面に不気味な紋様を描く。響く痛みを振り払うようにして、全身から左手に流れていく魔力をイメージし始めた刹那、アーク・ダスクロロスと目が合った。


 こちらを真っ直ぐに見る紫色の瞳。その瞳に宿る知性と敵意を感じ取り、リーゼは直感に身を委ねる。


「ルーカス、ラース、指示に従ってくれる?」


 その言葉に、二人は黙って頷く。リーゼはポーチから取り出したルノナーデに魔力を込める。そして、アーク・ダスクロロスと三人の中間地点に投げつけた。


 森に爆発音が響き、爆煙が広がる。視界を遮る煙幕の中で、リーゼは叫んだ。


「逃げるよ!距離を取る!」

「マジかよ!?」


 予想外のリーゼの言葉に驚きながら、ラースは振り返る。すでに走り出したリーゼとルーカスを追うようにして、ラースも駆け出した。


「逃げるとか聞いてねぇぞ!」


 そう言いながらも、背後に意識を向けたままラースもまた駆け出す。木々の間を縫うように走る三人。背後から聞こえてくるのは、自分たちの荒い呼吸音だけだった。


 残されたのは散らばった薪の炎。アーク・ダスクロロスは、前足で大地を抉るように薪を吹き飛ばす。ゆっくりと炎は消え、闇が深くなっていく。ダスクロロスの群れは、まるで何事もなかったかのように、静かに消えていった。



 * * *



 痛みが生み出す熱。それがリーゼの意識を混濁させ、白昼夢のように過去の出来事が流れ込んでくる。


 陽だまりの教室。穏やかな午後の光に包まれた魔導施設の一室で、カリーナ先生の声が響いていた。


「カリーナ先生、お聞きしたい事があります」


 ウェデリアの声が、生態系についての講義を遮る。カリーナは怪物と呼ばれる生物たちの習性について語っていたところだった。


「なんですか?ウェデリア」


 カリーナは穏やかに問いかける。


「どんな怪物もそんな風に決まった行動を取るものなんですか?」

「面白い質問ですね」


 カリーナは興味深そうに目を細めながら、リーゼに視線を向ける。


「リーゼはどう思いますか」


 リーゼは一拍置いてから答える。


「それは、先生が教えてくださっている以上、そういう行動を取るものなんじゃないでしょうか」


 カリーナの口元に緩やかな微笑みが浮かぶ。


「残念ですが、そうとは限りません」


 開いていた本をパタンと閉じる音が、静寂の中に響いた。


「私たちはあらゆる事象において、完全に理解しているわけではないという前提に立つ必要があります」


 二人の正面に立つように体を翻し、カリーナは続ける。


「知識とは、理解そのものではなく、過去の事例という観測の積み重ねです。しかし、私たちの理解の及ばない領域が存在する以上、知識だけでは説明できない行動が現れるのは必然なのです」


 真剣な面持ちで、カリーナの声に力がこもる。


「だからこそ、知識に頼りすぎてはいけません。かといって、知識なく直感だけで行動するのもまた危険です。大切なのは、知識を土台としながら、感覚を研ぎ澄まし、あらゆる可能性に備えることです。最悪の事態を想定し、それに対処する準備を怠らないこと——それが魔導士としての心構えです」


 力強い言葉に緊迫した空気が流れる。その緊張を和らげるように、カリーナはわざとらしく、大袈裟に呆れた表情を見せながらウェデリアに声をかけた。


「ですので、ウェデリア。残念だけど、これは大切な講義なのです。苦手かもしれませんが、しっかりと学びなさい」

「はーい、わかりましたぁ」


 ウェデリアも大袈裟に落ち込んだ素振りを見せる。明るい彼女らしいおちゃらけだ。その姿を見て、カリーナとリーゼの口元に笑みが溢れた。



 * * *



 思い出に呼応するかのように、痛みでうなされるリーゼの口元だけが僅かに緩んだ。


「リーゼさん、起きてください」


 ルーカスの声で現実に引き戻される。ダスクロロスから逃げ出した後で、爪で裂かれた痛みから横になっていたリーゼはゆっくりと身体を起こす。少しの間意識が飛んでいたようだった。


「これを飲んでください」


 応急処置で縛った包帯を解いて、リーゼの右腕に薬を塗り込みながら、ルーカスは瓶に入った回復薬を差し出した。


 その液体をリーゼは座り込んだまま口にする。喉をすべり落ちるその液体は、まるで生命の息吹そのもののように体内へ広がっていく。傷ついた細胞が修復され、骨が繋がり、血が巡るような感覚。熱や痛みがゆっくりと和らいでいくのを感じた。


「すごく効きそうな気がする……」


 その言葉にルーカスは満足げな笑みを浮かべる。塗り込んだ薬の上に包帯を巻きながら、誇らしげに言った。


「私が調合したものです。評判いいんですよ、他所の回復薬とは効きが違うってね。さて、これで大丈夫です。数時間ほどで全快すると思いますよ」


 右の手のひらを閉じて広げる動作を何度か繰り返して、リーゼは感謝を込めて答える。


「ありがとう、ルーカスさん」

「で、説明はしてくれるんだよな」

 

 ラースは腕を組んだまま仁王立ちし、不機嫌そうな顔でリーゼを見下ろしている。ダスクロロスから逃げ出すなんて、剣士の恥だ——そんな気持ちが表情に満ちていた。


 リーゼは小さく息を吐く。意識が少しずつ冴えていく。


「あの群れは、私たちを狙って来たわけじゃない」


 リーゼは言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。ラースは腕を組みほどき、しゃがみ込んでリーゼを見つめる。その瞳には疑念の色が浮かんでいる。

 

「どういう事だよ」

「確かに、私たちを襲うつもりで来たにしては、少し変でしたね。囲むわけでも、一斉に襲いかかってくるわけでもなかった。まるで、元々私たちの存在に気づいていなかったかのように」

「ルーカスさん、地図を貸してくれる」

 

 ルーカスは頷き、地図を渡す。地図を広げ、しばらく眺めていたリーゼは、人差し指で先ほどの遭遇地点を指し示した。

 

「あの群れが私たちに遭遇したのは偶然だとして、考えられる可能性は二つ」


 リーゼは真剣な表情で説明を始める。


「一つは、この森のどこかにダスクロロスにとっての楽園のような場所があり、生息地を変えようとする引っ越しの途中だった。もう一つは、ダスクロロスが狙う別の獲物が近くにいて、それを狩るための移動の途中だった」


 そう言いながら、リーゼは指を滑らせていく。二度の遭遇地点を繋いでさらに真っ直ぐと先へ。その細い指先は、森を抜けてある場所で止まった。


「もし、後者の可能性だとしたら……」


 眉をひそめたリーゼの声が僅かに震える。最悪の事態を想定し、それに対処する準備を怠らないこと——カリーナ先生の言葉が脳裏に蘇る。


「最悪の場合、本当に狙われているのはメッツァキュラの村かもしれない」


 リーゼの推測に、ルーカスは声を荒げた。


「そんな!ダスクロロスが、わざわざ長い距離を移動して、集落を襲うなんて聞いたことがありません!」

「私だって聞いたことないよ!」


 リーゼは地図から目を逸らさずに強い声を上げる。メッツァキュラは冒険者組合もないような小さな村だ。当然、冒険者が長く滞在することもない。そんな村がもし襲われたら——。


 村を蹂躙するダスクロロスの群れ。逃げ回る村人、子供達。ラースはそんな映像を消すように首を振り、リーゼの肩に手を置きながら問いかける。


「なぁ、その最悪が起きる確率はどれぐらいあるんだ?」

「わからない」


 リーゼは首を振る。


「ダスクロロスは好んで人間を襲うわけじゃないはずだから……本当にわからないんだ」


 考えが整理できないまま、ルーカスに視線を向ける。その視線に気づいたルーカスは静かに頷いた。


「あのダスクロロスが移動中だとしたら、もう大丈夫ですよね。一旦、さっきの野営地に戻って荷物を回収して朝を待ちましょう」


 ルーカスは立ち上がり、ズボンについた汚れを払いながら続ける。


「そして、進みましょう。メッツァキュラまで」


 森のどこかで遠吠えが鳴り響いた。夜の帳が深くなってゆく。



 * * *



 知識とは観測の蓄積に過ぎない。


 人と言葉を交わすことのできない獣の知性を理解することは難しく、ましてや知ることすらできないだろう。ただ推測できるだけだ。正解がわからないまま。


 それでも、その獣には確かに知性と呼ばれるものがある。思考をする。自分が成すべきことについて。自分たちが成してきたことについて。


 四肢を大地に突き立てながら、力強く身震いをする。後ろ脚で首筋を掻きながら、その瞳は夜空を見上げていた。


 その獣は本能という概念を知らない——だが、その概念を知らなくても、血のさだめがその衝動を生み出していることを獣は実感している。自らを抑制しようとする知性をも塗り潰すような、その衝動を。抗えない呪いの積層を。


 沸き上がる衝動を放出するかの如く力強い遠吠えをする。


 血が訴えかける——敵は近い。



 * * *



 メッツァキュラを目指す旅路が始まった。


 目的地が変更になったからといって、道中に大きな変化があったわけではない。野営の時間が若干削られ、歩く速度が気持ち程度上がったぐらいだ。


 いや、もう一つだけ変化があった。野営の間に、ルーカスが手を動かすことが増えたのだ。戦闘に備えるため、様々なアイテムを調合している。


「それは何を作ってるの?」

「危険ですから近づかないでください!」


 覗き込もうとするリーゼの動きを、ルーカスは片手で制する。そして作業を進めながら問いかけに答えた。


「ハルヴァウスヘイナの凝縮液。簡単に言えば、神経毒です」


 その言葉を聞いて、リーゼはわずかに後ろへと身を引く。


「毒って……」

「私の仕込み矢は、さほど威力のあるものではないので。念のためです」


 そう言ってルーカスは、リーゼに作成済みの道具を手渡す。掌ぐらいの大きさで重量感のある丸い玉だった。


「これは?」

「稲妻草と呼ばれるサラマクッカの花を見つけたので、輝く石と言われるロイスタヴァキヴィの鉱石を粉にしたものと合わせてみました」


 ルーカスは説明を続ける。


「手持ちのものは、あまり質の良いものではなかったので、効果は薄いかもしれませんが、思いっきり地面に叩きつければ激しく光って目眩しになります。閃光玉の一種ですね」


 近くで素振りをしていたラースは、手を休めてルーカスに問いかける。


「すげぇな。閃光玉なんて作れるのかよ、そんな調合パッと思いつくもんなのか?」

「まさか」


 謙遜するようにルーカスは微笑む。


「調合師協会の標準配合集というものがありまして、基本的な配合はそこに載ってます。調合する人にとっては基礎知識ですね」


 感心するような表情の二人を尻目に、ルーカスは遠くを見るように目を細め、夜空を見上げる。誰に聞かせるというわけでもなく、思いがこぼれた。


「いつか、それに載るような配合を見つけてみたい。それは調合師としての夢でもあります」



 * * *



 ヘイノーラの街を出発して八日目の夕暮れ。順調に進めば明日の昼過ぎには、メッツァキュラの村に到着する予定だった。


 その移動の最中、ふとした疑問をラースは口にする。


「なんか、おかしくねぇか?」

「どうかしたの?」


 先頭を歩くラースの後ろから、リーゼは言葉を返す。立ち止まって振り返りながら、ラースは浮かんだ疑問を続けた。


「順調過ぎるのが、引っかかるんだよ。ルーカスはこんな風に、探索調査を何度もやってるんだよな」

「ええ」

「そりゃ、安全地域だから怪物なんてそういないのはわかるよ。ダスクロロスの群れなんかは、例外的な話だとしてもだ。こんなにも何も起きないもんかね。攻撃的な生物にすら会ってないんだぜ?」


 ルーカスは少し考えてから答える。


「まぁ、過去の調査でも、怪物以外の危ない生物に遭遇することはありましたが」

「ルーカスの香水効果じゃないの?他の生物に気付かれにくくなるんでしょ」


 リーゼの答えに、ラースはしっくりこない表情を浮かべる。首を傾げながら、話を打ち切った。


「そういうもんかな」


 考えたところでわかるわけがない。そう結論付けて、また歩き出す。


「もう少し進んでから、休むことにしようぜ。メッツァキュラについたら、食堂で美味い肉とか食いたいな。携帯食はいい加減飽きたよ」

「それもいいですね。魚なんかも——」


 ラースの軽口に返事をしていたルーカスの言葉が、突然途切れた。


 何事かと振り向いたラースの目に飛び込んだのは、棒立ちで固まっているルーカス。目を大きく開き、驚愕の表情を浮かべた横顔がそこにあった。


「あ、あれは……」

「どうかしたの?ルーカスさん」


 肩を軽く叩こうとしたリーゼの手が空を切る。


「間違いない!マナヘルッカ!」


 叫び声と共に、ルーカスは道から外れた茂みへと勢いよく駆け出していく。その動きは、普段の慎重で計算された動作とは正反対の、衝動的な無謀さに満ちていた。鞄が背中で激しく上下に揺れ、踏み込む足音が乾いた地面を蹴散らす。


「ちょっとルーカス!そっちは危ない!」


 リーゼの制止の声が、森に響く。しかしルーカスの耳には届かない。彼は茂みを掻き分けながら、目標に向かって一直線に突進していく。


「何でこんなところに――うわあああ!」


 何かに飛びつくような動作を見せた次の瞬間、ルーカスの足元で下り坂を覆っていた太いツタが、乾いた音を立ててへし折れた。重量を支えきれなくなったツタは、まるで古い綱が切れるように次から次へと裂けていく。


 バランスを崩したルーカスの体が宙に浮く。重力に従って落下する彼の姿は、まるで崖から転げ落ちる岩のようだった。背負っていた鞄の中身がガチャガチャと音を立て、体が転がりながら下っていく音が、やがて遠くなって聞こえなくなった。


 取り残された二人は、その様子を唖然とした顔で見つめる。一瞬の間が空いて、リーゼが誰に言うわけでもなく呟いた。


「私……ルーカスは、もうちょっと冷静で落ち着いた大人だと思ってた……」


 これが珍しいものを見つけたルーカスか。そんなことを思いながらラースも呟く。


「奇遇だな……俺もだ……」



 * * *


 ルーカスに突き破られた茂みは、黒くて深い穴のようになっている。先が見えない穴に向かってラースは大声で叫ぶ。


「おい、ルーカス!大丈夫かー!」

「はい、怪我はないです」

 

 無事を確認してから、ラースはルーカスが落ちた茂みをゆっくりと降りる。思ったより急で長い坂道だった。やがてその角度が緩やかになり、茂みを抜ける。


「いや、まったくお恥ずかしいところをお見せしました」


 転がり落ちた勢いで背負い鞄から散乱した荷物を拾いながら、ルーカスは苦笑いを浮かべる。草の葉っぱが髪に絡みついているのも気づかずに。


「いったい何を見つけたんだよ」

「マナヘルッカという植物なんです」


 ルーカスの目が再び輝く。


「魔力に反応する非常に珍しい植物で、まさかこんな場所で見つかるなんて思ってもみませんでした」


 興奮を抑えきれないルーカスに、ラースは何と声をかけていいのかわからない。茂みの上からリーゼの声が響いてくる。


「二人とも大丈夫ー?」

「ああ、リーゼも降りてきてくれ!」


 ラースは上を見上げながら大声で叫ぶ。


「わかったー!」


 少し遅れて返事が返ってくる。それを確認してから、ラースは周囲を見回した。先ほどよりは木々が濃く生い茂っているが、多少は開けた空間になっている。今日はここを野営地にするか——そんなことを考えていたときに、茂みに埋もれている石碑のようなものが目に入った。


 ラースは石碑に近づく。ずいぶん古いもののようで風化が進み、掘られた文字は所々欠けている。読んでみようと目を細めるが、古そうな文字で何が書かれているのかよくわからなかった。


「よっと。やっと着いた」


 息を切らしながらリーゼが到着し、ルーカスに声をかける。


「ルーカスさん、大丈夫?」

「いや、すみません。マナヘルッカを見つけてしまって」


 ルーカスは嬉しそうに説明を始める。


「いや、惜しかったです。これがあれば、昨日渡した閃光玉も、リーゼさんの魔力で炸裂するように作れたんですが。それにですね——」

「おーい、リーゼ。ちょっと来てくれ」


 長くなりそうなルーカスの話を遮るように、ラースはリーゼを呼びながら石碑を指差す。


「何か書いてある石碑があるんだけど、読めるか?」


 リーゼは石碑の前にしゃがみ込み、書かれた文字を目で追った。


「これ、昔の言葉だね。ちょっと待って、所々しか読めないかもだけど」


 リーゼの後ろに立つラースの元に、ルーカスもやってくる。二人でリーゼの言葉を待つ。リーゼは風化した文字を指でなぞりながら、ゆっくりと読み始めた。


「単語ぐらいしか読み取れないけど……えっと……『祀る』……『この先』……『タル』……『エンターヤ』……」

「タルヒエンタヤ!」


 ラースの突然の大声に、リーゼは思わず身をすくませる。


「ちょっと、急に大声出さないでよ」


 眉をひそめながらも、リーゼは続ける。


「でも、そっか。タルヒエンタヤって読めるね。で、何それ?」

「何って、タルヒエンタヤだろ!」


 ラースの目が輝く。


「クヌートの英雄譚に出てくる白き獣!この前話しただろ」


 興奮を抑えきれないラースの姿を見ながら、リーゼは冷ややかな視線を向ける。


「いや、私は何も聞いてないけど……」

「その話をしてた時、リーゼさん寝てましたしね」


 ルーカスが苦笑いを浮かべながら補足する。


「何のことかはわからないけどさ」


 リーゼは立ち上がりながら続ける。


「この先に、そのタルヒエンタヤとやらを祀ってた場所があるみたいな案内文みたいだね」

「だったら、野営の準備が終わったら見に行ってみようぜ」


 ラースはパチンと指を鳴らす。


「そんな遠くじゃないんだろ?」

「何も大したものはないと思うけど……」


 浮かれているラースから目を逸らすように、リーゼはルーカスの方に視線を向ける。ルーカスは困ったような表情を浮かべながら言った。


「はは……流石に今日に限っては、私にそういう行動を止める権利はないと思ってます」


 リーゼは呆れたように深いため息を吐いた。


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