表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

第1話 試練(ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤ)

 大地が震えていた。


 規則的な振動が砂漠の地面を揺らし、赤茶けた岩肌から細かな砂粒がさらさらと滑り落ちる。月明かりに照らされた砂地には、巨大な足跡が刻まれ、その一歩一歩が近づくたびに振動は強さを増していく。


 高台から一つの影が素早く岩肌を滑り降りていた。


 身を包んだ薄いマントから覗く皮のブーツが、岩肌を蹴り跳ねる。反動で舞うように飛んだ影は、柔らかな砂地へと降り立った。着地の瞬間、大きく広がったマントの下から現れたのは、村人が着るような質素な麻のシャツと綿のショートパンツ。肩にかけた大きめのポーチと、腰に下げられた短刀。どれも所々を革で補強してあるものの、これから挑もうとしている試練には心許ない装備と言わざるを得なかった。


 月明かりが彼女——リーゼ・ノルシュトレームを照らす。肩まで伸びた緩やかな黒髪が夜風に揺れた。月光が反射するその髪は青みがかって見え、まるで頭上に広がる夜空の一部のようだった。白い肌には、ここまでの道のりで舞い上がった砂埃が薄っすらと付着している。


 リーゼは、表情を引き締めて前方を見つめた。心音が高鳴る。それは恐怖なのか、緊張なのか、あるいは高揚なのか。それは本人にもわからない。これから始まる試練への覚悟が、その瞳に宿っている。


 ポーチの中身を確認する指先が、わずかに震えていた。ルノナーデと呼ばれる魔力起爆式の魔道具。手のひらほどの大きさのそれが、今日の戦いにおける切り札の一つだった。


 地響きが一段と激しくなり、舞い上がる砂煙の向こうに巨大な影が浮かび上がった。


 岩を積み上げたような太い脚。全高は優に八十メートルを超えている。ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤ——砂漠を彷徨う巨大な放浪者。リーゼのような小さな存在など意に介さず、ただひたすらに自らの道を歩み続ける生物。


 リーゼは深く息を吸った。震える手でルノナーデを握りしめる。これは彼女にとって魔導士への道を決定づける卒業試験。失敗は許されない。意を決したように、リーゼは魔道具を手から放った。


 これは彼女の呪いと祝福の物語——だが、この瞬間に至るまでの経緯を語るには、時を少し遡る必要がある。



 * * *



 青白い満月が空で輝いている。雲一つない空から降り注ぐ月明かりが、岩だらけの砂漠を照らす。砂漠を覆う細かな砂粒が月の光を反射し、かすかに輝いている。岩稜はくっきりと浮かび上がり、その影の外にある背の低い木々が、また小さな影を作り出す。

 

 周りは静まり返っているが、時折吹く風が砂埃を巻き上げる。まるで夜空の星々のようだ。その光景を見ていると、時間が止まったかのような不思議な気分になる。まるで人の手が一切加わっていない、太古の世界に立ち会っているみたいに。


 周辺を一望できる高い岩場の上で、リーゼはその風景を黙って見つめている。


 そんなリーゼの背後にゆっくりと、ウェデリアが近づいていく。


 明るく健康的な肌の色と、それに負けないぐらいに輝く栗色の髪。頭から背中まで真っ直ぐに流れるようなその髪は、リーゼよりずっと長い。緊張を誤魔化すように、笑顔を浮かべている。軽装で動きやすさを優先したようなリーゼの服装とは対照的に、魔導士らしい重たげな黒いローブ。その袖先には、銀色で波打つような刺繍が施されていた。


「予測だと、そろそろなんだけどね」


 ウェデリアが言葉を紡ぐ。リーゼは友の声に振り向き、覚悟を決めたように頷いた。


「これが終わったらさ。リーゼはどうするの?」


 ウェデリアの声は、この先の出来事に怯えるように、わずかに震えていた。

 

「わからない。まだ、何も考えてないんだ」


 リーゼは正直に答える。

 

「そっか。まずは無事に卒業する事が最優先だもんね」


 エヴェラス大陸の西、アストラリアにある砂漠地帯。二人がそんな場所にいるのは、魔導施設の卒業試験の為だ。そもそも、なぜこんな事になってしまったんだろう——そんな事をリーゼは考える。


 遠い神話の時代、主神たる女神ヴァルダは脆弱な人類という種族に祝福という名の加護を与えたと伝わっている。人々は十五歳になると女神の洗礼を受け、それぞれの持つ祝福が花開く。リーゼやウェデリアの場合、それが魔法だった。


 魔法という祝福は、その珍しさのわりには使い勝手の良いものでは無かった。なぜなら魔法というものは、誰かに教わる事も出来ず、偶発的に自身の才により取得されるものだからだ。望んだ魔法が得られるわけではないし、望んでいない魔法を得たとしても一生付き合っていくしかない。そして、歴史に残るような優れた魔導士であっても、一人の魔導士が使えた魔法の数は五つが限界であり、殆どの魔導士は二〜三種類の魔法しか使えないという事だ。それが人類という種族の限界値なのかもしれない。


 もちろん、十五歳の洗礼時に魔法が発現しなくても、後々に魔法が発現する人達も居る。しかしその一方で、洗礼時に魔法が発現した人は、別の魔法も発現する可能性が高いとされている。その為、否が応でも殆どの子が魔導施設へ送られて、魔導士としての道を歩む事になるのだ。

 

「魔導士になりたかったわけじゃないんだけどな……」


 誰に聞かせるわけでもなく、リーゼは呟く。


 魔導士になる——それは実質的に怪物退治をする事と違いはない。もちろん、何かで名を上げれば別の道も出てくるかもしれない。少なくとも無名の間は一本道だ。だからこそ、卒業試験も同じだ。指定された怪物を退治する事。そして生き残る事。


 やがて遠くの方から地響きのような足音が聞こえてくる。リーゼはその方向に視線を向けながら言う。


「どうやら来たっぽいね」


 ウェデリアもまた、リーゼの視線の先にある黒い影が揺れ動くのを見る。そしてその視線を少し下げる。巨大な影まで続く大地は、途中で霞んでいる。

 

「ねぇ……リーゼ。あいつ、まだすっごく遠くに居るよね」

「そうだね」


 ウェデリアは身体の反応を抑えるように、唇を強く噛む。押さえ込もうとする意思に反して足が震える。そして諦めたように、引きつった顔のまま口元を緩めた。

 

「本で見たのと違いすぎるんだけど……」



 * * *



ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤ——巨大な四本脚の放浪者という名前の生物。リーゼとウェデリアに与えられた卒業試験の課題は、その生物の討伐だった。


 好戦的な性質ではない。しかし、あまりにも巨大な故に、その近くを通過するだけで壊滅的な被害を及ぼしてしまう。まるで、歩く山が引き起こす地震のように。踏み出す一歩一歩が大地を揺るがし、吐く息が砂嵐を巻き起こす。生きた自然災害——それがユルマ・ネリヤルカヴァエリヤという存在だった。


 しかし、疑問が浮かぶ。


 ウェデリアはその疑問を、教壇に立つ老魔導士カリーナに投げかけた。陽光が差し込む教室で、彼女の栗色の髪が光を受けてゆれる。


「先生、ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤは砂漠の決まったルートを周回しているだけの生物だと習いました。言うなれば、こちらから近づかない限り、害のない生物と聞いています。卒業試験とはいえ、わざわざ怪物扱いして退治する必要があるのでしょうか?」


 ウェデリアの声には、純粋な学習欲と僅かな困惑が混じっていた。隣に座るリーゼも、友の言葉に静かに耳を傾けている。


「ええ、もちろん必要です」


 カリーナは即座に答える。三つの魔法を自在に操り、莫大な知識を持つ彼女は、大魔導士の称号を持つ。しわの刻まれた顔に宿る眼光は鋭く、その口調は歳を感じさせないほどに明瞭で力強い。


 ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤは砂漠の特定の地域で生まれ、成長すると繁殖期を除いて自らの縄張りを延々と歩き回る習性を持つ。とはいえ、同族間で縄張り争いを起こすことはない。縄張りという言葉は、単にそれぞれの個体の巡回範囲を指す便宜上の呼称に過ぎない。そして、その縄張りの大きさは、個体のサイズに比例する。小さな個体の縄張りは狭く、大きな個体の縄張りは広い。


「通常、彼らは一定の大きさで成長が止まります」


 カリーナは教室の窓から差し込む光を背に、重々しく続ける。


「しかし今回、異常に成長を続ける個体が発見されたのです。つまり、縄張りを際限なく拡大し続けている、特異な個体が存在するということです」


 その言葉に、リーゼの表情がわずかに強張る。異常個体——それは自然の摂理を逸脱した、予測不可能な存在を意味していた。


「現在の成長ペースから計算すると、およそ三ヶ月後にはその個体の縄張りが砂漠を超え、近隣の街に到達する可能性があるとの報告を受けています」


 カリーナは説明を続けながら、リーゼとウェデリアの表情を素早く見渡した。二人の顔に浮かぶ緊張を確認すると、静かに頷く。


「ちょっと待ってください」


 沈黙を破るように、リーゼが口を挟む。


「それは、もはや怪物による街への襲撃と何ら変わりませんよね?そんな事態は、私たち見習いが対処するような規模の問題ではないはずです。本来なら、専門の討伐隊に依頼するべき案件だと思います」


 リーゼの声には、冷静な分析と同時に、隠しきれない不安が滲んでいた。


「その通りですが、今回は特別な理由があるのです」


 カリーナの表情に、微かな苦渋が浮かぶ。


 異常個体とはいえ、ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤは紛れもなく生物だ。学術的には、人を害する危険な群体を怪物として分類する。生物に対して討伐隊が組まれる事は原則的には無い。


 加えて、ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤは、その巨躯と特殊な性質ゆえに、近接戦闘に特化した者との相性が悪い。討伐するためには、それ相応の技量を持つ者か、魔導士である必要がある。


 つまるところ、リスクに見合った報酬が期待できないのだ。熟練の冒険者ほど、そうした依頼を敬遠する。


 カリーナは深く息を吸い、決然とした表情で告げた。


「わたしたちは、例外的な成長を続けるそのユルマ・ネリヤルカヴァエリヤの個体を、怪物と認定します。そして、その討伐をあなた方二人の卒業試験に指定します」


 教室に重い沈黙が落ちる。陽光は相変わらず窓から差し込んでいるが、その光さえもどこか薄暗く感じられた。


「ここで学んだ知識を実践の場で活かし、培ってきた能力を存分に発揮しなさい。それでは、討伐計画の詳細を説明しましょう」


 カリーナの言葉が響いた瞬間、リーゼとウェデリアは運命の歯車が回り始めるのを感じた。もはや後戻りはできない。二人の運命が、大きく動き出した。



 * * *



 遠い地平線の向こうから、規則正しい地響きが伝わってくる。ドン、ドン、ドン——それは巨大な心臓の鼓動のように、砂漠の静寂を打ち破っていた。


 やがて、ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤの姿が徐々に視界に収まってくる。最初は蜃気楼かと見紛うばかりの巨影が、次第にその全貌を現していく。


 全高は五十メートル——いや、それ以上だ。


 巨大な体躯の大半は、太くて長い四本の脚で占められている。一本一本が古代の神殿の柱のような太さを誇り、踏み出すたびに砂塵を巻き上げる。遠目から見れば、まるで歩く山そのものだった。


 ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤの体表は、長い年月をかけて蓄積された砂漠の岩や砂に覆われている。まるで砂漠そのものが意志を得て立ち上がったかのよう。風化した岩塊や細かな砂粒が複雑な模様を描き、生物と鉱物の境界を曖昧にしている。その奇妙な姿から、かつては二体の岩の巨人が歩いていると考えられていたほどだ。


「あの大きさだと、実際は八十メートルぐらいありそうだね」


 リーゼの呟きは、かすれていた。喉の奥が渇いているのを感じる。


「そんなに大きくなるなんて……」


 ウェデリアの声は震えている。握りしめた両手に汗が滲んでいた。


「書物の記述とは大違いだね」


 ウェデリアは力なく頷く。知識と経験は違う——今、その言葉の重みを身をもって理解していた。書物で得た知識と、目の前の圧倒的な存在との違い。活字で読む「巨大」という言葉と、実際に仰ぎ見る「巨大」の隔絶した差。魔導士は、知識を正確に疑似体験へと置き換える能力を持たなければならない。しかし、彼女たちのような若い魔導士見習いには、まだまだ経験が不足している。


 風が止んだ。砂漠に不自然な静寂が降りる。


「大丈夫。私たちは二人で戦うんだから」

「でも……」

「ウェデリアは私を信じてくれるよね?」


 ウェデリアは、リーゼの瞳を見つめる。その青みがかった黒い瞳には、不安と決意が入り混じっていた。それでもその奥に宿る意志の強さが、ウェデリアの心に勇気を灯す。


「うん……ありがとう、リーゼ」


 二人で頷き合う。そして、リーゼはウェデリアに背を向けるようにして、岩肌を滑り降りて行った。作戦を決行するために。


 ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤの足音が徐々に近づいてくる。



 * * *



 教壇で二人の前に立つカリーナが、手にした古い書物を閉じる。そうして真剣な眼差しを向けながら、静かに語り始めた。


「ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤについては、まだ未知の部分が多いというのが現状です」


 その理由は簡単だ。ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤは人に対して無関心なのだ。彼らにとって、人の存在は脅威でもなければ、興味の対象でもない。ただひたすらに、自らの縄張りを歩き続けるだけ。だからこそ、人々も彼らを詮索しようとは思わない。差し迫った危険がないのなら、わざわざ近づいて生態を探ろうとする者はいないのだ。


 もちろん、人と遭遇することはある。だが、それすらもユルマ・ネリヤルカヴァエリヤにとっては、ただの通り過ぎる風景でしかない。まるで、道を歩く人が足元の小さな虫を見つけたときのように。たまたま踏みつぶしてしまっても、彼らは気にも留めないだろう。


 だが——カリーナの声音が変わる。


 もしその虫が毒を持っていたら?もし、その虫が自分に敵意を向けていると気づいたら?その時、人は警戒し、進路を変えるはずだ。


「だからこそ、あなた達はユルマ・ネリヤルカヴァエリヤに、危険だと思われてはいけません」


 カリーナの口調に、これまでにない強い力がこもる。


「もし彼らが脅威を感じ、いつもの巡回ルートを変えてしまったら——」


 一瞬の間。


「予測を超える惨事が起きるかもしれません」


 教室の空気が重くなる。リーゼとウェデリアは、その言葉の重みを噛みしめていた。


 課題の条件は明確だ。ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤに敵意を悟られないこと。そのために、魔法の使用は最小限に留めること。そして使うときは、最短の手数で、確実に仕留めること。


 リーゼが囮となって注意を引き、ウェデリアが魔法で体表を露出させる。そしてリーゼが、致命となる一撃を与える。


 シンプルな計画——だが、実行は極めて困難だ。


 カリーナはリーゼとウェデリアを見つめ、表情を和らげると、静かに、しかし力強く言った。


「あなた達なら、必ずやり遂げられるはずです」


 その言葉には、教師としての信頼と、同時に母親のような深い愛情が込められていた。二人の心に、最後の勇気が灯る。



 * * *



 リーゼは深く息を吐きながら、眼前に迫るユルマ・ネリヤルカヴァエリヤを見つめた。


 腰のポーチに手を入れ、ルノナーデに触れる。魔力によって起爆する手投げ式の爆弾——使う魔力の量で破壊力が増す道具ではあるが、見習い程度の魔力では、ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤの体表を露出させることはできないだろう。問題はない。彼女の目的は体表の砂岩を取り払う事ではない。意識を逸らし、少しばかり足止めさせれば十分だ。


 それでも彼女には次の役目がある。魔力を必要以上に使ってもいけない。節約し過ぎてもいけない。完璧なバランス感覚が求められている。失敗は許されない。


 地響きが、さらに大きくなる。もはや振動ではなく、大地そのものが脈打っているかのようだ。それだけでは終わらない——断続的に吹き荒れる強風が、リーゼの身体を容赦なく揺らす。ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤが一歩足を進めるたびに、大気もまた震撼するのだ。


 まだ距離があるというのに、舞い上がった砂が頬を打つ。片手で守るよう覆って細めた目でリーゼはその巨体を見つめた。


 ——この巨大な生物は、何を考えて砂漠を周回しているのだろう。


 その巨体を震わせながら、昼夜を問わずただ移動するだけの生物。それは他の生物とは余りにも異質だ。それとも、この岩と砂に覆われた大地で、自然生態系の循環の一部を背負っているのだろうか。


 答えは、わからない。


 砂塵に揺らめくユルマ・ネリヤルカヴァエリヤを見上げる。遥か高くにある頭部は霞んで見えて、リーゼにはその生物の表情を読み取ることはできない。足元の小さな侵入者に気づいているのか、いないのか——。


「どちらでもいい」


 リーゼは鼓舞するように呟き、決意を固める。


 ポーチからルノナーデを取り出すと、その冷たい金属の感触を確かめた。一呼吸置いて、ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤの足元に向けて投げつける。


 数秒後——激しい爆発音と共に砂塵が舞い上がった。爆風がリーゼの髪を激しく揺らし、マントが風に翻る。身体を守るようにして、リーゼは煙の向こうを見つめた。


 思った通りだ。多少の欠けがあるにせよ、ほとんど傷ついていない。


 リーゼがそう考えた次の瞬間——爆発音の残響を打ち消すように、頭上から激しい唸り声が響く。地の底から湧き出るような、低く響く轟音。それは空気を震わせ、地面を揺らし、彼女の思考を乱す。


 そして、ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤは片足をゆっくりと上げた。


 時が止まる。


 (逃げろ)


 本能が叫ぶ。一瞬の硬直。リーゼは足に力を込めてその場から離れる。だが、彼女を踏みつぶさんとして上げられた足の作り出した巨大な影が、その周辺を覆っていた。頭上からユルマ・ネリヤルカヴァエリヤの重い圧がゆっくりと近づいてくる。その圧力は全身を覆い、直接肺を押しつぶすかのように、彼女の呼吸を乱す。


 (諦めるな)


 リーゼは歯を食いしばる。私の役目はまだ終わっていない。


 高所より振り下ろされた巨大な足は大気を切り裂き、大地を踏みつけた。巨大な砲弾が撃ち込まれたような轟音と、激しい突風が周囲に広がる。その風はリーゼの身体を木の葉のように吹き飛ばし、岩場に叩きつけた。


 世界が回転する。痛みが全身を駆け巡った。



 * * *



 ウェデリアは、リーゼと別れた瞬間から集中を始めていた。


 目を閉じ、静かに呼吸を整える。祝福により発現した魔法——それは常人が及ぶことのない力だ。でも、決して万能ではない。カリーナ先生が繰り返し教えてくれた言葉。


 体内を流れる魔力に想いを寄せる。血管を流れる血液のように、全身を循環するあたたかな流れをイメージする。


「魔法とは思いの具現化です」


 カリーナ先生の声が蘇る。心を乱さない事。疑わない事。探るように、全身の魔力が発する熱を感じ取る。


 その時——リーゼの起こした爆発音が砂漠に響き渡った。


 ウェデリアは目を開き、詠唱を開始する。もう迷いはない。


 ——深淵の湖より我が声に応えよ。地の底深く、空の果て。大地の息吹、大気の脈動、それの名は生命の源。


 詠唱——それは魔力を変換し、具現化するための祈りだ。魔法とは呪文を唱えるだけで発動するほど安易なものではない。詠唱という形で魔力を練り、呪文にて解放する。経験が少ない魔導士ほど、その詠唱に集中する必要がある。


 その状態は、ひどく無防備だ。


 だからこそ、相手の意識を逸らす必要がある。リーゼが命懸けで作り出した隙を、無駄にするわけにはいかない。


 詠唱に呼応するように、ローブに施された銀の刺繍が青く輝き始める。その光がウェデリアの身体を覆うように広がっていく。長い栗色の髪が宙に舞い、ローブの端がたなびく。それはまるで、彼女自身が水の精霊になったかのようだった。


 ——潜めし姿よ我が手の先に。どうかこの手に祝福を。


 ウェデリアの魔法——それは水の魔法だ。大気中や地中に含まれる水分を集め、砂漠のような乾いた場所でも水を生み出すことができる。


 そのイメージを拡大していく。眼に見える範囲から、眼に見えない大地の底から、空の彼方から。霧のように漂う水分が掌に集められていく情景を思い描く。そして、その解放を。


「アクヴォ・エルティラード!」


 奔流のような水柱が、ウェデリアの手から放たれる。その狙う先は遥か上空、ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤの胸の辺り。小型の怪物であれば、その質量に押し潰されて終わるほどの破壊力がある。


 しかし、相手は大きすぎる。


 その全てを呑み込むことはできないし、彼女にその光景をイメージできるほどの力もない。それでも——ウェデリアは信じて、イメージし続ける。乾ききった大地が豪雨で崩れるように、ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤを覆う岩や砂が剥がれ落ちる姿を。そして、薄い体表が姿を表すのを。


 水柱が巨体に衝突する。砂塵が舞い上がり、岩片が飛び散る。


 成功したかどうかは、まだわからない。


 だが、今しかない。


「リーゼッ!いまっ!」


 力の限り、魂を込めて、ウェデリアは叫んだ。



 * * *



 魔導施設に入学して間もない頃——リーゼはカリーナ先生との個別面談で、自身の持つ魔法について説明することになった。


 午後の陽光が差し込む個人研究室。カリーナ先生は机に肘をつき、手を組んでリーゼを見つめながら静かに尋ねる。


「リーゼ・ノルシュトレーム。貴女の魔法について説明してみなさい」


 その穏やかな問いかけに、リーゼは自分の理解している範囲で説明を始めた。しかし、まだ知識の浅い彼女では、うまく言葉にできない部分も多い。混乱する説明を、カリーナ先生は慈愛に満ちた微笑みで受け止め、優しく補足してくれる。


 無詠唱魔法——瞬時に発動を可能とする特殊な魔法。


「一般的に、強力な魔法ほど詠唱が長くなるものです。それを考えると、無詠唱魔法はとても優れているように感じませんか?」


 先生の言葉に、リーゼは少し自信を取り戻したように感じた。しかし、カリーナ先生の表情は変わらない。深く思慮するような眼差しで、まるでリーゼの心の奥を見透かすように見つめている。


「ただし」


 先生の声音が、わずかに厳しくなる。


「詠唱魔法は詠唱を変えることで効果を調整することができます。無詠唱魔法はそれができない。応用の効かない魔法とも言えますね。その違いをしっかり覚えておきなさい」


 リーゼは先生の言葉の意味を理解しようと、懸命に頭を巡らせた。自分の魔法の特性、その長所と短所——。


「わかりました。ありがとうございます」


 そう礼を言って、部屋を出ようとするリーゼを、カリーナ先生は呼び止める。


「待ちなさい。リーゼ」


 振り返ると、カリーナは立ち上がってリーゼに歩み寄る。そして長い年月を経て皺の刻まれた、しかし力強い手で、リーゼの手をそっと取った。


「貴女の戸惑いは、私にもよくわかります」


 透き通るような青い瞳でリーゼを見つめ、母親のような優しさで語りかける。


「でも、その力はいつか貴女の助けになるはずです。そして——」


 カリーナは一瞬言葉を区切り、より深い愛情を込めて続けた。


「きっと、大切な人を守る力になりますよ」


 その言葉に、リーゼは胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。まだ自分の力を完全に理解することはできない。それでも、自分の魔法と向き合っていこうと心に決めた。


 カリーナ先生がそのように言ってくれたのだから。



 * * *



 ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤの引き起こした突風で叩きつけられた身体に、稲妻のような衝撃が走る。骨の髄まで響く強烈な痛み。このまま気絶してしまいたい——そんな甘い誘惑が脳裏を過ぎる。だが、その一瞬の弱音を、リーゼは歯を食いしばって打ち消した。


 まだだ。まだ終わっていない。


 苦悶の表情を浮かべながらリーゼは立ち上がる。全身に走る痛みを無視して、マントを投げ捨てながら駆け出した。痛む身体で目指すのは、ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤの真下。未熟な魔力であっても目的を果たせるように——最短の距離で。


 頭上で轟音が鳴り響く。


 ウェデリアの魔法が発動した音だ――リーゼは走りながら魔力を練る。左手に集まっていく青白い光。頭上を見上げる。ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤを覆っていた砂岩が崩れ落ちてくるのが見える。計画通りだ。ウェデリアならきっとやってくれる。ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤの体表が露出したはずだ。


「リーゼッ!いまっ!」


 ウェデリアの声——その声を打ち消すように、天地を揺るがす咆哮が響き渡った。


 それは荒ぶる海の波のように激しく、底知れぬ力強さを宿した轟音だった。大地が悲鳴を上げるように震える。咆哮は津波のように広がり、広がった音の波は引き潮のように戻っていく。その波動は周辺の岩や砂と共にリーゼを巻き込み、跳ね上げていく。


 激しい嵐の中へと放り込まれたように、彼女の身体は宙に舞う。


 全身を覆う砂や岩は身体の一部ではない。ゆえに剝がすことは可能だが、例え体表を露出させることができたとしても、ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤはすぐに周辺の岩や砂を吸い込むように吸着させ、体表を再び覆ってしまうだろう――ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤについて書かれていた書物の言葉を思い出す。リーゼは思う。


 ——これが一個体の生物が持つ力なのだろうか。


 それが自然の摂理のほんの一欠片だというのであれば、この世界はあまりにも広大で、自分はあまりにも小さい。


 だが、小さくても——身を捩るようにして、リーゼは吸い寄せられる先に視線を向ける。ウェデリアの魔法によって露出した体表。薄く透けるような、生身の肌。そこに向けて震える手を伸ばす。


 そして、魂を込めて唱える。


「エク・ブーリロ」


 閃光という意味を持つ呪文。無詠唱で放たれた速く不可避な光の矢が、ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤの胸を真っ直ぐに貫いた。


 世界が静止する。一瞬の、完全な静寂。


 リーゼは宙に浮いたまま、その光景を見つめる。ウェデリアの魔法で舞い散った水飛沫に、リーゼの放った残光が反射している。光と水が織りなす、美しい光景——。


「虹だ……」


 リーゼがそう呟いた瞬間、ユルマ・ネリヤルカヴァエリヤの巨体がゆっくりと崩れ始めた。


 大気を震わせる重々しい音を立てながら、長い年月をかけて蓄積された岩と砂の塊が剥がれ落ちていく。古い鎧を脱ぎ捨てるように、巨大な生物の本当の姿が露わになる。


 リーゼを引き寄せていた不思議な引力は失われ、今度は重力が彼女を捉える。そして、崩れ落ちる土砂に呑まれるように、リーゼもまた落ちていく。


 (ああ……これで、終わったんだ……)


 着地の衝撃が全身を貫く直前、リーゼの心に深い安堵が広がった。やり遂げた。ウェデリアと二人で、やり遂げることができた。


 彼女の意識は、深い闇に飲み込まれていった。



 * * *



 白と黒だけで構成された、色褪せた記憶の断片。洗礼の儀式——あの日の光景が、リーゼの脳裏に鮮明に蘇る。何度も、何度も、容赦なく繰り返される悪夢のように。


 その光景をまるで他人事のように、外側から棒立ちで私は眺めている。


 石造りの祈祷所に跪く十五歳の自分。震える手を胸の前で合わせ、神官の前に頭を垂れている。暗い影がその表情を隠している。


「リーゼ・ノルシュトレームよ。君が親愛なる女神より与えられた祝福は魔法だ」


 神官の宣言が、静寂を破って響く。


 洗礼を見守っていた村人たちの間に、どよめきが広がった。


「聞いたか?魔法だってよ」

「やっぱりな……母親と同じか」

「厄災の血筋だ」


 囁き声が雨音のように降り注ぐ。十五歳のリーゼは、その中で一人の少女を探した。村で一番仲が良かった子——心から友達だと思っていた相手を。


 視線が合った瞬間、リーゼの心は凍りついた。


 その瞳に宿っていたのは、明確な怯えと恐怖。友情の欠片もない、拒絶の感情だけが浮かんでいる。


 ――もう止めてくれ。


 現在のリーゼが、記憶の中で叫ぶ。この痛みを何度味わえばいいのか。

 

 ――私の魔法が誰からも望まれなかった事なんて、もう十分に理解している。


 だが記憶は容赦なく続く。あの日から始まった孤独が、彼女を今もさいなみ続けている。



 * * *



 遠くから、誰かが自分の名前を呼んでいる。


 ウェデリアの声だ——リーゼはゆっくりと目を開けた。視界がぼやけて、焦点が定まらない。まるで深い海の底から、ゆっくりと水面に向かって浮上するような、不思議な感覚だった。


「リーゼ!リーゼ!」


 ウェデリアの呼ぶ声が、少しずつはっきりとしてくる。目の前に広がるのは、月明かりに照らされた夜空。満天の星が瞬いている。そして、その優しい光に照らされたウェデリアの顔が見える。


 砂埃と涙でぐちゃぐちゃになったその顔に、安堵の表情が浮かんでいた。


「良かった……良かった……生きてた……」


 ウェデリアの声は震えている。喜びと安堵が入り混じった、かすれた声だった。


「ごめん……心配かけちゃったね」


 リーゼは小さな声で応える。喉が渇いて、声がうまく出ない。ウェデリアは涙を拭うと、何度も頷いた。


 リーゼが微笑みを返そうとした時、全身に鈍い痛みが走った。意識がはっきりしてくるにつれ、痛みも鮮明になっていく。骨の奥まで響く鈍痛。きっと、自分は死んでもおかしくなかったのだろう。


 ——それなのに、こうして生きている。


「ねえ、ウェデリア……」


 リーゼは星空を見上げながら、呟くように言った。


「私、本当はこんな力、いらないのかもしれない……」


 ウェデリアは驚いたように目を見開く。


「どうして……そんなこと言うの?」

「だって、私の力は……」


 リーゼは自分の左手を見つめる。つい先ほどまで閃光を放っていた手のひら。


「何かを壊すことしかできないから」


 かすれた声でつぶやきながら、リーゼは考える。もし、私の魔法がウェデリアの魔法だったら——喉の渇いた誰かに飲み水を与えられたかもしれない。渇いた大地に恵みを与えられたかもしれない。


 カリーナ先生は言ってくれた。この力はいつか私を助けてくれると。


 本当にそうだろうか?


 きっと私はこの先、今日のような戦場で、今日のように死にそうになるのだ。祝福という名の呪いを抱えたままで。


「ウェデリアのような、人の役に立つ力が欲しかった……」


 そう言ったリーゼの手を、ウェデリアは黙って握った。その温かな感触は、あの日のカリーナ先生の手を思い出させる。同じ優しさ、同じ愛情——。


「リーゼ……」


 ウェデリアは真剣な眼差しでリーゼを見つめる。その瞳には、揺るぎない確信が宿っていた。


「あなたの力は、私を助けてくれた」


 月明かりが、二人の顔を柔らかく照らしている。


「あなたがいなければ、私はここにいない。あなたの力は、私の命を守ってくれたの。それだけじゃない——」


 ウェデリアの声に、これまでにない強さが宿る。


「あなたの力は、あの巨大な生物を倒したのよ。誰にもできないことを、あなたがやり遂げたの」


 リーゼの瞳に、涙がにじむ。ウェデリアの言葉が、胸の奥深くに染み入っていく。その言葉を噛みしめるように、リーゼは目を閉じる。


「そうだよね……ごめん、こんなことを言って……」

「謝ることなんてないよ。こっちこそ、ありがとう」


 ウェデリアは微笑む。その笑顔には、心からの感謝が込められていた。


「それにね、リーゼの魔法は何かを壊すだけじゃないよ」


 ウェデリアの言葉に、リーゼは目を開く。


「あの時、私にも見えたの。リーゼの魔法が残した虹の景色が」


 その瞬間、リーゼの心に鮮やかな記憶が蘇る。ウェデリアの水魔法で舞い散った水飛沫に、自分の閃光が反射して生まれた、あの美しい虹——破壊ではなく、創造。


 込み上げていた涙が、静かに溢れ落ちる。二人は互いを見つめ合い、心からの微笑みを交わした。


 傷だらけの体を支え合いながら、ゆっくりと立ち上がる。全身に走る痛みも、今は苦痛ではなく、生きている証しのように感じられた。


「さあ、帰ろう。みんなが待ってるよ」


 ウェデリアに支えられながら、リーゼは歩き出した。


 頭上では、無数の星が祝福するように瞬いている。そして遠い地平線の向こうに、新しい夜明けの光がほのかに差し始めていた。


 彼女たちの新しい物語を、祝うように。

 


 * * *




 リーゼの傷が癒えたころ、二人はカリーナの部屋へと呼び出される。寮の部屋から続く長い廊下を歩きながら、リーゼは窓の外を見つめた。外は細い雨が音もなく降っていて、石畳を静かに濡らしている。

 

「卒業試験は合格です。二人ともお疲れさまでした。これで貴女達は一人前の魔導士となります」

 

 カリーナの言葉に、二人は深く礼をする。そしてカリーナは、今まで何十回も繰り返してきたであろう話をする。魔導士とはどうあるべきか。この先何を学んでほしいか。それは彼女が誰かを送り出すたびに、繰り返してきたはなむけの言葉だった。

 

「魔法は人を傷つけるためだけの力ではありません。それを忘れないでください」

 

 カリーナの最後の言葉が、リーゼの胸に深く響く。長い話が終わり、二人は部屋から出る。廊下を歩きながら、肩の力が抜けたウェデリアは卒業を実感していた。

 

「ねぇ」

 

 ウェデリアはリーゼの顔を覗き込むように話しかける。

 

「これから先、リーゼはどうするか考えた?」

「わからないけど、旅にでも出ようかと思う」

 

 その言葉を聞いて、ウェデリアは満面の笑みを浮かべる。その笑みにつられるように、リーゼも微笑みを返した。

 

「旅ねぇ。どこを目指すの?」

「とりあえず、虹の向こう側へ」

 

 リーゼは視線を窓の外に向ける。いつの間にか雨は上がり、雲の切れ間から差し込む夕日が空を染めていた。そこには七色に輝く虹が、まるで希望への道筋を示すかのように弧を描いている。

 

「虹の向こう側か」


 ウェデリアも同じ方向を見つめながら、静かに呟いた。

 

「きっと、素敵な場所よ」

 

 二人は並んで虹を見上げる。それは卒業試験で見た、あの美しい虹の記憶と重なっていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ