第一話:見知らぬ夜空と、血の匂い
背中に突き刺さるような冷たさと、鼻腔を刺激するむせ返るような土の匂い。神谷 陽介は、重い瞼をこじ開けた。視界に飛び込んできたのは、無数の星々が宝石のように鏤められた、どこまでも深い漆黒の夜空。そして、その中央に鎮座する巨大な月は、まるで血を吸ったかのように不気味な赤みを帯び、禍々しい銀色の光を地上に降り注いでいた。その光には、鉄錆と獣の腐臭が混じり合ったような、強烈な異臭が纏わりついている。
(なんだ……ここは……? 昨夜、俺は確かに自分の部屋のベッドで……新しい安眠枕の感触を確かめていたはずだ……)
陽介は掠れた声で呟き、混乱する頭で必死に記憶を辿ろうとする。だが、最後に覚えている枕の感触の直前、閃光と共に鼓膜を裂くような絶叫を聞いた気がするものの、それ以外の記憶は濃い霧に覆われたように曖昧模糊としていた。
パニックに陥りそうになるのを、陽介は深呼吸で無理やり抑え込んだ。三十年間、決して平坦ではなかった社会人生活で培われたストレス耐性と、幾度となく経験してきた理不尽なトラブル対応の経験が、こんな極限状況で役立つとは皮肉なものだ。冷静に、まずは状況把握。それが、染み付いたサラリーマンとしての思考回路だった。
ゆっくりと身を起こすと、全身の関節が悲鳴を上げた。周囲を見渡せば、天を突くかのような巨大な樹木が生い茂り、月明かりに照らされたその葉は、まるで亡霊のように不気味な影を地面に落としている。足元の湿った土と腐葉土の感触が生々しい。そして、陽介のすぐ傍らには、黒く焼け焦げ、抉られたような地面が広がっていた。それは、まるで強力な爆発か、あるいは巨大な何かが暴れ回ったかのような、凄惨な戦闘の痕跡だった。風が木々を揺らす音に混じり、遠くで聞いたこともない甲高い虫の声が響く。そして、それら全てを覆い隠すかのように、濃厚な血の匂いと、微かに人の呻き声のようなものが風に乗って運ばれてくる。
立ち上がろうとした瞬間、陽介は自分の身体に起きた異変に気づいた。普段なら、寝起きの身体は鉛のように重く、ましてや昨夜は残業で疲労困憊だったはずだ。しかし、今の身体は嘘のように軽く、まるで羽が生えたかのようにスムーズに起き上がることができた。全身に満ちる、覚えのない力強さ。学生時代に鍛えていた頃を遥かに凌駕するような、圧倒的な身体能力。
(なんだ、この力は……? 俺の身体じゃないみたいだ……)
その時、背後の茂みから、低い唸り声が聞こえた。それは、飢えた獣が獲物を見つけた時の、殺意に満ちた音。陽介は反射的に振り返る。暗闇の中に、ぼんやりと光る二つの赤い点が浮かび上がり、徐々に近づいてくる。やがて月明かりの下に姿を現したのは、狼に似たシルエットを持つ、しかし全身が黒曜石のような硬質な鱗で覆われた異形の魔獣だった。鋭く研ぎ澄まされた牙が月光を反射し、低い咆哮が静寂を切り裂く。その体には、新しいものから古いものまで、無数の傷跡が刻まれ、口からは絶えず涎が滴り落ちていた。その赤い双眸は、明確な敵意と飢餓感を湛え、陽介を射抜いている。
「グルルルル……ッ!」
本能的な恐怖が陽介の全身を粟立たせた。逃げなければ。そう脳が警鐘を鳴らすより早く、魔獣は低い咆哮と共に地面を蹴り、陽介目掛けて一直線に飛びかかってきた。その動きは、訓練された猟犬すら置き去りにするほどの俊敏さだった。
思考が追いつかない。だが、陽介の身体は、まるで長年鍛え上げられた戦士のように、勝手に動いた。魔獣の突進を、最小限の動きで紙一重に回避。そして、傍らに転がっていた、人の腕ほどもある太い木の枝を、まるで手慣れた武器のように掴み取り、無意識の内に振り抜いていた。
ゴッ!
鈍い衝撃音と共に、魔獣の頭部が砕け散る感触が手に伝わる。獣は悲鳴を上げる間もなく、その場にぐったりと崩れ落ち、二度と動くことはなかった。信じられない光景だった。数秒前まで自分を捕食しようとしていた獰猛な魔獣を、ただの木の枝で、一撃のもとに葬り去ってしまったのだ。腕に残る確かな手応えと、全身を駆け巡るアドレナリン。そして、言い知れぬ高揚感。
呆然と立ち尽くす陽介の前に、木々の間から数人の人影が現れた。それぞれが、磨き上げられた剣や、先端に魔石らしきものが嵌め込まれた杖を手にしている。先頭に立つのは、陽介と同年代か、あるいは少し年下に見える、精悍な顔つきの若い女性だった。腰には二本の細身の剣を佩き、その瞳には強い意志の光が宿っている。しかし、その顔には深い疲労の色と、拭いきれない悲しみが影を落としていた。彼女たちの服装は、機能性と洗練されたデザインが融合した、陽介の知識にはない独特の様式だった。
「……ご無事ですか?」
女性の声は低く、しかし凛とした響きを持っていた。聞き慣れない言語のはずなのに、その言葉の意味は、まるで母国語のように自然と理解できた。
「あ……はい。おかげさまで……」
陽介は、かろうじて言葉を紡いだ。命拾いした安堵感と、目の前で起こった非現実的な出来事への混乱が、彼の心を支配していた。
「こんな夜更けに、このような危険な場所で、一体何を? そのような軽装で……あなた、一体何者なのですか?」
女性の鋭い視線が、陽介の着古したジャージとTシャツを捉える。確かに、彼女たちの戦士然とした出で立ちとは、あまりにも不釣り合いだ。
陽介は、正直に自分の状況を説明した。名前は神谷陽介。日本という場所から来たこと。気が付いたらこの森にいたこと。そして、元の世界に帰りたいと思っていること。
「カミヤ……ヨウスケ……ニホン、とな。聞いたことのない国名ですね。異邦の方、でしょうか。しかし、その『元の世界』に戻るというのは……」
アリアと名乗った女性は、眉をひそめた。他の仲間たちも、訝しげな表情で顔を見合わせている。
「本当に、何も分からないのです。もしご迷惑でなければ、皆さんとご一緒させていただけないでしょうか? このまま一人では、またあの魔獣に襲われるかもしれません。どうか、お願いします」
陽介は、必死に頭を下げた。この異世界で生き延びるためには、彼らの助けが不可欠だと本能的に感じていた。
アリアは腕を組み、陽介を値踏みするように見つめた。先ほどの魔獣を一撃で屠った力。素人の動きではなかった。しかし、その身なりや言動は、およそ戦士とはかけ離れている。彼女の瞳に、困惑と警戒の色が浮かんだ。
「……あなたは、一体……。分かりました。私たちは、魔物討伐を専門とする冒険者です。あなたのような方を、このまま危険な場所に放置するわけにはいきません。しばらくの間、私たちと行動を共にすることを許可しましょう。私の名はアリア。こちらはバルド、リズ、そしてルーカスです」
アリアは、仲間たちを簡潔に紹介した。屈強な戦士バルド、俊敏そうな弓兵リズ、そしてまだあどけなさが残る魔法使い見習いのルーカス。それぞれが、陽介に向けて様々な感情の入り混じった視線を送っている。
「ただし、一つだけ約束していただきます。私たちの指示には必ず従うこと。そして、私たちの足手まといになるようなら、その時は……容赦なく置いていきます。それでも、よろしいですか?」
アリアの言葉は冷徹だったが、その瞳の奥には、わずかながら同情の色も見て取れた。
厳しい条件だった。しかし、今の陽介に選択肢はない。
「はい、承知いたしました。神谷陽介です。精一杯、お邪魔にならないように努めます」
深く頭を下げる陽介の脳裏には、先ほどの魔獣の赤い瞳と、仲間たちの疲弊しきった表情が焼き付いていた。この世界は、決して甘くない。それを、陽介は初日にして痛感していた。
森の中を歩き始めてしばらく経った頃、陽介は自分の五感が異常に鋭敏になっていることに改めて気づいた。遠くで微かに聞こえる獣の息遣い、木の葉が風に擦れる音、土の匂いの変化、そして、暗闇の中でも物の輪郭がぼんやりとだが認識できる視覚。これらは、元の世界では到底ありえなかった感覚だ。
(この力は、一体何なんだ……? そして、俺はなぜ、こんな場所に……?)
拭いきれない疑問と、かすかな期待を胸に、陽介はアリアたちの背中を追った。血と鉄錆の匂いが支配する、この見知らぬ世界で、彼の運命の歯車が、今、静かに回り始めた。