白いワンピース
あの夢を見たのは、これで9回目だった。
目覚めたとき、布団の中にはまだ夜の冷たい空気が沈殿していた。
半端にかじかんだ手を伸ばして、枕元のスマートフォンを探る。
時刻は午前5時半。
アラームより少し早い起床だった。
そのまま再び寝ようとする気にはなれなかった。
夢の余韻が鮮明すぎて、血の気が妙に騒いでいたのだ。
その夢は、いつも決まって夕暮れの町を歩くところから始まる。
僕は誰かを捜すように路地を曲がり、夕陽を反射するビルの壁を見上げる。
視線を戻すと、そこには白いワンピースを着た女性が立っている。
顔は薄い影に隠れてよく見えないが、不思議と懐かしさが胸を満たす。
彼女は僕に何か言いたげに唇を動かすのに、声は微塵も聞こえない。
そうして次の瞬間、景色が闇に溶ける。
いつもそこで夢は途切れる。
それがこの9回分、まるで繰り返し再生されるフィルムのように寸分違わずに続いている。
枕元に腰を下ろし、窓の外を見る。
初夏だというのに、しんとした朝の空気は冷たい。
カーテンの隙間から溢れだす早朝の日差しを見つめながら、あの白いワンピースの女性が誰なのかを考える。
最近は、繰り返し見るあの夢を憂鬱に感じるというより、解き明かしたい謎のように捉えていた。
ただ、僕の知人や親戚に、ああいう雰囲気の女性はいなかったはずだ。
けれど一方で、知らないはずの面影に既視感があるのも事実だった。
時間になり、いつも通り会社へと向かう。
自宅から最寄り駅までの道のりを歩いていると、幼なじみの涼香に偶然会った。
涼香は小柄な割に声がよく通り、いつも元気な表情で挨拶を交わす。
「おはよう」
その声が背後から聞こえたので振り返ると、彼女はまるで風を切るかのように走って追い付いてきた。
「おはよう。
今日も早いね」
そう返すと、涼香は小さく肩を上下させて息を整える。
「走ってないと遅刻しちゃうから」
そう言って笑う。
彼女の顔を見ていると、なぜかあの白いワンピースの女性の姿が頭をよぎった。
もちろん涼香は白いワンピースなどめったに着ないし、あの夢の女性とは全然雰囲気が違うのだが、それでも何か共通する匂いを感じてしまう。
電車に揺られながら、窓越しに流れる景色をぼんやりと眺める。
一瞬、自分の知らない町のようにも見えるし、懐かしい景色のようにも感じる。
あの夢の中で見た夕暮れの町は現実には存在しない気がするが、どこかで見たことがあるようでもある。
駅に着き改札を出ると、職場とは逆方向にふらりと歩いてしまいたくなる衝動に駆られた。
けれど現実はそう甘くない。
胸の奥にある小さな違和感を抱えたまま、ビルのオフィスへ足を向けた。
昼休み、同僚の田口さんに「最近よく眠れてないんじゃない?」と声をかけられた。
田口さんは何かと人をよく観察していて、気遣いも上手い。
「まぁ、変な夢を見てるだけです」
そう伝えれば、彼女は
「へぇ、どんな夢?」
と興味深そうに首をかしげる。
意外にも夢の話を真面目に聞いてくれそうだったので、僕は夕暮れの町や白いワンピースの女性について語った。
ただ、自分でも何をどう伝えればいいのか曖昧だったから、断片的な説明になってしまう。
それでも田口さんは
「それって誰か重要な人との思い出じゃない?」
と言う。
「確かに、そんな気もしないでもないんです。 でも、その人が誰なのか全然思い当たらなくて」
そうやって首を振ると、田口さんは
「夢は潜在意識が見せるものって言うでしょ。 だから、意外と自分でも忘れてる何かがあるのかもよ」
と返してきた。
やわらかい微笑みに後押しされ、僕は心のどこかで納得しかけた。
夜、帰宅してからぼんやりとネットを眺め、夕飯を済ませる。
特にあてもなくSNSを見ていると、ふと涼香の投稿がタイムラインに上がってきた。
見れば彼女は新しい洋服を買ったらしい。
写真は、自撮りではなくハンガーにかけられたワンピースのショットだった。
淡いパステルブルーで膝下まである、穏やかな印象の服。
白いワンピースではないけれど、すらりとしたシルエットは、あの夢の中の女性が着ていたものと少し似ている気がした。
けれど、なぜ涼香のことがそこで結びつくのか自分でもよくわからない。
流れるようなタイムラインを眺めながら、答えのないままベッドに潜り込んだ。
翌朝、またもや同じ夢を見て目覚めた。
これで10回目になる。
だが、少しだけ違っていた。
いつものように夕暮れの町をさまよい、ビルの壁が光を反射するのを眺める。
そこに白いワンピースの女性が現れる。
彼女は相変わらず声が出せないようだったが、そのとき、確かに唇が言葉を形作っていた。
まるで「ごめんね」とでも言いたそうな、そんな口の動きだった。
そして周囲が急に暗転した瞬間、遠くで誰かが僕の名前を呼んでいた気がするのだ。
夢の中と現実がどうにかなりそうなくらい混濁し、思わず目が覚めた。
汗がにじんだ掌を握りしめながら、脈が早鐘を打つのを感じていた。
出社しても頭の中は夢の残像でいっぱいだった。
作業机に向かってパソコンを叩きながらも、頭の片隅に夕暮れの町がちらつく。
昼休み、意を決して涼香にメッセージを送った。
「明日の休み、ちょっと時間ある? 話したいことがあるんだ」
彼女とは昔から何でも話せる仲だったが、最近はお互い忙しく、ゆっくり会う機会がなかった。
しばらくして届いた既読の印と「いいよ」という短い返信に、胸が少しだけ軽くなる。
きっと涼香が何かヒントをくれるかもしれない。
そう考えると、会社の時計の針がいつもより遅く動いているような気がした。
そして週末、待ち合わせはいつものカフェだった。
店内に入りガラス越しに探すと、すでに涼香は席についていて、スマートフォンを弄っているところだった。
軽く手を振ると、彼女も見つけて笑顔を返す。
僕はコーヒーを注文し、彼女の向かいに腰を下ろした。
「実は、最近ずっと同じ夢を見てるんだ」
そう切り出すと、涼香は「田口さんから聞いたよ」と言う。
どうやら田口さんが口を滑らせたらしい。
「ごめん、あの人おしゃべりなところがあるから」
そう言って涼香は苦笑する。
「いや、謝らなくていいよ。 誰かに相談したかったのは確かだし」
僕が言うと、彼女はまっすぐ目を見てきた。
「じゃあ、今日その話ちゃんと聞かせて」
その言葉に、僕はあの夢の光景を順を追って話した。
静かな店内に流れる音楽の中で、僕はまるで心の奥に封じ込めていた古いビデオテープを一本ずつ再生するように言葉を紡ぐ。
繰り返される夕暮れの町、白いワンピースの女性、聞こえない声。
そして最後に微かに「ごめんね」と言っているように見えたこと。
涼香は黙って聞きながら、時折小さく頷いていた。
一通り話し終えると、彼女はカップを両手で包み込みながら切り出す。
「…ひとつ、心当たりがあるかも。 あなた、小さい頃に病院に入院してた時期があったでしょ?」
確かに覚えている。
小学四年生のとき、肺炎の治りが悪くて数週間ほど病室で過ごした。
「そのとき、となりの病室に女の子がいたって話を聞いたことがあるんだ。 ほら、私もお見舞いに行ったりしてたから」
思い返そうとしても、病院にいた男の子や老人の姿は思い出せるのに、女の子はどうにも輪郭が曖昧だ。
「なんかね、その子は白が好きだったらしいよ。 白いパジャマに白いカーディガン、いつも白いものばかり持っていたみたい」
涼香の言葉を聞くうちに、胸の奥がざわめいてくる。
まるで塞がれていた蓋が少しずつ開いていく感覚。
「その子、退院できずに亡くなっちゃったって、あとで噂になってた」
涼香は言いにくそうに言葉を選んでいるようだった。
僕はじっとテーブルの木目を見つめながら、息を飲んだ。
そういえば病室の窓から、よく夕日を眺めていた記憶がある。
廊下を歩く看護師や面会に来る大人たちの隙間から、ほんの少しだけ見えるオレンジ色の光に救われた気がしていた。
もしかすると、あの夢はその子との記憶が呼び起こされているのだろうか。
家に帰っても、頭の中は白いパジャマの女の子の断片ばかりだった。
もしかしたら名前すら知らないあの子が、夢の中で僕に何かを伝えようとしているのかもしれない。
謝罪めいた口の動きが「ごめんね」なのだとしたら、どんな意味があるのか。
亡くなってしまった子が、僕に謝るべきことなんてないはずだ。
けれど同時に、僕があの子に伝えたかった何かもあったのではないか。
答えはわからないが、胸の奥にある懐かしい痛みのようなものが、少しずつ形を伴っている気がしていた。
その晩は珍しく夢を見なかった。
代わりに深い眠りの中で、まるで柔らかな布にくるまっているような安心感を覚える。
そして翌朝、いつものように目覚めたあと、涼香から
「少し気になる人がいるんだけど、話を聞いてほしい」
と連絡があった。
僕は思わず吹き出してしまう。
人の夢に首を突っ込んでおきながら、自分の恋の話を急に持ち出すあたり、いかにも涼香らしい。
「いいよ、いつでも聞くよ」
そう返したあとで、ぼんやりとスマホの画面を眺めた。
夢の女性は、あの女の子の投影だったのかもしれない。
自分が見失っていた記憶に、ようやく手が届きそうだ。
今ならその視線の先に、少しだけ光が差し込んでいる気がする。
あの子がもし本当に僕に伝えたいことがあるのなら、それを受け止める準備はできている。
人生には、きっと言葉にできないけれど、ずっと胸の中で息づき続ける想いがあるのだろう。
それは恋ともまた違う、でも確かに誰かと通じ合った感覚。
僕はそれを大切にしたいと思う。
そっとカーテンを開けると、朝の陽射しが部屋いっぱいに広がった。
冷たく張り詰めた空気が和らぎ、季節が少しずつ動き出すのを感じる。
いつかまた、あの夢を見ることがあるかもしれない。
けれど、その夢を怖がる必要はもうないだろう。
あの子の「ごめんね」がもしも本物なら、僕はこう答えたい。
「ありがとう」と。
そう呟いたとき、心に微かな温かさが灯るのを感じた。
まるで何かが報われるように、僕は静かにまぶたを閉じた。