9,子ども返り
あの時のひよの顔が、頭から離れない。
彼女は優しいから、おれの言葉に傷ついていて、でも責めることもしなかった。
「……わたし、ちょっと頭冷やして帰るね」
そう言って走っていった彼女を、おれは追いかけなかった。おれは自分の部屋に戻り、コートを脱いですぐ、ベッドの上に寝転がった。
頭を冷やさなければいけなかったのはおれだ。
明日は非番で、彼女が喜びそうなお菓子の売っているお店に、連れて行ってあげたかったのに。
この国は、水晶の結晶が特産品だから、鉱山にも連れて行ってあげたかった。いい所をたくさん知ってもらってから、あの話をすればよかったのに。
……いや。それでも彼女の気持ちは、変わらなかっただろう。
このまま嫌われて、あと2週間経ってしまえば、何事もなく彼女は元の世界に帰れる。
それで良かったじゃないか。
しばらくすると、部屋をドンドンと叩く音が聞こえた。
「あのう、ハーシー様」
メリッサの声だ。おれが扉を開けると、彼女は焦ったような顔をしていた。
「まだ、ひよさんはお戻りではないのでしょうか?」
「帰ってきてないのか?」
「そのようですが……一緒にお帰りになられたのでは?」
もうとっくに日没だ。この暗闇の中、まだ帰ってきてない……?
おれは、さっき脱いだコートをまた羽織って部屋を飛び出した。
「……探しに行く」
「かしこまりました、みんなで手分けして探しましょう」
「いや、メリッサはここにいてくれ。おれは夜目がきくから」
そう言って、心配そうなメリッサをあとに残し、家の玄関を出た。すると柵の前に、誰かが立っているのが見えた。
「……デイヴィス!」
彼は、手練れの護衛士だ。おれやクラウスが見習いだった頃、指南役でもあった。
いまは旅の護衛を頼まれ、数ヶ月ぶりにその任務から帰ってきたのだ。
彼の腕には、ひとりの小さな子供がいた。その子は布にくるまれ、デイヴィスの腕で眠っていた。
「その子は?」
「森の中で、倒れていた。護衛士館の子じゃないのか?」
その子の顔を覗き込むと、どことなく見覚えのある顔だった。でもまさか……そんなはずはない。
「ひよ……?」
着ている服は、さっきまでひよが着ていた服だ。髪の色も、肌の色も同じ。だがまるで、5歳ぐらいの女の子になっている。
彼女がふと気がついて、目を開けた。茶色い褐色の、飴玉のような瞳も同じだ。
「ひよ、何があった?
どうして子どもの姿に……」
その瞬間、彼女はデイヴィスの首に飛びついた。まるで、誰か知らない人に話しかけられているかのように。
「父しゃ……ここどぉこ?」
「ジギス家だ。俺は、お前の父さんじゃないんだが……」
「父しゃ……このひと、だあれ?」
いぶかしげな顔でおれを見てくる彼女は、相変わらず、彼をぎゅっと抱きしめている。
その姿にムッときて、「その人はきみのお父さんじゃない」と、無理やり彼女をこちらに来させようとすると、彼女は「いやー!」と怖がり、泣き出してしまった。
心まで、子供にもどっているのか……。デイヴィスの胸でわんわんと泣く姿に戸惑い、おれは、どうしたらいいか分からなかった。
その声を聞きつけて、中からメリッサや他の使用人たちが出てきた。
「ハーシー様、これは一体……」
その時だった。
かすかな揺れとともに、屋敷の窓がガタガタと音を鳴らした。
「地鳴り……?」
すぐ止むだろうと思っていた揺れは、やがてドンと下から突き上げるような衝撃となり、立つのもままならないほどになった。
使用人たちはうろたえ、身を寄り添わせて頭を抱え、震えている。
「みんな、建物から離れろ!」
中から出てきたジギス伯爵が、いつもの腑抜けとは違うハッキリとした声で叫んだ。
その声を聞き、使用人たちはサッと命令通りに動いた。
おれたちも建物から離れた。ひよは相変わらず、わんわんと鳴いている。
そういえば、ひよは聖女として、この国に召喚されてきた。彼女は、ただこの国の、幸福の象徴になるだけだと思っていたが……。
「……もしかして、この揺れは……」
自信はないが、否めない。どうにかして、ひよを泣き止ませなければ……!
何を見せたら泣き止む?
ひよが好きなもの?分からない……。
彼女は、子どもと遊ぶのが好きということしか……。
その時ひよが、子どもたちと遊んでいる姿が目に浮かんだ。全力で遊び、笑って、笑顔がきらきらと輝いていた……。
これしかない。おれがやるしか、今はこの揺れを止められる人間はいないんだ。
「……あ、あーー!たいへんだ。舞踏会がたのしすぎて、馬車にのりおくれてしまった!」
泣いている彼女に聞こえるように、大きくはっきりと言うと、すかさずデイヴィスが「お前、こんなときに何言ってる!?」と喝を入れてきた。
「ど、どこかに、馬車に乗せてくれるいい人はいないかなあー!!」
「だめ!!おひめさまごっこがいい!!」
泣いていたはずのひよが、急にこちらに反応してきた。よし、注意を向かせられたようだ。
「この悪党!!
はやく、わたしの姫をかえせ!!!!」
セリフは真剣だが、顔では「お願いだ!!話を合わせてくれ!!」と必死に頼んだ。デイヴィスはぽかんとして、おれたちのやりとりを見ていた。
「わぁああこわいよーー!!ドラゴンに食べられるーー!!」
「おのれドラゴン、この勇者の剣で、やつざきにしてくれる!!えい!!やあ!!!!」
死ぬほど恥ずかしい。普段は飲まないが、今すぐ酒をかきこんで、酔っ払って寝たい気分だ。
おれは長年の師を、透明の勇者の剣でやつざきにして、その腕からひよを取り戻した。
小さい体を地面に立たせると、おれはなるべく、目線が下になるように腰をかがめた。
「お待たせしました、我が姫。お怪我はございませんか?」
すると、ひよは満足そうに、目を見開いて言った。
「お兄ちゃ……おめめがきらきらねぇ」
気がつくと、揺れはおさまっていたようだ。
デイヴィスは「付き合いきれん」と吐き捨てて、護衛士館へ戻って行った。