18,花畑
目が覚めると、まだ日は登っていなかった。
屋敷もしんと静まり返っている。
最近アビーと一緒に寝ていたから、横に誰もいないのが寂しい。だけど、昨日はぐっすり眠れた。
あの後帰って、使用人さんたちに話すと、みんな急なことなのに、喜んでくれていた。
パーティは、夜に開催されることになった。
昨日ハーシーの隣で「楽しみすぎて、寝られないかも……」とつぶやいたら、彼が「寝られるまで添い寝しようか?」なんて言ってきた。
わたしは「子供扱いしないでください!」と怒ったけど、あれは冗談だったのかな……。
あんまり冗談を言う人じゃないから、本気で言ってくれてたのかもしれないけど、添い寝なんかされたら目がギンギンして、逆に眠れないよ。
それくらい、ハーシーはかっこいい。護衛士館の団長さんだし、貴族だしイケメンなのに、全然威張っていなくて、その優しい人柄も親しみやすい。
そんな彼はまさに、白馬に乗った王子様だから。
黒髪モブ顔のわたしと、釣り合うわけない。
護衛士は、人の盾となって働く大変な仕事だ。だけどいつか、彼はお似合いのお姫様を見つけて、幸せに生きていく。
出会った頃からそう思っていた。
でも、どうしてだろう……出会ってこの1ヶ月。ハーシーの隣にいることが、今まで生きてきて1番、居心地がいい。
大事にされているという実感がある。
わたしは本当に、元の世界で何もなかったかのように、生きていけるのかな……?
『君がいなくなったら、おれの笑顔は消えてしまいそうだ』
ハーシーが、あんなこと言うから。
「ずっとこの世界にいてくれないか?」と言われた時は微塵にも思わなかったのに、いまは後ろ髪を引かれる。
きっと……ハーシーの中に残るのは、「大事にした恩も返さず、元の世界に帰ったわたし」。
仕事とか、元の生活とか、色々説明してもピンときていない様子だった。ただ「帰ってしまう」という事実に悲しんで、「帰る方法を教えない」なんて意地悪を言ってしまったんだと思う。
あの時は正直、面倒くさい人だなと思った。
わたしは勝手にこの異世界に連れてこられて、家族も友達も、自分の心休まる家もないのに。
自分が同じ立場になってみないと、人は他人の気持ちを理解することは難しいと思う。それはわたしだって同じだ。
だから何も言わなかったけれど……自分の世界に帰れないと、絶望を与えた彼に、わたしは静かに怒っていたような気がする。
その気持ちが、自分ではどうしても消化できなくて……何も考えたくなくて。
今まで子供に戻っていたのは、彼への当てつけのようなものだったのかもしれない。
今は『元の世界に帰りたい』という気持ちを尊重してくれていても、心のどこかで、甘やかせばわたしが「帰りたくない」と言ってくれると思っているのだろうか。
記憶が無くなっていたとは言え、お姫様扱いされて、舞い上がっていた昨日の自分が恥ずかしい。
ハーシーに「一緒に舞踏会に行きたい」と言ってしまった自分も。そんな優柔不断なことをして、期待させれば余計傷つけてしまうだけなのに。
今までの記憶が、全て戻ったみたい。
頭が冷えたように、思考が冴えている。
本当は、パーティも開いてもらうべきじゃない。ジギス伯爵に2人で報告に行った時のことだ。
「君たち、結婚するの?」と言われて、わたしはとっさに「そんなわけないです!」と否定した。
その時の、ジギス伯爵の困った顔から察することができた。何も言わなかったハーシーの顔を、わたしは見ることができなかった。
彼の気持ちに気づいていながら、その気持ちを振り回すなんて……こんなモブ女がしていいことじゃない。
早く気づいてもらわないといけない……わたしは、彼の隣に立っていい人間じゃないって。
わたしは、体を起こしてベッドから抜け出した。
靴を履いても、ひんやりした床の感触が、足に伝わってくる。
壁にかかっている鏡を見て、確信した。
もとの自分に戻っている。社会人で、社畜で、天涯孤独で、上手に生きられないわたしに。
元の世界に戻っても、辛いだけなのは変わりない。
それでも……こんな優しい世界に、ずっといられない。
「……逃げよう」
わたしは寝間着のワンピースまま、部屋から出た。
廊下には誰もいない。なるべく足音を立てないように裸足になって、靴だけ持って駆け出した。
このまま誰にも気づかれずに、外に出られたら。
1週間、山に引きこもっていよう。何もかも放り出して。
ハーシーが買ってくれた服も、食べ物も。与えてくれた居場所も。せっかく用意してくれた、お姫様になれるチャンスも。
これ以上引き止められる前に……全部投げ出して、わたしはそういう人間なんだって、失望してもらう。
そうして1週間経ったら、何食わぬ顔で帰ってきて、元の世界に戻してもらう。そうしたら、喜んで帰してくれるはずだから。
わたしは玄関の扉を開いて、外に飛び出そうとした。
だけど、飛び出そうとしたところで、足が前に進まない……。
「なにこれ……」
目の前に広がる、花畑。
昨日はなかったはずの、お屋敷を取り囲む花々。
日が登ってくるにつれて、徐々に頭をもちあげて花開く。その花は、全部わたしが好きな花……この異世界に咲いているはずのない、日本の花もたくさんある。
わたしは、足を進めた。花畑の中を歩いていくと、不思議なことに、地面は元のお屋敷の庭だ。
立派な石畳があったのに……その隙間を埋めるように、びっしりと花が咲いている。
しかも、なにこれ。わたしが進むと、どんどん花が広がって咲くんですけど……。
「ひよ!」
後ろから声をかけられて、わたしは立ち止まった。
振り返ってはいけないのに……振り返ってみると、やっぱりあなたがいる。
彼は使用人たちと一緒に、屋敷の中からわたしを見つめながら、その場から動かずにいた。