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オペレーション・ゴッドチャイルド

作者: 青井真吾

5月6日 AM1:00 査問 その1


 その日、深夜の月は紅く燃えていた。血を溶かしたような鮮紅色が渦巻く血まみれの月(ブラディ・ムーン)、だ。その夜の出来事を見聞きした後からは、その月があたかも地上の地獄を写していたかのように思えるかもしれない。


 特別事態対策局 Special Stuation Countermeasure Department。つい先ほどまでバタバタと人の出入りが激しかったそのビルの玄関口も、今ではそれなりの落ち着きを取り戻していた。いつものように静かに開く自動ドアから出てくる人影が二つ、ほのかな明かりに照らされて見える。痩身小柄で中央部が禿げ上がった白髪で細面の初老の老人と、190㎝はあろうかという長躯でがっしりとした体つきの40代後半の男。一人は特別事態対策局局長のジョナサン・タイラーであり、もう一人は研究部統括主任のナイト・キーランであった。


 玄関口の小階段を下りた二人は右手に折れ、そのまま歩みを進めていた。目指すは、そのすぐ先にある特別研究棟のようであった。

「局長、この緊急時に開かれる査問会議とは一体……?」

そう話しかけるキーランに対して、タイラーは言い聞かせるかのように言葉を紡いだ。

「いいかね、キーラン。私も年だし、そろそろ引退を考えている。で、次の局長には君を推薦するつもりでいるが、その通りにうまくいくかどうかは、その査問会議での君の態度如何だということをよく覚えておいてくれたまえ。なお、言うまでもないことではあるが、あえて付け加えておく。これから君が見聞きするすべての事は、君が局長になるまでは、いや局長になってからも、誰にも漏らすことは許されない事柄だから、しっかりと肝に銘じておいてもらいたい。」


 特別研究棟1階最奥のエレベーター前。

「さて、キーラン。特別事態対策局で開かれる査問会議とは、いま我々が行っているような大災害に対する対策措置、表の対策措置とは違って、いわば裏の対策措置、国家機密に属するものだと思っておいてもらおう。これからその会議場に向かうが、私の一挙手一投足をしっかりと記憶しておいてくれたまえ。」

そう言うと、タイラーはエレベーターの上昇・下降のスイッチを同時に押した。当然ながら、扉には何らの作動の様子も見られなかったが、ほぼ30秒後に静かに扉が開いた。

「いまのが第一のキー、われわれの人物認証が行われたのだよ。次が第二のキー……。」

そういいながらタイラーは、階数表示板の「0」を参連射した。と同時に、エレベーターは静かに下降を始めた。

「通常、特別研究棟のエレベーターは地上階しか行き来しないことになっている。地階が存在しないことになっているのだから、当たり前なのだがね。」

「初耳です。研究棟関連は私の所管なのですが、そんな話は全く聞かされていませんでした。」

「あたり前だよ。これは局長にしか知らされない機密事項なのだからね。」


 そんな会話が交わされた程度の時間で、エレベーターは下降を停止した。扉は、やはり静かに開いた。外に出ると、左手直ぐは金属製のドア、表面に何らの取っ手もコード・キーも見当たらないところを見ると、内側ないしは遠隔で開けるドアのようだ。右手は、赤いじゅうたんが敷き詰められた廊下が、何と百メートル近くも続いていた。


「奥の会議室へ向かう。」

右手へと進むタイラーに続きながら、キーランは廊下に、およそ10メートルごとに付けられた金属製の装置に目をやっていた。陸軍特殊部隊出身のキーランには自明だったが、レーザー照射装置のようであった。「いったい、ここは何だ……」、そう訝しがりながら、キーランはタイラーに続いて、廊下の突き当りにある扉をくぐった。


 二人が室内に入った直後に、扉がバタンと乱暴に開けられ、

「なんでこんな緊急時に会議なんかやる必要があるんだ。」

「まったく、対策にくそ忙しいのに、何を考えているんだ。」

そう雑言を吐きながらあたふたと会議室へ入ってきた初老の2人は、部屋の奥に坐っている人物を見かけるやいなや、チラと目を見合せ、急いで口を閉じた。一瞬の沈黙。再びあたふたと2人が腰掛け、ゆっくりと扉が閉まると同時に、それまではかすかにせよ漏れ聞こえてきた外の気配が、ぴたりと消えた。室内は、さらに深い沈黙に包まれた。


 見たところ会議室のようである。外部の物音がまったく聞こえないのは、おそらく厳重な防音設計のせいであろう。部屋の中央には大きな細長のテーブルがある。20人ほどが収まる大きさである。が、室内に今いるのは10人だけである。細長いテーブルの端に一人。彼だけが一人、特に背の高い椅子に腰掛けている。その左右に3人づつが、彼を取り囲むように坐るかたちとなっている。タイラーとキーランは入り口付近に佇んだままであったが、促されて末席に着いた。彼ら2人を除けば、いずれも表情は硬い。むしろ沈鬱な、と言ったほうが当っているかもしれない。暗く、重い、沈鬱な雰囲気が彼らを押し包んでいる。


 残った一人は、テーブルのもう一方の端にいた。配置からも明らかに、彼に対する残りの9人といった構図だ。その男は、剃り上げられた頭部のせいか、往年の名優テリー・サバラスに風貌が似ていなくもない。彼だけは、残りの9人とはまったく違った雰囲気を醸し出している。下手に動けば、直ちに飛びかからんとする猛禽類といったところか。査問対象という立場上、その心の奥底に不安と恐怖を隠し持っているとしても、「現役」であったことすらない残りの9人に、露ほどもそれを悟られない自信が彼にはあった。


 反対側の男、特に背の高い椅子に腰掛けた男が何かを言いかける前に、そのすぐ右手に座っていた白髪の男が、書類をめくりながら言葉を発した。

「オペレーション・ゴッドチャイルドに関する『事故』について、その責任者ダン・ケリーに対する査問を始める。」

「ダン・ケリー、まず『オペレーション・ゴッドチャイルド』について説明してくれたまえ。」


「『オペレーション』は、わが国の指導のもと、同盟国の次世代のリーダー育成を基本的な目的としていた。メンバーは12名。わが国および同盟国の中から、身元が確かで、特にIQが高い頭脳明晰な子弟を選りすぐった。」


「氏名についてはリストにある通りだ。若干のメモも付してある。」

【Aグループ】

クルト・バウマン(ドイツ)16歳

クラーク・アダムス(イギリス)17歳

御子神仁(日本)15歳

カルロス・アギーレ(スペイン)16歳 ※ナイフ使い

ムラト・オナシス(ギリシャ)17歳 ※催眠術

【Bグループ】

ジェームズ・グラント(アメリカ)18歳 ※長身 巨漢 リーダー

コリン・ブラントン(カナダ)16歳

エディ・パリエ(フランス)17歳

グレン・クロウ(オーストラリア)16歳

【Cグループ】

トーマス・ネルソン(アメリカ) ※痩身 小柄 そばかす顔 コンピュータ技能

ヨシュア・クナズ(イスラエル)16歳 ※痩身 小柄 マーシャル・アーツ


「この一年間、彼らにはありとあらゆる教育とテクニックをたたき込んできた。理論面だけではない、体技もオリンピック級だろう。むろん、そのために薬も使ったが……。」

「今日の任務が最終テストだった……。シュミレーションは完璧だった。まず監視ルームの制圧。それによる仲間たちのモニターと誘導。秘密扉のあり場所と、隠し錠の秘密コードの情報。警備員の配置状況。目的の物が安置されている実験室への侵入経路。当方で入手しうる限りのありとあらゆる情報に基づいて、彼らは訓練されていた。」


5月5日 PM2:00 オペレーション その1


 一台のマクロバスがゲートをくぐって行く。バスの中に人影は見えるが、その姿ははっきりとしたものではない。

ゲートの先に続く道は、さほど行かない所で右に大きくカーブしており、カーブを少し行った所に建物が見える。蹄鉄の先を少し広げたような半楕円形状の建物だ。エントランス近くに「リンカーン記念病院」と記されたモニュメントが置かれている。


 病院のエントランス。扉付近に二人の人物が佇んでいる。白衣を着ているところを見ると、おそらくは病院の医師たちなのだろう。

入口に着いたマイクロバスからは、降りてくる少年たちの姿が見える。彼らの服装は、制服なのかもしれないが、少年たちのグループにしてはいささか奇異に思えなくもなかった。黒のスポーツシャツに黒のズボン、ゴム底のスニーカーも黒であった。その上に着ている真っ白なブレザーが、かろうじて少年らしい清潔感を感じさせるといえば感じさせるものであった。ブレザーの胸ポケットには何かの紋章が金糸で縫いとられていたが、確とは分からぬものであった。


「ようこそ、リンカーン記念病院へ。」

歓迎の笑みを浮かべて握手を求めてきた医師に、先頭の少年が握手を返した。

「はじめまして。国連特別留学生のムラト・オナシスです。よろしく。」

そう言って医師の手をがっちり握り、微笑みながら医師の目を見据えたムラトの瞳がキラリと光った。

 

 一人目の医師の時もそうだったが、続く二人目の医師の頭もかすかに揺れたかのようだった。彼は歓迎の言葉を述べ始めたが、途中で少し言葉が揺れた。

「ようこそ。12名の皆さんがたを……、あ〜、あっと、10名の皆さんがたを歓迎します。」


 扉付近でのやりとりを経て、二人の医師に率いられた少年たちは、順にエントランスを入って行った。その前方の壁、高さ2メートルの所に、警戒用の監視カメラが据えられている。

「おっと!」

9番目に入ってきた少年が、何かに躓いたかのように前方にたたらを踏んだ。奇妙なことに、その両手は後でがっちりと組まれていた。

監視カメラがその姿を追ってゆっくりと動いた。その動きの間隙を狙うかのように、後に続く二人の少年たちが組まれた手のひらをばねにして跳び、監視カメラの死角、その上方の大きな窓枠の桟に向かってフッと消えた。監視カメラが再びエントランスを向いた時には、残った最後の少年がゆっくりと入ってくる姿を映し出すのみであった。


 ほんの1分も経ったであろうか。先ほど窓枠の桟へと跳んだ二人の痩身・小柄な少年たちは、壁面にうがたれている横柱の細い出っ張りに足をかけ身を潜めている。トーマス・ネルソンとヨシュア・クナズという名の、いずれも16歳のアメリカとイスラエルの少年である。監視カメラがその位置には及ばないことは、調査済みであった。

残りの少年たちが、一人ずつの医師に率いられ、2つのグループに分かれてそれぞれ右側と左側の廊下を進んで行くのを見届けて、トーマスとヨシュアはすぐ横の排気口の金枠を外し、中へと消えた。


 排気菅を少し進み、左に折れて直ぐが、監視ルームの排気口であった。まずヨシュアが監視ルームに飛び込んだ。続くトーマスが見たのは、拳銃を構えた二人の監視スタッフを回し蹴りでなぎ倒しているヨシュアの姿だった。12人の内で最もマーシャル・アーツが得意なのが、ヨシュアだった。

二人はそれぞれ監視スタッフを結束バンドで縛り、粘着テープで猿轡をかませ、部屋の隅に転がした。続いて、ヨシュアは扉に鍵をかけ、扉の四方を特殊樹脂製のスプレーで固定した。その間に、トーマスがパソコンで監視カメラを操作して、仲間たちの行動のモニターにかかっていた。


 ここまでは、シュミレーション通りに進行していた。


5月6日 AM1:30 査問 その2


 査問は、まだ始まって30分しか経っていなかった。


「ダン、では次に、例の御子神仁(みこがみじん)について報告してもらおう。」


「特に、何ということはない少年だった。むしろ、東洋的というのか……、特徴のないというのが特徴の少年だった。」

「ただ、今にして思えば、不思議な少年だった。彼らを担当した科学者たちも、少しいぶかしくは思っていたようだった。というのも、御子神仁に限っては、訓練に入る前と訓練後のデータ計測値が全く変わっていなかった。にもかかわらず、彼は何の支障もなく訓練について来た。他の者では180%の計測値を出した者もいた。グループ全体が、間違いなくレベルアップしていた。理論的にはありえないことだと、専門家たちは言っていた。彼らはその少年に特別の関心を抱いたようだったが、私はほおっておくように指示した。グループとしてのレベルアップが問題なのであって、科学者たちの個人的関心に割くほどの時間的余裕は無かったからだ。」


「ふむ。では、今のところ御子神仁(みこがみじん)について分かっていることは?」


「父親は御子神恭介(みこがみきょうすけ)。一代で御子神電子工業を築き上げた人物だが、今年の始めに『交通事故』で死亡した。母親の名は火魅子(ひみこ)。彼女は仁の出産後に失踪。現在も行方不明。生死も不明。現存する係累は叔父の皇俊成(すめらぎしゅんぜい)のみ。彼が、現在、御子神電子工業を運営している……。」


 淡々と報告を続けるダン・ケリーだったが、この時、彼の脳裏に浮かんでいたのは、今年の始めにわざわざ日本にまで出かけて行った際の、あるやりとりだった。


「馬鹿な! そんなことのために仁を留学させたつもりはない!」

「お前たちには分からないだろうが、仁には(すめらぎ)一族の血が流れているのだ。直ぐに帰してもらおう!」


 この俺に対して、テーブルを拳で叩いて抗議している中年の紳士、彼こそが仁の父親の恭介だった。40代前半ほどであろうか、にもかかわらず、髪には所々白い物が混じっていた。苦労したのであろう。が、間違いなく理知的な顔立であった。にもかかわらず、不可解なことを喚くこの男に、俺は率直に尋ねた。

「スメラギ、(すめらぎ)一族とは、一体なんなんだ?」

「君らに言っても理解できないだろう。知りたければ、自分たちで調べるがいい。」

確かに、我々の調査でも詳しいことは一切分からなかった。日本に(いにしえ)から伝わる一族で、「神道(しんとう)」にかかわる者を統べるのが(すめらぎ)一族だ、ということ。ただし、代々女性が当主を務めるため、火魅子(ひみこ)の失踪以後、一族は離散したと言われているということ。分かったのはそんなこと位だった。

――だから、なんなんだ。日本人特有の血脈に対する無意味な信仰心にすぎない、程度のものだろう。ほざいていろ、と思っていた。今の、今までは……。


 その時は、俺なりに決断して、冷たく言い放っていた。

「ほう、我々の提案を断るとは……。まあいいでしょう。ご子息の仁君は、近日中に帰国させましょう」。


 おそらく、その時の俺は酷薄な目つきをしていただろう。皮肉な笑みを浮かべていたかもしれない。決断が、間違いなく実行されるのは分かっていたからだった。そして、我々の会談の後、その帰途に、御子神恭介の運転するシーマは泥酔運転のダンプカーによって追突され、恭介は死亡した。動き始めた「オペレーション」を邪魔することは何人にも許されない、というのが俺の判断だった。


 淡々と訊問に答えていくダン・ケリーではあったが、今や頭の中はその時のやりとりが渦巻いていた。今回の「事故」を知った時から、意識するとしないとにかかわらず、この時の会話がいやな感じで思い出されてはいたのだった。


5月5日 PM2:10 オペレーション その2


 モニターには、病院の廊下を一人の医師に率いられて進んでいく5人の少年たちが映し出されていた。ムラト、カルロス、クルト、グレン、御子神の順だ。彼らは、医師に率いられるかたちで、しかし、本来の病人見舞いということもせずに、先へ先へと進んで行く。医師は医師で、先ほどムラトがかけた催眠術のせいなのだろう、右手の窓越しに見えるベッドや病人たちを一瞥すらしないで、先へ先へと進んで行く。


 ジェームズ、コリン、エディ、グレン、オザルのグループも同様だ。先へ先へと進んで行く。


5月5日 PM2:20 オペレーション その3


「異常なし」

「ただし、壁の向こうの廊下側だけは、モニターできないから注意しろ。」

監視ルームのトーマスから、送受信一体型の無線イヤホンをちょうど装着し終えたジェームズに、声が響いた。


「隠し錠の場所は、……ここか」

ジェームズが、ちょっと見ただけではわからない壁面のくぼみに人差し指を当てる。と、壁面の一部がパカッと開き、プッシュ式のナンバー錠が出現した。


「秘密コードは分かっている。」

ジェームズがあらかじめ知らされていていた秘密のコード番号を打ち込んだ。

「よし、二人を始末しろ。」

ジェームズの言葉と同時に、クルトとコリンが二人の医師の首筋に携帯用の簡易注射器を打ち込んだ。崩れ落ちる二人。強力な睡眠注射だ。


 ブレザーを脱ぎ捨てる少年たち。今や、すっかり全身黒づくめだ。


「扉が開くぞ。注意しろ。」

小さな声だが、しかしはっきりとした口調でジェームズがそういうのと同時に、壁面の一部がスーと上昇して開き始めた。


 扉が開くにつれ、マシンガンを携えた兵士の姿が扉のすぐ後ろに見えてきた。「くそっ!」と叫んで、扉の向こうに飛び込むムラト。慌ててマシンガンを構えようとする兵士。そのマシンガンの銃身を右手で押さえて、つっと兵士の目を見据えるムラト。崩れ落ちる兵士。ムラト得意の催眠術だ。

だが、ムラトが「ハッ!」と気づいて振り返った時には、もう遅かった。5メートルほど奥まった大型エレベーターの前に立っていたもう一人の兵士が、すでにマシンガンを構え、今にも引き金を引かんばかりの様子だった。


 無駄だと知りながら身を伏せるムラト。しかし、不思議なことに銃弾は飛んでこなかった。


 事態に気づいた少年たちがムラトと兵士の動きを一瞬凝視したまさにその時、最後尾にいた御子神仁が小さく「あっ!」と叫び、思わず右腕を兵士の方に突き出していたのに気づいた者は誰もいなかった。それは、御子神仁自身にも思いがけない動きだったようである。その顔は訝しげであった。

仁のその動作とともに、引き金に指を添えて銃身をムラトに向けていた兵士は、全く身動きできない様子となった。あたかも水に溺れている者のように、ただ口をパクパクとあえぎ、声にならない声を上げているかのようであった。代わりに、「ひゅっ」と音を立てて飛んだナイフが、兵士の喉元に突き刺さった、かのように見えた。カルロスの投げたナイフだ。


 少年たちは知る由もなかったが、当の兵士は、まさに引き金を引こうとした瞬間、まるで自分の周りの空気がゼリー状のものに変質し、彼を押し包むかのような感覚を覚え、全く身動きが取れない状態に陥っていたのだった。その時、少年たちがよく見ていれば、そのゼリー状の空間で、カルロスの投げたナイフが兵士の喉元の直前で空中に留まっていることに、気づいたであろう。


 が、そのような余裕はなかったのだろう。少年たちは、ムラトのところにどっと駆け寄っていた。

ジェームズが声をかけた。「助かったな。」 続けて、「よし進むぞ……」と言いかけたジェームズが、「どうした仁!」と叫んだ。


 見ると、御子神仁だけがまだ扉の外側に残っており、立膝状態で右手をやや前方に、左手を身体のすぐ横につき、肩で息をしている。額にはわずかに脂汗がにじんでいるようだ。

「なんだ、今のは……。」

そう呟く御子神仁の声は、他の少年たちに届くことはなかった。

少年たちが耳にしたのは、「いや、大丈夫だ。」という御子神仁の声であり、目にしたのは、何事もなかったようにスーっと立ち上がる彼の姿であった。


 とはいえ、少年たちの最後尾を行く御子神仁の頭の中では、先ほどの自問が渦巻いていた。

〈目覚めなさい、仁。〉

この建物に入り、少しした頃から、頭の奥底にその言葉が沁みだしてきていた。女の人の声だった。何故かはわからないが、懐かしい感じがした。が、全く理解できない状況だった。

〈急ぎなさい。この先すぐに禍々しい出来事が起こります。今こそ、あなたの力を開放しなさい。〉

頭の奥底から沁みだしてくるそれらの言葉は、なぜだかは分からないが、身体の隅々にまで染み渡るかのようであった。


5月5日 PM2:30 オペレーション その4


 大型エレベーターで地下へと降りてゆく少年たち。そのエレベーターは、病院でよく見かける扉が両サイドにあるタイプのものである。つまり、前方から乗って後方へ降りるということは、リンカーン記念病院の建物のその奥にまた何らかの施設があるということを示唆している。むろん、少年たちは、それが何であるのかを、すでに知らされていた。A国陸軍の秘密研究所だ。そして、彼らの任務は、そこで研究・培養されている特殊細菌兵器「ヘブン」を、実地の訓練として奪取することであった。

だが、知らされていないこともあった。その秘密研究所を統括しているのは、ダン・ケリーが統括している諜報機関S・Aとは利害対立関係にある同じ諜報機関S・Cであり、実地訓練どころか、実際の略奪であった。


 少年たちを乗せたエレベーターの降下速度が次第に緩やかなものになってきた。

「よし、もうすぐ目的の地下7階だ。廊下に警備の者はいない。」

「目標の研究室は現在モニター中。研究員が3名のみ。何らかの実験中の模様。」

「任務の遂行に特に障害は見当たらない。」

エレベーター設置のスピーカーから、監視ルームにいるトーマスの声が響いた。


 研究室の制圧は予定通り簡単であった。あらかじめ作られていた磁気カードでの解錠。特殊催眠ガス弾二発の室内への投入。3分待って、ジェームズがトーマスに指示。

「よし、室内を排気しろ。」


 10名全員が研究室内に踏み込む。床に倒れ込んでいる研究員の姿をちらと見ながら、ジェームズが装着したマイクに向かって言う。

「トーマス、『ヘブン』の所在は分かるか?」

返事は、研究室内に装備されたスピーカーからあった。

「部屋中央部の実験装置で、実験準備中のようだ。そこにあるのでは。」


 部屋の中央部には、1メートル四方の台座の上に、おそらくは特殊ガラスで作られているのであろう円筒状のケースからなる装置があった。そのケースの中には、実験用のハツカネズミが二匹、ちょろちょろと動き回っている。

正方形の台座中央から、直径20センチほどの円形の筒が、高さ20センチほどせり出している。最上部には、シガレット・ケース状の銀色に輝く四角なケースが蓋を開けられて乗っている。よく見ると、筒の最上部には、そのケースを収めるように少しくぼみがついているようだ。台座の全面パネル(スイッチ類やインジケーター類でうまっている)中央部に、その円筒状の柱体と同じく20センチほどの空間が設けられているのは、その円筒状の筒を電動で移動させるための空間のようであった。つまり、実験用のカプセルの入ったケースをそれら操作スイッチのある部分で装着し、移動させ、あとは台座中央部からガラス・ケース部へと自動的に移動させるのであろう。外から見た限りではよくは分からないが、密閉対策も十二分に行われているのであろう。

台座前面のスイッチ類やインジケーター・パネルのすぐ後ろから、二本の直径3センチほどのパイプが垂直に突き出ており、その先端には二本のマジックハンドが関節状の装置でつながれている。おそらくは実験の途中、マジックハンドの操作中だったのであろう。先ほどの蓋を開けられた銀色のケースの中で、特殊鋼でできているのであろう円筒状のカプセルが開けられ、そのすぐ横に、透き通った黄緑色の液体の入った透明なガラス状の容器が置かれている。


「よし、カルロス、容器をカプセルに入れて回収しろ」

ジェームズが、台座の周りをぐるりと取り囲んだ少年たちの中からカルロスに命じた。

「オー・ケー、任せておけ。」

カルロスはスイッチ類を操作し、容器の回収にかかった。さほど難しい作業でもないようであった。左のマジック・ハンドがケースを押さえ、右のマジック・ハンドが液体の入った容器をケースから取り上げた。


 緊張状態にある人間には、第六感が敏感に働くのであろうか。その瞬間、ケースを取り囲んだ少年たち全員が嫌な悪寒に襲われ、頭が空白になり、時間が止まったかのような感覚に襲われた。

一瞬の全く音がないかのような沈黙の時があった。

同時に、「ドドーン!」と文字通り身体を揺さぶる振動が起こった。

「ウワー!」と叫びつつ、両足を突っ張って身体を支える少年たち。

だが、その足元のコンクリートの床そのものにひびが入り、少し床がずれた。

たまらず、何人かの少年たちが倒れ込んでいる。その中に、マジック・ハンドを操作していたカルロスもいた。


 マジック・ハンドから容器が外れて落ち、割れて、中の液体が飛び散り、特殊ガラス・ケース内で気化した。「キキッ!」と一瞬の鳴き声を上げる二十日ネズミたち。が、瞬時に毛が抜け落ち、皮膚がただれ、血を吐いてぴくぴくと身体を痙攣させ、やがて動かなくなる二十日ネズミたち。


 倒れ込まずに、ケースの周りでそれを見ていた少年たちの顔色は真っ青だ。

「どうしよう……。どうしたらいいんだ」

おろおろと呟くジェームズの目の前に、天井から剥がれ落ちてきたコンクリート塊の一つが特殊ガラス・ケースを「ガン!」と叩く。

驚いて「ウワーッ!」と叫び出すジェームズ。

その目の前で、さらに一つ二つとコンクリート塊がガラス・ケースを襲う。


 少年たちにも、二十日ネズミに起こったのと同じことが始まる。同時に、研究室内に装備された探知装置が働き、「ウィーン、ウィーン、ウィーン」と警報を鳴らしだす。数秒後、研究室入り口前の特殊シャッターが閉じられ、廊下の所々の特殊シャッターも続けざまに閉じられていった。


 警報後に、研究室内ではもう一つの装置が作動した。壁内の最上部に配管されていた高熱火炎ガス排出装置のスイッチが自動的に入り、壁最上部にあけられた各所の噴出口から研究室内部にくまなく火炎ガスが吹きつけられたのだった。細菌によってすでに死の半ばにまで追いやられていた少年たちは、高熱火炎によってまず残った髪が「ボッ」と燃え上がり、そして身体全体が一気に燃え上がった。阿鼻叫喚の世界だった。


 監視ルームでこの様子をモニターしていたトーマスとヨシュアも、もはや状況判断ができなくなっていた。いや、むしろ凍りついていた、といったほうが良い様子だった。研究室で警報が鳴ると同時に、何ら状況を伝えない監視ルームを怪しんで、数名の兵士たちが監視ルーム前に結集してきていた。特殊樹脂で固定された扉は強力なバーナーで破られた。「動くな!」と銃を構えた兵士たちに命じられた時には、トーマスとヨシュアの瞳はすでにうつろであった。やがて、恐怖に駆られ、今にも叫びだしそうな動作をしかけると同時に、数十発の銃弾が彼らに撃ち込まれた。


 だが、トーマスとヨシュアが見ていたモニターの画面を兵士たちが見た時、彼らもまた恐怖に襲われて凍りついたのであった。


5月6日 AM2:00 査問 その3


 こうした出来事の一部始終が、会議室の巨大なスクリーンに映し出されていた。警報装置が発動すると同時に作動する記録装置の映像だ。そして今、スクリーンに映し出されているのは、実験室中燃え盛る炎の中で、左腕こそ目の前にかざして炎を防いでいるような様子を見せてはいるが、まるで何事もないかのように、しかし何かの攻撃に備えているかのような姿勢をとった御子神仁の姿であった。不思議なことに、彼の周りを何かが包み込んでいるかのようであり、そこには炎のかけらすら見受けられなかった。

とはいえ、そうした御子神仁の姿は、はっきりと見て取れるというものではなかった。なぜかは分からぬが、御子神仁の周りにはあたかも陽炎が揺れているかのような空気の乱れがあったからだ。おぞましいことに、彼の周り以外はくっきりと、実験室のあちらこちらに、炭化しかかった手と腕が、炎越しに突き出しているのが見て取れた。


 その段階で撮影機材が焼き切れたのであろう。巨大なスクリーンは、炎の地獄にただ一人立つ御子神仁の姿が映し出したままで、フリーズしていた。

その画面を見ている誰もが、かすかな唸り声を漏らす者はいたが、無言のまま凍り付いていた。額に油汗を浮かべている者もいた。


 しばらくして、背の高い椅子に腰かけている人物が静かに言った。

「もはや結論は出ているな。」

「あとは私とジョナサンとで、具体的な処置をする。」

その言葉に対して、査問対象のダン・ケリー以外の人々は、次のように答えた。

「はい、大統領」、と。


エピローグ


「たった今地震のニュースが入りました。マグニチュードは7.9。ここ200年来なかった未曽有の大地震です。」

「地震の影響と思われる事故のニュースも入ってきました。マイクロバスが崖下に転落・炎上中。被害者は国連特別留学生11名。いずれも焼死の模様。付き添いの政府広報官ダン・ケリー氏はバス外に投げ出され、頭蓋骨陥没死とのことです。」


 おそらくはヘリコプターからの映像であろう。海岸の崖沿いに作られた道路のガードレールが突き破られ、崖下に転落・炎上しているマイクロバスの姿が黒煙の間に見える。すぐ横の大きな岩の上には、両手を広げ仰向けに倒れている男の姿が見える。剃り上げられた額からは、大量の血が流れている。右足こそは少しくの字に曲げているが、まるでその岩の上に横たえられたかのような姿である。


 リンカーン記念病院で起こった「事件」は、あふれかえる大地震災害の報道の渦の中で、その結末が「事故」として一瞬のみ触れられた。亡くなった11人の少年たちの状況も、ましてや氏名さえも伝えられることはなかった。納得のいかないままの遺族たちに、後々、陰に陽に圧力をかけ、口をつぐませたのは特別事態対策局局長ジョナサン・タイラーとA国大統領であった。


 御子神仁については、その存在すら伏せられていた。だが、すべての者の口に戸は立てられない。「事件」を知るあるいはそれとなく伝え聞いた政府高官の間では、オペレーション名をもじって秘かにデビル・チャイルドと呼ばれるようになった。事態のそれ以上の詳細を知られることを恐れたA国大統領は、御子神仁を自分の養子とし、その身柄をジョナサン・タイラーに預けた。


 彼ら二人と御子神仁の間にどのような話し合いがもたれ、なぜ御子神仁が唯々諾々とその提案に従ったのかは、神のみが知るところであった。引退を予定していたジョナサン・タイラーは、特別事態対策局局長の任に留まり、御子神仁はその唯一の秘密局員となった。


 こうして御子神仁はジョナサン・タイラーの、ひいてはA国大統領の指令の下、超大国の暗闇でその能力をいかんなく発揮することとなった。A国国内のみならず、世界のあらゆる地域で。数年後、ジョナサン・タイラーが死ぬその時まで、御子神仁の暗闇での活動は続いた。




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