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十四歳の時に、私たちは婚約した。
私の両親は祝福してくれたけれど、アルファルドのご両親は渋面だった。
私より家柄の良いお嬢さんと息子とを結婚させたい、と考えていたらしい。
けれどアルファルドは、私以外とは絶対に結婚しない、と両親に告げ、最終的には、渋々ながらも婚約を認めてもらうことができた。
「やっと君と結婚できるんだな」
婚約したばかりなのに、もう結婚の話をするアルファルドの気の早さに、私は声を立てて笑う。
きっと、その時が、私たちの最も幸せな時間だったに違いない。
☆
それからしばらく経ったある日。
後から考えれてみれば、私とアルファルドの転機は、ここで訪れたのだろう。
私の屋敷の近くにある庭園。そこが私たちが、よく逢瀬に使っていた場所だった。当家の私有地なので、何に憚ることもない。
いつもの木陰のベンチに腰掛け、彼が来るのを待ちながら、本を読む。何ということもない日常のはずだった。
かさり、と茂みから葉擦れの音がした。
ここは小動物も住んでいる自然豊かな場所だ。リスでもいるのかしら? と思い、音のした方に目を向ける。
そして……息を呑む。
茂みの影から現れたのは、黒ずくめの男だった。その格好だけでも、静かな庭園の雰囲気にそぐわないのだが、それ以上に異様なものがあった。
その手に持った何かが、太陽の光を鈍く反射する。
(刃物……!?)
私はベンチから立ち上がる。抵抗の手段など持つはずもない私の選択肢は、逃げることだけだ。
私に気づかれたことを知った男が、追ってくる。
必死に逃げても、女の足だ。あっという間に距離を詰められる。そして……刃物を持った男の手が薙ぐ。
「……っ!」
咄嗟に庇った腕に、熱い痛みが走る。斬られた、と感じると同時に、
「マリアンヌ!」
アルファルドの切羽詰まった声が聞こえてきた。
駆け寄ってきたアルファルドは私を背に庇うと、帯刀していた剣を構える。すると曲者は、身を翻して逃げて行った。
「マリアンヌ、大丈夫か!」
アルファルドの声を聞いて、そして脅威が去ったことに安心した私の足から力が抜ける。倒れ込みそうになるのを、咄嗟にアルファルドが支えてくれた。
切羽詰まったアルファルドの声に、私は微笑む。
「大丈夫。アルファルドが来てくれたから」
しかしアルファルドの表情は強張ったままだ。彼は、斬られた私の腕に応急処置を施す。斬られた腕は熱を帯びていて、それが少しずつ全身に広がっていく。
「早く家に戻って、医者に診てもらったほうがいい」
そう言って、アルファルドは私を抱き上げる。
その腕の中で、張り詰めていた緊張の糸が切れた私の意識は、深い闇の淵に落ちて行った。
その、おぼろげな意識の中、
「どうして、こんな……」
と呟くアルファルドの震えた声が、微かに響いていた。
☆
家に運び込まれた私は、二日間ほど熱を出して寝込んでいたらしい。その間の記憶はほとんどない。
目が覚めると、熱も落ち着き、体も動かせるようになった。斬られた腕は、まだ痛むけれど、十分に我慢できる程度だった。
目が覚めるとすぐに、アルファルドが大きな花束と果物を持ってお見舞いに来てくれた。
「怪我はどうだい?」
「あ、見た目ほどは大したことないみたい。アルファルドのおかげね」
本当に、アルファルドが来てくれるのが、もう少し遅ければ、どうなっていたか分からない。感謝の言葉を伝える。
けれど、アルファルドの表情は曇ったままだ。
少しでも彼を安心させたい。そう思いながら、私はアルファルドの頬に手を添える。
「本当に、大丈夫なのよ。そんなに心配しないで」
触れて、はじめて分かった。アルファルドの体が震えている。瞳が、不安に揺れている。私は、そんな彼の唇に、そっと自分の唇を押し当てた。
口づけはほんの数秒。離れると同時に、ぎゅっと抱きすくめられた。
「君が無事で……良かった」
絞り出すような声で、続いた。
「君さえ無事なら……それだけでいい」
抱き締められた背中を、抱き締め返す。強く強く、互いの熱をその身に刻み込むように。
☆
その日から、アルファルドは何か考え込むことが多くなった。話しかけても上の空で、次第に逢瀬の機会も少なくなって行った。
会いたい、と思っても、
「今、少し忙しくて無理だ」
と、やんわり断られる。たまに会えても、会話は上の空で弾まない。
何故だろう、アルファルドとの距離が遠くなった、そんな気がした。
ただ、当時、アルファルドの家ーースコット家に対する黒い噂が密やかに流れ始めていて、彼はきっと、その処理に追われているのだろうと、自分に言い聞かせていた。
けれど、次第に私たちの間に暗雲が立ち込める。
アルファルドが、他の女性と懇意にしていると、そんな噂が人の口の端に登るようになったのだ。
アルファルドに限って、そんなことがあるはずない。
私は、アルファルドを信じたかった。けれど、噂の内容はとても具体的で、一度生まれてしまった不安は、胸に巣食い、じわじわと全身を冒す。
やがて、その瞬間が訪れた。
それが、ベルトーネ家の夜会の席だ。
……思えば私をエスコートするアルファルドの表情は、いつも以上に硬かった。
「マリアンヌ。君とはお別れだ」
そうして私は、長年連れ添った初恋の婚約者を失った。