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『マリアンヌへ
この手紙は、私から君に送る最後の手紙になるだろう。
思えば私は、随分と幼い頃から君と共にいた。言い替えれば君以外の女性を知らなかったということだ。そんな私の世界は随分と狭かったようだ。
社交会に足を踏み入れた私は、自分の視野の狭さを知った。同時に、この世界には魅力的な女性に満ち溢れていることも知った。
いや、ここは正直に書こう。私はどうやら、君に飽きてしまったようだ。
見てのとおり、私には、君の他に愛する者ができた。人生を共にするのは、彼女以外に考えられない。
君も、新しい恋人でも作って、好きなように生きるといい』
それが、婚約者であるアルファルドから私に送られた最後の手紙だった。
その手紙は、配達ではなく、アルファルドの同僚であるレナルド様の手で届けられた。
「ちゃんと改めて君と話し合うように言ったんですが、そうしたら、この手紙を渡されたんです」
本当に申し訳ないと恐縮するレナルド様に、私は首を横に振る。
「いいえ。こちらこそ私たちの問題に巻き込んでしまって、申し訳ありません」
そう答えると、レナルド様は痛ましげに目を伏せた。
☆
この手紙が私に渡されたのは、ある夜会の翌日だった。
ベルトーネ家の夜会に招待されていた私たちは、世の習いに従って、婚約者のアルファルドと共に出席した。
そして、ある理由から、私はその夜会を憂鬱に思っていた。
ベルトーネ家は、いわゆる名家だ。アルファルドのスコット家とは同列だが、私の家より格が上である。失礼のないようにしなければ、と少し気負う部分もあるけれど、憂鬱の理由は、それとは違う。
夜会の空気は、それでなくとも少しだけ苦手だ。華やかで賑やかで……私はいつも、気後してしまう。けれど、アルファルドが側にいてくれるだけで、心が落ち着く……はずだった。そう、いつもならば。
隣に立つアルファルドは、今日はとても無口で、あまり私を見ようともしない。話しかけようにも、どこか拒絶する空気を感じ、私は声をかけられずにいた。
やがて、会場である大広間に辿り着くなり、
「ここで少し待ってくれ」
と言って、アルファルドは私を置いて、その場を離れてしまった。
一人、取り残された私は、途端に手持ち無沙汰になる。嫌な想像が、私の考えを支配する。最近、耳に入ってくる噂話が、私の頭にこびりついて離れない。
しばらくして、彼は戻ってきた。
……一人の女性を連れて。
胸が騒ぐ。
私は、その女性の存在を知っていた。
二人は私の前に並び立ち、親しげに顔を見合わせる。
「紹介する。ベルトーネ家の御令嬢、モニカだ」
アルファルドは、モニカ様の手を取ると、その甲に恭しく口づける。
その、ほっそりした手が、アルファルドの腕に添えられる。モニカ様は、自信に満ち溢れた様子で艶やかに微笑んだ。
「ごきげんよう、マリアンヌ様。わたくし、モニカと申します」
婚約者の前で、他の女性を親しげに紹介する、その異常な光景。周囲も、私たちの間に漂う、ただならぬ空気を察し始め、次第に視線が集まってくる。
けれどアルファルドとモニカ様は、そんな視線もものともしない。アルファルドは、モニカ様の左手を取り、私に見せた。
彼女の左手薬指には、金の指輪が輝いていた。そして、同じものが、アルファルドの左手にも。
左手薬指の指輪。それが意味するものは一つしか、ない。
「見てのとおり、私は彼女と結婚する。両親も君の時とは違って、祝福してくれている。家柄も良く美しく聡明な彼女は、私にとって、これ以上とない相手だ」
モニカ様への賛辞を口ずさみながら、その目が、真っ直ぐに私を見る。しかし、かつて私の姿を映していた、ひたむきな瞳ではない。ただ、ひたすらに、冷たかった。
「私は君とは結婚できない」
躊躇なく放たれた言葉が私の胸を刺す。その痛みが、これは夢ではなく現実であることを思い知らせてくる。
何か言わなければ。けれど、どんな言葉も喉の奥に詰まって、出てこない。そんな私を見たモニカ様が、くすりと嗤った。
「アルファルド。これ以上、ここに留まっては彼女に可哀想ですわ。とても惨めな思いをされているでしょうから」
モニカ様にそう促されたアルファルドは頷き、そして最後にこう言った。
「マリアンヌ。君とはお別れだ。さようなら」
と。
呆然と立ち尽くす私を一顧だにせず、アルフォードはモニカ様を連れて、会場を後にした。
ざわめく会場。好奇心と同情が入り混じった視線が降り注ぐ。けれど、いたたまれない、恥ずかしいという気持ちは湧き上がらず、ただただ、私の心は空っぽで、何も考えられなかった。
☆
一連の話を聞きつけた私の両親は大激怒だった。
「あんなろくでなしに、娘をやらなくて良かった!」
「最低な男だと気付かないまま結婚しなくて良かったくらいだわ。貴女は気にせず、ここにいていいのよ」
その件では、両親もまた、世間の好奇の目に晒され、いたたまれない思いをしただろうに、私に優しかった。
しかし父は、同時に深く苦悩していた。
「だけど、どうしても分からない。お前たちは、疑いようもなく仲が良かったように見えたのに。正直なところ、今でも……信じられない」
と。
世間の目は、好奇が勝るものの、私に同情的だったように思う。それでも、王都では心の休まらない日が続いた。
そんな私を見かねたのは、手紙を届けてくださったレナルド様だった。
レナルド様は手紙を持って来られた日から、度々、こちらに顔を出されるようになっていた。
「こんな手紙を預かってしまった俺にも責任がありますから」
と彼は、郊外にある彼の姉の別荘への休養を提案してくださった。都会のしがらみに辟易して、郊外でひっそりと暮らしている方らしい。
「本当なら私の別荘が良いのですが、貴女にあらぬ噂が立ってはいけませんから」
私のことを真摯に考えてくださっているお気持ちが、とても優しく心に沁みた。
「そう、ですね……。ありがとうございます」
王都の喧騒から離れ、ゆっくりした時間の中に身を委ねるのも良いかもしれない。
私は彼の提案を受け、ひっそりと王都を去った。