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サイダーの泡二つ消える

作者: 千利 万里

いしまるは、ナンとひよこ豆のカレーを注文して、自分はインドに行こうと思う、と言った。

私は壁にかかっているインドの神さまの絵に見入っていた。

「インドには人類のルーツがある。ビートルズもインドに影響を受けていたりするし、僕にも何かヒントを与えてくれるんじゃないかと考えている。」

私の目をまっすぐ見て言った。でも、その瞳はいつも、私じゃない壮大な何かを映している事はずっと前から知っている。

彼はバンドでギターを弾いていて、最近少しずつ有名になったのか、色々なイベントに呼ばれて演奏する事が増えてきた。

この前私が彼のライブを見に行った時、可愛い女の子から一緒に写真を撮ってほしいとお願いされているのを見かけた。

これからという時に、海外に行って何をするのか、いつまで滞在する予定か聞いた。

いしまるは少し笑ってから答えた。

「表現を突き詰めたい、成長したいんだ。ギターを弾いたり、ご飯を食べたりして、これだっていうフレーズを閃いたらボイスメモに録音してさ。あとはいつまで居るか決めてない」

いしまるのナンとカレーのセットが運ばれてきた。いつもの店員さんが愛想良くニッコリ笑って料理を置いてくれる。

いしまるはインドに行っても家で出来ることだけする予定なんだね、と言おうとしたが、その会話の結末はきっとバッドエンドだ。

私の感情を伝える意味はなくて、その場が滞りなく平和に保たれていれば良いのだ。

そう思うようになったのはいつからだろうと、ナンをちぎってはカレーに浸して食べる動作を繰り返すいしまるを見つめながら、昔の自分を振り返った。

気付いたら私の料理も運ばれていたので、二人でもくもくと食べた。

いしまるの白い顔に汗が浮かんでいて、僕はカレーを食べたら汗をかく人種なんだよなあ、と以前言っていたのを思い出した。インドに行ったら彼はずっと汗をかいていて、帰国する頃には真っ黒に日焼けしているにだろうか。

全く想像できない。

くだらない自分の話もしたかったし、インドに行く本当の理由も聞きたかったが、全て飲み込んで

「いしまる。行ってらっしゃい」

と言ったら、

「さよならだけが人生だ」

といしまるは答えた。

窓の外からはまだセミの声が聞こえてきて、現代の九月は夏だと確信した。来月はいしまるの誕生日だが、その記念すべき日に出発するらしい。

私はすでに彼へのプレゼントを買っていたので、いつ渡せばいいのか率直に聞いた。

「じゃあ今からちょうだい、君のアパートで涼むついでに。」

「いいけど…ついでになんて、プレゼントが軽んじられてしまう」

そう言うと、はははと笑った。

ギラギラした陽射しを避けるように影を歩く。いつもいしまるは私の右側を歩く。こっち側じゃないと落ち着かないんだよ、と言っていた。時々思いついたように、道路側を歩いてくれることもあった。

アパートに着いてすぐにプレゼントを渡した。

「こんな時計が欲しかったんだ。いかすね」

早速いしまるは左手首につけた。

ありがとう、と言って私を見つめた目は、私を見ていた。

「行ったらいやだ」

頭で考える前に口を突いて出た言葉は幼くて自分に幻滅したが、一度放った言葉はいつだって戻らない。

いしまるは大丈夫だよ、と私を見ずにため息混じりに言って、勝手にベッドに寝転んだ。

汗かいたんだから寝転ばないでよ、と言いながら私も隣にダイブした。




いしまるを空港まで見送ろうとしたが、仕事が休めなかった。

うちの職場は今月決算で、事務職は繁忙期真っ盛りだ。忙しいとみんなピリピリして空気も張り詰めるので、息が上手にできない。

いしまるは今頃、空の上だろうか。

「何かありましたか?」

愛ちゃんは微笑みながら私に聞いた。みんな昼休みに入っていたので、簡単に事情を説明した。

「それは寂しいですね。先輩、今日の夜空いてますか。」

とご飯に誘ってくれた。

彼女と二人でご飯に行くのは初めてかもしれない。低空飛行だった私の気持ちも上昇して、そのまま昼休憩に入ることにした。

午後も多忙を極めたが、明日の私に仕事を任せて、愛ちゃんと一緒に定時に退社する。

「今日は早いね、二人でデート?」

そんな課長の一言に、いちいちイラついてしまう。

「すみませーん、お先に失礼しまーす。」

愛ちゃんが明るく答える。

日本では残業は美徳だ。そんな偏った持論を誰かに話して嫌われたくないので、心にしまっておく。

いつも私はしまっておく。


愛ちゃんとお店に入った。

隣の席のカップルがビールを飲んでいた。泡がはじけているのが目に止まる。私のさまざまな気持ちも、泡のようにしゅわしゅわ消えていってほしい。泡は生まれては消え、生まれては消える。

それは感情も、人の生命も同じかもしれない。


私はいしまるのことを話した。

付き合って三年目だということ。いしまるとは大学で出会ったこと。彼と喧嘩すると、決まって「想像力がない奴は馬鹿だ」と言われること。

愛ちゃんはニコニコしながら聞いてくれた。

そして、あなたの話も聞きたいと言ったが、たいして面白くないので、と笑って返された。

私は初めてお酒を飲んだ日みたいに酔っ払っていた。感情が目まぐるしくなっていて、頭が追いつかず、言葉が思い通りに紡ぎ出せなくて、気づいたら愛ちゃんのマンションに行くことになっていた。

「先輩、靴脱げますか」

彼女のマンションの玄関だった。

うん、子供の頃からずっと脱いでるから任せて、と言ってスニーカーを脱いだ。通勤の時はスニーカーに履き替えている。

「お水、良かったら飲んで下さいね」

グラスにミネラルウォーターを注いでくれた。

すると、彼女は唐突に

「うちに小人がいるんです」

と切り出した。

私の表情を確認して、

「五十代くらいの小太りの小さいおじさんなんです」

そう続けて言った。

いつもの私ならえー!、何で見えるのー?と女子らしい反応が、出来たと思う。

「警察には相談した?元彼じゃないよね?」

と神妙に尋ねてしまった。

「もう、信じて下さいよー!本当に手のひらサイズなんです。朝起きたら私の髪の毛を三つ編みにしてたり、靴を履こうとしたら紐をほどいている最中だったりして、目が合ったらハッとしてスッとどこかへ消えちゃうんです。多分夜から朝にかけて行動してます。お願いです。今夜うちに泊まって一緒に見届けてくれませんか。」

何だかおかしな展開になった。

私は霊感がないし、不思議な体験をしたこともない。泊まったところで小人を目撃できる自信がないのだが、そう言っても彼女は今晩だけでいいからと引かなかったので、そんなに言うならと承諾した。

もう時計はとっくに深夜二時を回っていて、明日も仕事なので寝ることになった。彼女のシャンプーやパジャマを借りることにして、シャワーを浴びる。

愛ちゃんは不思議ちゃんタイプでも、いわゆるメンヘラ系女子でもない。頭が良くて、時事ニュースの話になっても報道番組に出ている下手なコメンテーターよりもよっぽど聡明な意見を述べているように私は思う。

そんな彼女がこんな冗談を話すとは考えにくい。

浴室から出ると、もう瞼が落ちてきた。先に寝るね、と伝え、布団に倒れこむようにして睡魔に誘われた。



翌朝、コーヒーの香りとフライパンのジュージューという音で目が覚めた。自分の家ではないことを思い出し、むくりと起き上がると愛ちゃんが新妻のようにエプロンを締めて朝食の準備をしてくれていた。

「おはようございます。よく眠れましたか」

朝日のような笑顔で挨拶をされ、世の男性はきっとこんな妻が欲しいのだとはっきり思った。

おはよう、小人見てなくってごめん。と伝えると、愛ちゃんはふふっと笑った。

「見えるか見えないかなんて、どうでもいいんです。信じてくれるかそうじゃないかの方が、生きる上で必要なことです。」

星の王子さまでもたいせつなことは目に見えないんだよ、とキツネが教えてくれることを思い出した。でもそれを今ここで言うと愛ちゃんの思いの尊さが半減する気がしたので、それは心の中で思うだけにして、曖昧に頷いた。

玄関で靴を履こうとすると、片方の靴の紐がほどけていた。酔っ払っていたからだろうかと思ったが、すぐにビビッと来た。

「愛ちゃん!小人が靴紐をほどいてるよ!」

子供のようにはしゃいでしまった。愛ちゃんは後ろから覗き込んで、あ、ほんとだと言った。

でしょ、と振り返ったその瞬間、彼女の肩に何かよじ登る黒い影が見えた。それは人形みたいなサイズで、頭はモジャモジャの影だった。

あっ!と声を上げるとその影はサッと姿を消した。

「どうしました?」

と聞かれたが、私はまだ自分が寝ぼけているのだと思い、スマホあったっけ、と鞄の中身を確認した。

じゃあ今日も一日頑張ろうねと言い合って彼女の部屋を出た。


それから三ヶ月後、愛ちゃんは失踪した。


急に仕事に来なくなり、無断欠勤が続いた。

携帯も繋がらなかった。

彼女のマンションを上司と尋ねたら、そこはもぬけの殻だった。愛ちゃんには年上の医師の彼がいて、もうすぐ結婚するらしいという噂があったようだ。もしかしたらその彼と一緒になったのかもしれない。

でも、あの小人が愛ちゃんを違う世界に連れて行ったんじゃないかと私は強く思った。


本当のことは目に見えないから分からない。

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