最後は死を求める
締め切り。
世の中が円滑に進めるための仕組み。
何事にも終わる時を求め。
何事にも終わることを求める。
それが僕の中の締め切りの定義だったり、存在理由だったりする。
「それにしてもこの量はないよな」
目の前の大量に積まれたプリントを前にそう佐藤君は言う。
自分たちの高校は、一応県内屈指の進学校であることを自称しており、宿題の量がはっきりいって異常である。挙句の果てに、絶対に中弛みはさせないことを意図に、現在僕達の学年でもある二年生には異常な量の上にさらに異常な量の宿題が課されるしまつである。
帰り際、田中君が、
「あれ?バックには教科書もノートも入ってないのに、どうしてこんなに鞄は重いんだ?」
と冗談を言っていたが、毎日似たような冗談を言っているので、とうとう今日は笑ってあげるフリすらできなくなった。
全く笑えない。
いや、本当に笑えない………。
「毎日毎日宿題に追われる日。自分のためとはいえ、流石にこれは堪える」
ちなみに、2年生の大半どうやってこの宿題量に対処しているのかというと、いわゆる答えの丸写しである。答えの丸写しなんて良くないという正論は、このプリントの束を目の当たりにすれば誰もが引っ込んでしまうのが普通である。
一方で佐藤君は、毎日しっかり、本当にしっかりこなす数少ない真面目タイプである。よくこの理不尽なプリントの量を前にして、正しさを貫き通そうと思える。僕は常々、真似できないと思いながら見ている。
ちなみに僕は中間ぐらいの立ち位置で、真面目にやるときもあれば、答えを丸写しするときもある。ときには、このプリントは真面目にやって、このプリントは丸写しにするという感じにするときもある。
「はあ、俺っていつか締め切りに殺されそうな気がする。ブラック企業で働いている人みたいにいつか突然、前触れなく死んでしまいそうな気がする」
そんなことを冗談めいて言っていた。
そこまで思っているならやらなきゃいいのに、と僕なんかは思う。
そんな時、ふと思い立った疑問を佐藤君にしてみた。
「締め切りはあるべきだと思う?」
佐藤君は
「そりゃあ、あるべきだ。社会全体がしっかり機能するには締め切りは必要だ。」
と言う。
冗談とはいえ、自分を殺そうとしていると言った存在を必要とするなんて。
やっぱり佐藤は真似できないと思った。
後日。
他の人にも同じことを質問してみたら、
田中くんは
「あるのはしょうがない。あっては欲しくない。言えるのはそれぐらい。」
と言う。
鈴木君は
「少なくとも僕はない方が嬉しい」
と言う。
郷田君は
「そんなものあっても俺は守らないぜ」
と言う。
荒巻さんは
「締め切りがあってもいいけど、宿題は無くなるべきだ」
と言う。
神原さんは
「うーん、私には難しい問題だな。少なくとも『ないべき』とは言えない」
と言う。
富田君は
「それより、そろそろダイエットを始めようと思うんだが、いい方法を何か教えてくれないか?」
と言う。
そして藍川さんはこう言った。
「私は締め切りが欲しい」
と。
欲しい?
今まで聞いた人の中では、なくなって欲しいという意見はあったが、むしろ欲しがる人いなかったし、まさかいるとは思わなかった。
相変わらず枠に収まらない人である。
「どこかで終わりが欲しい。どこかで打ち切らせて欲しい。だって、突き詰めればどこまでもやれるし、突き詰めればなんだってできてしまうし、それゆえにどこで終わらせればいいのかわからなくなる」
そしてこんな例え話をしてくれた。
「自由研究を1日でやれと言われたらそこそこのもので満足できる。だけど、締め切りがなかっとしたら少なくともが論文誌に載せられるぐらいのレベルまでやらないと気がすまなくなるし、もしかするとそれ以上を自分に求めてしまうかもしれない。だから、せめて時間的な制限がないと一生同じことをやらされてそうで怖くなる」
多分、そんな悩みをするのは藍川さんぐらいのものだろう、とは思った。
自由研究で論文誌に投稿って。
あなた一応高校生ですよね?
「人間どこかで終わりを自ら求める。いつか誰しもが死ぬことと同じだ」
たかが締め切りと人間の死の2つを繋ぎ合わせるのは、いささか突飛が過ぎる気もしたが、
「だってデッドラインって言うしな」
その一言に、素直にうまいと思ってしまった。