婚約破棄された侯爵令嬢は、元婚約者の側妃にされる前に悪役令嬢推しの美形従者に隣国へ連れ去られます
たくさんの方に読んでいただき感謝します。
加筆・修正しました。(2021/10/13)
内容を少し変更しました。(2023/01/21)
「君との婚約は今日をもって破棄する!」
高らかにそう宣言したこの方は、この国の王太子殿下であるイーサン様。どうやら、私は今日をもって婚約破棄されてしまうようです。
◆◆◆
私はイーサン殿下のことを心からお慕いしていました。
侯爵令嬢である私、アナベル・ハワードが彼の婚約者と内定した6歳の時、初めてお会いした同い年の金色のくるくるした巻き毛に青色の瞳をしたイーサン殿下は女の子のように可愛かったことをよく覚えています。
そんな殿下に、「アナベルと婚約できたことをとても嬉しくて思っている」とはにかんだ笑顔で言われたとき、こんな素敵な方と婚約できるなんて私は幸せ者だと思いました。
今ではわかります。私は殿下のその笑顔に一目惚れをしたのです。
それから毎日王宮へ通い、遊ぶことも我慢して厳しい王妃教育に一生懸命取り組み、今では立派な淑女に成長したと自負しております。
王立学園卒業と同時に国王として戴冠することが決まっている彼に相応しい王妃となれるようにと、その気持ちだけで辛い日々も乗り越えて参りました。
お互い勉学に忙しかったため、月に一回のペースで開かれる二人でのお茶会くらいでしか会う機会はなかったけれど、結婚したら夫婦としてお互いを思い合える穏やかな関係を築いていけるはずだと夢見ていました。
それが私の独りよがりの考えだと気がついたのは、十五歳のとき。全ての王族と貴族が入学する王立学園に入学した後でした。
殿下は最初でさえ私に気を配って優しいお言葉をかけてくださっていましたが、だんだんそれがなくなり、それと共に学友のご令嬢と一緒にいる姿を多く拝見するようになりました。
ご令嬢のお名前はエリーナ・カートレット男爵令嬢。イーサン殿下が彼女といるところを何度も目にしましたが、殿下はとても柔らかく微笑んで、幸せそうな表情をされていました。
心は大変痛みましたが、他でもないイーサン殿下が彼女を慕っているようでしたので、私は殿下と結婚した後、彼女が側妃として召し上げられるのだろうと覚悟を決め始めていました。
それはイーサン殿下とエリーナ様が仲睦まじく過ごしていると学園中に噂が広まった頃でした。
イーサン殿下の婚約者である私が気に食わなかったのでしょう、エリーナ様は一人でいる私を見つけてこう宣言していかれました。
「悪役令嬢、アナベル・ハワード! あなたにイーサン様は渡さないわ!」
……と。お言葉の意味はよくわかりませんでしたが、恐らく私はお二人の恋路を邪魔する悪役として彼女に認識されてしまったのでしょう。
お二人の恋路を邪魔をするつもりはありませんでしたが……。彼女は愛する人に自分以外の妻がいることが耐えられないのかもしれません。
そうですね。二人がお互いを愛しているのなら私の存在は邪魔でしかないでしょう。
しかし、彼女は男爵令嬢。イーサン殿下とは身分的につり合いがとれませんし、彼女はカートレット男爵の婚外子にあたり、最近まで平民として暮らしていたこともあって、貴族令嬢としてのマナーや教養も側妃になるとしてもまだ到底足りません。
「エリーナ様を王妃に据えるにはどうしたらいいかしらね、エリオット?」
私には、幼い時に道端で行き倒れているところを助けてからずっと、忠実に仕えてくれている従者がいます。
短い金色の髪に青色の瞳。色彩はイーサン殿下と同じなのに、エリオットは背が高くて体格がいいので、中性的なイーサン殿下に比べ、男性的な色気に溢れる素晴らしく美形な私の自慢の従者です。
こうして比較してしまうのは、イーサン殿下とエリーナ様の想い合う姿が羨ましいからでしょうか。でも、いいのです。エリーナ様が現れたことによって、私には夫の愛情は手に入らないのだと理解できましたし、諦めがつきました。未来の王妃として私にできることは、イーサン殿下につつがなく王位を継いでいただくこと。その治世を豊かにするサポートをすること。
お互いを心から慈しみ合い、仲睦まじい王と王妃の姿は国民に安心感を与え、そのまま国の安寧にも繋がります。私とイーサン殿下ではそれは叶えられないのだから、エリーナ様が王妃の座についてくれた方がいいように思えます。実務のサポートでしたら私でもできますし、優秀な文官が大勢いますから。イーサン殿下の心を射止めたエリーナ様の存在は稀有なのです。
私はどうしたらエリーナ様がイーサン殿下の側にいつづけられるのか、知恵を絞ることにしました。
困ったときはいつも頼れる従者に相談します。必ず的確な助言をくれる、私が一番頼りにしているひとなのです。
「そうですね。一つ、方法がございます。ただし、それをお教えする代わりに、私と約束をしてください」
「なぁに? エリオットが交換条件を提示するなんて珍しいわね?」
「はい。重要な局面と存じますので」
「重要な局面? そうね、確かに私にとっては人生を左右する重要な局面よね……」
「……」
「わかったわ。どんな約束でも守るわ。言ってみて」
にやりと口角を上げたエリオットは続ける。
「もし……万が一、王太子殿下がアナベル様との『婚約を破棄する』とおっしゃったら、私と一緒に隣国ガルディニアへ逃げてください」
「ふふ。面白い条件ね。イーサン殿下が『婚約を破棄する』と言ったらエリオットと逃げればいいのね。わかったわ。もしそんなことになったらこの国にいても修道院に入るくらいしか道はなくなりそうですものね。もしもの選択肢としてはとても理想的だと思うわ。約束する」
「ありがとうございます。そのお言葉、お忘れなきように」
「ええ。二言はなくてよ。私を心配してくれているのよね。エリオット、いつもありがとう」
アナベルはにこりと笑って従者を労う。
こうしていち従者に対しても決して尊大な態度を取らない清廉さがアナベルの一番の魅力だとエリオットは思っている。
「それで? エリーナ様を王妃にする方法を教えてくれるのよね?」
「はい。簡単ですよ。彼女が聖女になれば良いのです。聖女に認定されれば例え平民でも王妃となれるでしょう」
「それはそうでしょうけれど……聖女は意図的に認定を操作できる存在ではないわ。本人に素質がないと無理でしょう?」
「はい。でも、大丈夫ですよ。彼女は間違いなく聖女に認定されるはずですから」
「彼女は聖女なの?」
「ええ。間違いなく」
従者のエリオットはなんでも知っています。ときどき予言めいたことも言うし、それを外したこともないので、エリーナ様は「間違いなく」聖女なのでしょう。
なぜ知っているのか聞いても「勘」だと言い張っていつもはぐらかされてしまうのです。今回もきっと聞いても教えてもらえないのでしょう。
私は彼自身が優秀な間諜であるか、そういう人物と懇意にしているのかのどちらかだと予想しているのですが、彼に正解を教えてもらえたことはありません。私がエリオットに力を貸してもらってばかりの頼りない主なのが原因かもしれません。いつか、彼の自慢できる主に成長して、私にすべてを話してくれる日が来ることを夢見ているのです。
◆◆◆
どうやら、私は乙女ゲームの世界に転生したらしい。そのことに気づいたのは、私がガルディニア王国の第二王子、エリオット・ガルディニアだと認識したときである。
前世では家族の仲が良く、特に妹とは休日に一緒に遊びに出かけるくらい仲が良かった。
その妹に無理矢理アプリをダウンロードさせられて始めたのが、私が転生した世界が舞台となっている乙女ゲームだった。
タイトルこそ覚えていないが、平民出身のヒロインが男爵令嬢になるところからゲームはスタートし、王立学園に入学して、数年前に街にお忍びで遊びに来ていたときに出会ってお互い一目惚れをした王太子と再会する、というストーリーだったはずだ。
他のルートもあったが、この世界のヒロインは王太子ルートを選んだようなので割愛する。
王太子ルートに進むと、悪役令嬢が登場する。
そう、私の何よりも大切なアナベルお嬢様である。
私がなぜ興味のない乙女ゲームをやっていたのかというと、「アナベルファンになったから」この答えに尽きる。
アナベルは外見が人外のように美しくて完全に私の好みであることに加え、婚約相手は浮気した挙句幼い頃からの婚約者を手酷く扱うポンコツ王太子なのに、健気に献身し、一途に想い続けるという性格まで美人な完璧美女なのだ。
そして、王太子ルートで物議を醸したのが「悪役令嬢側妃エンド」である。エンドの名前も覚えていないが、ハッピーとかノーマルとかそんな感じだったと思う。
確かなのはヒロインが聖女に認定されて王妃になるエンドで、実務に不安のあるヒロインを支えるためにアナベルを側妃に迎え入れるというストーリーだったということ。
私はよく知らなかったが、妹によると悪役令嬢は悪事を働いたことで断罪されて処刑されたり、国外追放されたりする場合が多く、悪事は働かないただの恋敵で、挙句側妃になる悪役令嬢など邪道なのだそうだ。だが、アナベルは清く正しく心優しい令嬢だ。悪事を働くなんて考えられない。
いや、それは今は置いておく。
とにかく、私が転生したエリオットも歴とした攻略対象なので、私にもここが乙女ゲームの世界であると気づけたのである。
気づいた瞬間に、私はアナベルに会いに行くことに決めた。もちろん即決だ。同じ世界に推しが生きているのだ。会いに行く以外の選択肢はない。
エリオットはタイトル不明のこの乙女ゲームの中でも二作目に出てくる主要キャラクターだった。続編の開始時点ではアナベルは既にイーサン国王の王妃か、側妃かのどちらかになってしまっている。
私はアナベルが登場しない続編までプレイしていないので、エリオットが妹の推しでなければここが乙女ゲームの世界であるとは気づかなかったかもしれない。危なかった。前世の妹よありがとう。
確かエンドを迎えるのは学園卒業時だったはずだから、どのエンドを迎えるか見極め、タイミングが来たら自分が上手く誘導してアナベルを攫ってしまえばいい。
そのためには一番近くで状況を見守ることができるポジションが必要だった。だから、アナベルの前で行き倒れた。心優しい彼女なら拾ってくれるに違いないから。
そう思って行き倒れてみたら、案の定、彼女は見るからにみすぼらしい私を拾い、天使の笑みで従者として迎えてくれた。ずっと焦がれていたアナベルの実物に会えた時はもう死んでもいいと思った。むしろもう既に天国だった。私は一度死んでまた生まれ変わったのだから。(うまいこと言ってしまった)
長々と回想してしまったが、とにかく、賽は投げられているのである。
そして、この勝負は私の完全勝利に終わるだろうと確信している。
◆◆◆
エリーナ・カートレットは焦っていた。王太子の攻略は順調だったが、このままでは「悪役令嬢側妃エンド」まっしぐらである。どうにかして悪役令嬢を悪役令嬢たらしめたい。一夫多妻なんて耐えられない。
だが、協力者がなかなか見つからない。嘘の証拠をでっちあげるのだから、下手な人と手を組んで、裏切られでもしたらラノベでよくある「ざまぁ」をされて、全てが水の泡となってしまう。
悪魔の囁きが聞こえたのはそんな時である。
「『悪役令嬢側妃エンド』回避したくありません?」
「……! 誰? それを知ってるってことは、あなたも転生者なの?」
そこには魔法使いの黒いローブのようなものを身にまとった男が立っていた。
「そう。私はエリーナ×王太子推しでしてね。二人が幸せになる姿を近くで見守りたいのです。それにはアナベルが邪魔ではありませんか?」
「……! そうなの。アナベルを『本物の悪役令嬢』に仕立て上げるには裏切らない協力者が必要なのだけれど‥‥」
「私が証拠を捏造して差し上げます。証言が必要でしたらそれも私が請け負いましょう。大丈夫です。私は絶対に裏切りませんよ」
「どうして裏切らないと言い切れるの?」
「それは、純粋にあなたたちの幸せを見守りたいというのもありますが、一番は私がアナベルを手に入れたいからです。王太子にアナベルとの婚約を破棄してもらえば、それが叶うでしょう?」
「まあ。そうなの。だったら利害が一致するわね。信用するわ。アナベルは面白味のない女だけれど顔と身体は極上ですものね。ふふ。婚約破棄されたらロクな嫁ぎ先は見つからないでしょうから、あなたみたいな陰気な男のところでも喜んで嫁いでくれるでしょうね」
「……。では、あなたは王太子をきちんと攻略してくださいね」
「言われるまでもないわ」
「それは重畳です。では、口裏合わせは任せましたよ」
「うまくやるわ。よろしく頼むわね」
上機嫌でその場を立ち去るエリーナを見送りながら、黒いローブの男は「性格悪いヒロインだな。確かヒロインが悪役令嬢にざまぁされるのも鉄板だったよな……」と呟いていた。
◆◆◆
「エリーナ・カートレット男爵令嬢が聖女に認定された」
衝撃的なニュースが学園中を駆け巡ったのは卒業間近の雪がちらつく季節だった。
その頃には、イーサン王太子殿下がエリーナ・カートレット男爵令嬢と付き合っていることは誰も口にはしないが周知の事実で、その事実に嫉妬した王太子の婚約者のアナベル・ハワード侯爵令嬢がエリーナをいじめているという噂も学園中に広まっていた。
恋人のエリーナが頻繁に傷を作っているのを心配し、見かねたイーサンは幾度となく婚約者のアナベルに苦言を呈したが、アナベルは知らぬ存ぜぬを通した。
彼女本人には本当に身に覚えがないので当然なのだが、すっかりエリーナに攻略されているイーサンはそんなアナベルの面の皮の厚さに辟易としており、可愛い恋人を嫉妬心からいじめる婚約者を敵視し始めていた。
それでも、アナベルは聖女であるエリーナであっても敵わない程に王の妃として相応しい能力を持った人材であった。エリーナを聖女として王妃に据えるにしても、実務はアナベルに任せるのが現実的であった。
国にとって必要だからと涙を呑んで耐えていたが、そんな彼の堪忍袋の緒が切れるできごとが起こった。
エリーナが階段から突き落とされたのである。
打撲程度の怪我で済んでイーサンは心底ほっとしたが、下手したら命をも落としていたかもしれないと思うとぞっとした。
エリーナを突き落とした犯人はエリーナ本人が目撃していたことと、第三者の目撃証言もあったのですぐに判明した。アナベルであった。
賢明なアナベルがそんなことをするなんてと思ったが、これまでも散々エリーナを陰でいじめていたではないか、と思い直す。嫉妬に目が眩んだか。
それほどまでに思ってもらえて悪い気はしないが、嫉妬程度で人の命を奪おうとする程の大事件を起こしてしまう人間は、もはや側妃にも相応しいとは言えない。
イーサンはついにアナベルとの婚約を破棄し、多少、いや大分アナベルの実務能力には劣るが、アナベルを許してやってほしいと懇願する心優しい聖女一人だけを王の妃として据えることに決めた。
――そして舞台は王立学園の卒業パーティー、冒頭のセリフへと戻る。
「アナベル・ハワード侯爵令嬢、君との婚約は今日をもって破棄する!」
婚約破棄‥‥! エリオットは預言者なのかもしれない、とアナベルは別の意味で衝撃を受けていた。
イーサンのこの言葉をもって、アナベルの未来は既に決まってしまった。あとは彼の言い分を粛々と聞いて、エリオットとこの国を出るだけだ。彼は有言実行の優秀な従者だから、準備はすでに整えてくれているだろう。
アナベルは心の平静を保つように自分に言い聞かせた。
「かしこまりました。婚約破棄を謹んで受け入れます」
エリーナに嫉妬して命を奪おうとしたくらいだ。もっと抵抗すると思っていたイーサンは、アナベルの素直すぎる態度に肩透かしをくらっていた。
「……ああ。当然だ。そしてこの場で新しく私の妃、すなわち王妃となるエリーナに今までの不敬を詫びてもらおう。それからこの国を出て行ってもらう」
気を取り直して、イーサンはこの場でアナベルのエリーナに対する非道な仕打ちを暴露し、断罪することにした。愛しい恋人を痛めつけてくれた恨みは深いのだ。隣で恐怖に身体を震わせるエリーナの腰を抱き、『大丈夫だよ』と優しい言葉をかけることも忘れない。
「国外への退出は承知いたしました。ですが、申し訳ありません。エリーナ様に対する謝罪は致しかねます」
イーサンはその言葉を聞いて苛立った。
「言葉を変えよう。そなたの長きに渡る私の婚約者としての務めに対する労いの意も込め、これまでのエリーナに対する不敬を詫びれば国外追放だけで済まそうと言っているのだ」
「謝罪は致しかねます。私がエリーナ様に不敬を働いた事実はございませんので」
(殿下に嘘をつくことこそ不敬だわ)
アナベルは王家に忠誠を誓っている。忠臣なればこそ、その意に反してでも間違っていることは間違っていると奏上することも厭わないのだ。その結果処罰されようとも――。
「こちらには証拠もあるのだ。言い逃れができるとは思わない方がいい」
めでたい王立学園の卒業パーティーで、突如として始まった未来の国王による婚約破棄と元婚約者への断罪劇の行方を、周囲の生徒や教師たちは口を出すこともできず固唾を呑んで見守っていた。
「証拠などどこにあるのですか? 今ここで示していただきたい」
そこに割り込んできた怖いもの知らずは誰かと声の主を探して皆の視線が集まったが、視線を集めるのに慣れた様子のその男性は、まっすぐアナベルの元へ辿り着くと、膝を折って彼女の指先に口付けた。
「「エリオット……!」」
アナベルの呟きと、エリーナの叫び声が重なった。
イーサンはエリーナの突然の奇行にぎょっとしている。
エリオットはアナベルに向けて甘い笑みを浮かべたあと、エリーナに対し厳しい目を向ける。
「名も知らぬ女性に呼び捨てにされる謂れはない」
「……彼女が無作法をして申し訳ない」
イーサンは呆然としているエリーナを訝しく思いつつも諫め、代わりに謝罪した。
「不愉快ですがまあいいでしょう。謝罪を受け入れます。私はガルディニア王国の第二王子、エリオット・ガルディニアと申します」
そう言って美しい礼をした男に、会場の皆はざわざわし始めた。
「ガルディニア王国の第二王子殿下!?」
「現在、行方不明という話ではなかったか……?」
「ああ、噂に違わぬ美しさね……!」
「これを機にお近付きになれないかしら……!」
周囲の喧騒をよそに、アナベルはエリオットを見上げて固まっていた。
「エリオット……?」
それ以上言葉が続かない。アナベルにとって混乱して何を言っていいかわからない状態に見舞われるのは初めてのことであった。
「大丈夫ですよ、お嬢様。私がついております」
その言葉にアナベルは安心して、足から崩れ落ちそうになった。卒業パーティーで急に婚約破棄を言い渡され、身に覚えのない罪を認めて謝れと迫られ、それでも気丈に振る舞っていたが、もう限界だったのだ。
エリオットが来てくれたならもう大丈夫だ。
安心したら目に涙が浮かんできた。
エリオットはそんなアナベルを守るように背に庇い、イーサンに訴える。
「か弱い女性をこのような公の場で好奇の目に晒しながら追い詰めて。これこそ王太子殿下が非難していた『いじめ』ではないのですか?」
エリオットは今にも頽れそうなアナベルを支えながらそう断じた。
「これは我が国の問題だ。他国の王族であるあなた様が干渉するおつもりなら正式に抗議をさせていただきますよ」
「一向に構いませんが。この国の王となられるお方は随分喧嘩っ早いご様子。こちらもきちんと国に報告させていただきますね」
にこりと微笑んでエリオットが言うと、イーサンは羞恥に顔を赤くした。
「私は無関係ではないからここにいるのですよ。もちろん国にいる我が国王陛下には許可を得ていますし、貴国の国王陛下にも滞在許可をいただいていますよ。当然、今日この場に参加する許可もね」
王太子なのに知らないのか、そんな含みを言外に読み取ってイーサンは憤慨する。
プライドが高い男なのだ。
「全て父上から聞いている! だから、なぜ関係ないはずのあなたが私とアナベルの話に口を出されているのかを尋ねているのです」
かろうじて丁寧な言葉は使っているが、無礼な物言いはエリオットに対する苛立ちを隠しきれていない。器の小さい男なのだ。
エリオットは笑いを堪えながら質問に答える。
「それは、先程も申し上げましたが私に関係あるからですよ。私は今しがたをもってこちらのアナベル・ハワード侯爵令嬢の婚約者となったのですから」
「……! どういうことだ、アナベル! お前は私に隠れてこの男と情を交わしていたのか!」
イーサンは自分より弱い立場であるアナベルに問いただした。プライドが高く器の小さな男なので。
ちなみに、他国の王族を「この男」と称した不敬には気づいていない。
「違いますよ。婚約者がいながらエリーナ嬢と情を交わしたイーサン殿下とアナベル嬢を同列に扱わないでいただきたい」
「なんだと!?」
イーサンはエリオットの方に顔を向けて激昂する。敬語が抜けている。相手は他国の王族なのだが……以下略。
「そう。いまあなたと話をしているのは私です。アナベル嬢を不必要に威圧しないでください」
イーサンにこのように声を荒らげて怒鳴りつけられたことも、「お前」と憎しみを込めた口調で呼ばれたことも初めてだったので、アナベルは顔を真っ青にして、ぎゅっと目をつぶって一人恐怖に耐えていた。
「す、すまない……」
イーサンはアナベルのその姿を目にしてやっと我に返ったようだった。
「ええ。非常に不愉快ですね。私の可愛い婚約者をありもしない罪で裁こうとした上にこのように怯えさせて。可哀想に」
エリオットは震えるアナベルの身体をそっと抱き寄せる。もう婚約者なのだ。これくらいは許されるだろう。エリオットは幸せに打ち震えていた。
冷静に戻ったイーサンはエリオットに問いかける。
「その、アナベルがエリオット殿下の『婚約者』とはどういう意味なのですか? アナベルは書類上はまだ私の婚約者のはずです」
「いいえ。アナベル嬢は書類上でも正真正銘、私の婚約者です。人の婚約者を呼び捨てにするのは褒められた行いではないと存じますが」
「……アナベル嬢は書類上はまだ私の婚約者のはずです」
イーサンは言い直した。
エリオットは、他の女性と恋仲になっているくせに、婚約者への執着心をも垣間見せるイーサンが滑稽に見えた。
「もしイーサン殿下がアナベル嬢に『婚約破棄』を申し出るようでしたら、私が婚約者となれるよう手配をしてあったのですよ。イーサン殿下のご両親とうちの両親、アナベル嬢のご両親も了承済みです」
すべて根回しは終わっていたようだ。さすが頼れる従者、エリオットである。アナベルは頼もしい婚約者の腕から抜け出し、しっかりと自分の足で立ってイーサンに対峙する。
(エリオット、守ってくれてありがとう)
アナベルの目礼に応え、エリオットは蕩けそうな笑みを浮かべる。
周りの淑女たちはきゃあきゃあとちいさな歓声を上げていた。
「私もその内容で了承しました。王太子殿下が婚約破棄を言い渡されたその瞬間に、あなた様と私の婚約は効力を失い、私の婚約者はエリオット様になったのです」
それまで黙ってイーサンの影に隠れて成り行きを見守っていたエリーナが、ここで声を上げた。
(どうして!? どうして続編のキャラがいま出てくるのよ! エリオットは私の一番の推しだったのに……! いや、大丈夫よ、私はヒロインなのだから。エリオットを攻略すればいいだけのこと)
「エリオット様……! アナベル様に騙されていらっしゃるのではありませんか? 私、アナベル様に酷いいじめを受けていましたの。この間なんて、階段から突き落とされましたのよ。運良く命は助かりましたが……あんな悪意を向けられるなんて、私本当に怖くて……!」
エリーナはぽろぽろと涙を流してみせた。可憐な少女が涙を流しながら恐怖を訴える姿はその場に居合わせた多くの紳士の庇護欲を掻き立てた。さすがヒロインである。
イーサンは真っ先にエリーナを支え、慰めるように腰を抱いた。
「そうです。エリーナはアナベル嬢に階段から突き落とされたのです。エリオット様には申し訳ありませんが、アナベル嬢には罪を償ってもらわねばなりません」
「そうですか。では、私が納得できる証拠を提示してください。そうでなければ私も婚約者としてアナベル嬢に対する断罪をこのまま看過することはできません」
「証拠はエリーナの証言です。突き落とされた本人が犯人を見たと言っているのです。完璧に調査はしましたが、これ以上の証拠がありましょうか?」
「けれど、アナベル嬢はやっていないと証言しています。エリーナ嬢が勘違いしている可能性はありませんか? または、自作自演している可能性も否定できないのではないでしょうか?」
エリオットはこの事件の調書を見せてもらったが、お世辞にも完璧に調査されたものとは言えなかった。恥を忍んで見せてくれたこの国の国王陛下の苦笑いは記憶に新しい。
婚約者のアナベルにおんぶに抱っこ状態となっている王太子の資質に多くの者が疑問を感じているのだと、社会の縮図である学園での采配を見て判断することが決まっているので事態を静観しているのだと、そう話してくれた。
調書には、エリーナの証言を聞き、その内容の裏付けを取る努力すらせずに犯人はアナベルと断定された過程が記録されていた。イーサンは馬鹿なのか。まあ、アナベルのためにはその方がやり易いからいいことだ。そう思うことで溜飲を下げた。
イーサンは心底理解できないといった様子でエリオットを見た。
「階段から自分で落ちるなどという愚かなことをする人間がいるはずもない。下手をしたら命を落としていたかもしれない程高い位置から落ちたのですよ」
「ですから、そんな愚かなことをする程の理由がエリーナ嬢にあったのではないかと申し上げているのです。例えば、貴殿自身のことは私では判断しかねますが、貴殿の持つ『王太子』という地位には男女問わず魅力を感じる者が大勢いることは言うまでもなく理解されていますよね? ということは、王太子殿下の婚約者という地位も女性にとっては大変魅力的なものと容易に想像できます。その地位にあったアナベル嬢を排斥するために一計を案じたのではないか、という予想は一番に思い浮かぶ現実的な動機ですよね。王の唯一の妃となって全ての権力が自分の手に入るとなれば、自らの命をかけたとしてもなんら不思議ではない。その可能性は考えなかったのですか?」
実際、王太子の婚約者の座を狙う令嬢は多かったが、その予兆を事前に掴み、予兆で終わらせるためにアナベルは陰で奔走していた。
結果、イーサンはそのような女の戦いに表立ってり巻き込まれることは一度もなく、心穏やかに過ごせていたのだ。良くも悪くも全ては完璧な婚約者であったアナベルのおかげであった。
「……エリーナは聖女であり、王妃となるべく私が選んだ女性です。そのように利己的なことを考えるような女性ではありません」
イーサンは自らに言い聞かせるように言葉を紡いだ。問いに対して適切な答えになっていないことはわかっていた。
エリオットの言い分は尤もであった。今までそのような女性が現れたことはなかったとはいえ、その可能性を端から考えもしていなかったことが恥ずかしかった。
今回はイーサン自身が選んだ女性だからとアナベルはエリーナに関しては手を出さないことを決めていた。だからこそ起きた事件だったのだが、イーサンは真相に辿り着ける程の情報を有していなかった。
(私はヒロインなのに、なんでエリオットは私に靡かないの‥‥!? そうか、悪役令嬢がいるせいね。アナベルを断罪して退場させれば元通りのエリーナ中心の世界に戻るに違いないわ!)
エリーナはトーンダウンしたイーサンの態度を不思議に思うこともなく、腕をくいくいとひっぱり、控え目に主張する。
「イーサン様、確か私がアナベル様に突き落とされた瞬間を目撃した方がいらっしゃったはずですわ。当事者よりも第三者の目撃証言の方が信用されるはずです」
「そうだな。本当にそなたは聡明だ」
イーサンは半ば現実逃避しながら笑みを浮かべてエリーナの頭を撫でた。
先程のエリオットの発言を受けてエリーナを見る目が変わっている自分に気づいていたが、もう取り返しがつかない事態になっていることはさすがに理解していた。
もしかしたら自分は間違ってしまったのかもしれない。その事実を認めることはどんな結果に繋がるのか……考えるだけで恐しく、思いつく最悪の事態に顔が青ざめた。あんなに愛しく思っていたはずなのに、エリーナへの思いが熱が引くように冷めていくのを感じていた。
(あれくらいで聡明などと。エリーナが能力面ではアナベルの足下にも及ばないこともわかっているくせに)
エリオットはアナベルの努力も、イーサンへの献身も、一番近くで見守ってきた。だからこそアナベルを苦しめた二人が許せなかった。
完璧な婚約者であったアナベルの献身的な支援を甘受しながらもアナベル自身は蔑ろにし、その上エリオットにすら秋波を送ろうとする業の深い女性にうつつを抜かしていたのだと思うと虫唾が走った。
(もうこの余興も終わりだ。早くアナベル様を連れてこんな国出て行こう)
「第三者の証言ですか。私はその第三者からこういったものを預かっておりましてね。この会場で皆様に見ていただきたく持って参りました」
(あら。執事のセバスチャンだわ)
どこからか現れたハワード侯爵家執事のセバスチャンはテキパキと映写機を設置して、綺麗な礼をするとアナベルに目を合わせてにこりと微笑んで去って行った。
(セバスチャンがいるということは、やはりお父様も全てご存知のことなのね。エリオットを疑っていたわけではないけれど。このような不名誉、お父様たちにはどのようにご説明したものかと思っていたから安心したわ……)
アナベルが改めてエリオットの行き届いた心配りに感謝している間に準備は整ったらしい。これから何が始まるのかと若干わくわくした様子の生徒たちと、何が起こっているのか把握できていないイーサンとエリーナが困惑した様子で映写機の前に集まっていた。
「それでは、皆様こちらをご覧ください」
映写機に王立学園の階段が映る。エリーナがアナベルに突き落とされたと主張している現場となった場所だ。
「これ、王立学園の階段ですわね」
「エリーナ嬢が突き落とされたところじゃないか?」
ひそひそと様々な会話がなされる中、映像の中にエリーナと黒いローブを着た人物が現れた。
『あなた、ここから私を突き落としてちょうだい』
『エリーナ嬢、それはいくらなんでも危険です。命を危険に晒すような真似は私にはできません』
『だから、死なないように調節して上手く突き落としてと言っているのよ』
『そんなことは不可能です。階段から落ちるなんて危険な真似はおやめください』
『危険だから意味があるのよ。私がこんなに頑張ってありもしないいじめの証拠をでっち上げているのに、イーサンったら私を慰めるばかりでいつまで経ってもアナベルとの婚約を破棄しないんだもの』
『それはアナベル嬢があなたより優秀だからでしょう。彼女よりも勉強を頑張ってあなたの能力を認めてもらえば済む話では?』
『何言ってるのよ。そんな面倒臭いことできるわけないじゃない。そんなことしなくても今だってイーサンは私に骨抜きだし、聖女は国民の人気も絶大だもの。だから、罪を被せてアナベルさえ追い出すことができれば私はイーサンの一人だけの妻になれるのよ。そっちの方が簡単でしょう。ふふ』
『だからといって私にそのようなことはできません』
『何よ。臆病者ね。いいわ。私が自分で落ちるから、あなたは目撃者になってちょうだい。エリーナがアナベルに突き落とされるところを見た、って言うだけの簡単なお仕事よ』
『だめです、危険です!』
『うるさいわね、黙りなさい! あんたは目撃証言だけすればいいんだから簡単でしょう!? 痛い思いをするのは私なんだからね。わかった!? これは命令よ。逆らったらアナベルの命はないから』
『……』
『じゃ、そういうことでよろしく』
そこで映像は切れた。
その後のことはこの会場にいる全員が知っている。
みながおそるおそるイーサンとエリーナの様子を窺うと、二人は対照的な様子でいた。
イーサンは怒りを通り越して恥ずかしさに顔を真っ赤にしており、エリーナは茫然自失して真っ白になった顔から表情が抜け落ちていた。
「この、私を、侮辱するとは……!」
イーサンはエリーナを睨みつけていたが、エリーナは全てが白日の元に晒されて観念したのか、虚な表情で無言を貫いていた。
「これで私の婚約者の無実は証明されましたね。全てはエリーナ嬢の自作自演だったというわけです。証人はこの会場にいらっしゃる皆様全員です。本人の自白に大勢の目撃証言。誰も文句はないでしょう」
「待って! どうして!? どうしてエリオット殿下がこんなものを……!」
エリオットを諦めきれないのか、エリーナが真っ白な顔のまま必死の形相で追いすがる。
「決まっているじゃないですか。私の『推し』がアナベルだからですよ」
そっと囁かれたその言葉を聞いて、エリーナは察した。婚約破棄を手伝うと言ってエリーナに手を貸してくれた人こそがエリオットだったのだということを。
「あ。あ、あ、ああぁぁぁぁーーー!」
エリーナは欲をかいて自滅したことを理解して、絶望に突き落とされた。エリーナは大人しくしていれば、側妃のアナベルと夫を分け合うことにはなるが、間違いなく王妃になれたはずだった。
イーサンはエリーナの前世において二番目の推しであったが、実物を目にしたら思いのほか素敵だったので、この素敵な人と結婚できるのなら独り占めしたいと思ってしまったのだ。
欲を出してしまったがために、卑怯な手を使ってでもアナベルを排斥したいと願ってしまったがために、エリオットの逆鱗に触れてしまったのだ。
エリオットはそんなエリーナの様子を冷たい目で睥睨した後、一転満面の笑みでアナベルに優しく声をかけた。
「アナベル様。約束通り、私と一緒に隣国へ逃げましょう」
アナベルはかつて愛していた元婚約者に目を向けた。彼は婚約者であったアナベルを蔑ろにして、恋人を作ってうつつを抜かした挙句、その恋人の嘘を真に受けて、罪もない婚約者との婚約を一方的に破棄した上に捏造された証拠によって衆人環視の中断罪しようとしたのだ。
実は、アナベルにとってこのような待遇は初めてのことではない。
アナベルはもう、何度も何度も人生をループしていた。けれど、アナベルにとっての幸せが訪れたことは一度としてなかった。
もう、心は疲弊しきっていた。
アナベルが好きだったイーサンはいないのだ。
アナベルは何度も裏切られ続けた自分の恋心と、今やっと決別できる気がしていた。
アナベルは今日、人生で初めてイーサンから解放されるのだ。
一方、イーサンは『さようなら』と呟かれたアナベルの唇を読み、目を見開いた。
イーサンは確かにアナベルを愛していた。
けれど、愛してはならない立場であるのだと己を戒めていた。
アナベルとの婚約破棄は初めから決められていたことなのだから。経緯は決められていたものとは異なっているが、結果的には予定通りなのだ。
それなのに、実際アナベルに別れを告げられた今、裏切られたような気持ちになっている。この矛盾はどこから来るものであるのか、その正体を掴みかねていた。
「アナベル嬢……私の、妃に……」
イーサンは何を言ってもすでに手遅れであるとは理解していたが、それでも何か言わなければと震える口を動かそうとした。
ようやく出た一言は、自分でも不可能であると何度も確認して納得したはずのものだったが、一番叶えたい願望でもあった。
これは、アナベルへの恋情から目を背けるため、エリーナを利用した自分への罰なのかもしれないと思った。
婚約破棄をするにしても、もう少し穏便にできたかもしれないのに。婚約破棄をせずともアナベルを救う手立てがあったかもしれないのに。イーサンはアナベルとの未来を諦め、努力をせずとも愛を囁き寄り添ってくれる、心地よいエリーナの隣から離れられなくなってしまっていた自分を猛省した。
アナベルらしくないと思ったのに、なぜ、エリーナの言い分を全面的に信じてしまったのか。なぜ、アナベルを責めたてるようにしてしまったのか。なぜ……
今になって反省しても遅いというのに、後悔ばかりが頭を巡る。
イーサンの口から思わず零れ落ちた切なる願望は、掠れていて聞き取れる状態ではなかったのが救いだったかもしれない。
アナベルに追い縋るようなその呟きが彼女の耳まで届くことはなかった。聞こえていたら、エリオットが激怒していたであろうことは想像に難くない。
「はい。エリオット様。約束通り、私を連れて行ってください」
アナベルは、何回目かもわからない繰り返しの人生の中で、やっと現れてくれたエリオットの手を取った。
エリオットとアナベルは、お互いを見つめて微笑み、幸せそうに会場を去って行った。
◆◆◆
実はエリオットは隣国の女王陛下とこの国の王弟殿下との子であり、この国でも王位継承権があることがわかった。
イーサン王太子が廃嫡されたため、エリオットとアナベルはまたこの国に帰ってくることになるのだけれど……それはまた別のお話。
Fin.
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