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「嵐が丘」はヒースクリフという悪漢が暴れまわる小説で、彼は最愛のキャサリンを手に入れようとするが手に入れられない。そこで彼は復讐の鬼と化して、一つずつ計画を実行していくが、望みは果たされず、最後に死ぬ。しかし、魂は死後に、既に亡き者になっていたキャサリンと一緒になった事が暗示されて終わる。
エミリーの詩を見ると彼女の哲学が微かにわかるが、彼女は死を救済と見ていた。死とはヒースの野に還る事であり、魂が自然に還り安らぐ事だった。
そこから逆算した時、生とはなんと厭わしいものであったか。絶えず病の影に付きまとわれ、田舎牧師の家に生まれ、現実そのものが閉ざされ、若年の内に死ななければならないと感じている精神ーー彼女からすれば、死が救済に感じられたのは当然であろう。その観念は私には、ヒースの野を犬を連れて歩くエミリー・ブロンテの姿と重なって見える。
作中、ヒースクリフはキャサリンと自然と一体になって転げ回っていた過去、そこから引き剥がされた事への恐ろしく強い怒りを持っている。この怒りをエミリー・ブロンテは自身の中に内蔵していたのだろう。死から、自然から見た時、生とはただの宿痾である。癌である。死=自然から引き離された生が、同じように一体だったキャサリンという相手を求めて、再び自然=死に還ろうとする物語に、エミリー・ブロンテの哲学があると私は感じる。
死=自然から引き剥がされた生は、現実には強い怒りとなって現れる。ヒースクリフの無尽蔵の怨恨の正体はそれである。生そのものが、彼には楽園喪失であり、安らかなものから切り離された悲しいものであった。その怒りが復讐につぐ復讐へと変わっていく。ヒースクリフにとって従って、死とは幸福であり、彼は自らの生を滅ぼし尽くした後に、自身の幸福を感じる。だが、それは死後であるからーー魂はヒースの野辺に、キャサリンと共にさまようという描写になっていく。
トータルで見るなら、「嵐が丘」には死から見た生の光景がある、と言えよう。死=自然から見た時、生は厭わしいものであった。復讐によって償われるものだった。キャサリンがヒースクリフを裏切るのは利害故である。だからこんな風に考える事もできる。子供の頃、自然と一体になって転げ回っていた世界、ヒースクリフ、キャサリン、ヒースの野は全て一体となって幸福だった。これが断ち切られるのは、大人の世界、つまり利益、利害の概念によってである。というのは、キャサリンは利益と打算の為にヒースクリフを捨てるからだ。大人の世界の論理が導入され、三者は切り離される。そこでヒースクリフはそれら全てを取り戻そうと、悪の権化に変わっていく。
エミリー・ブロンテにとって生は厭わしいものだった。彼女は牢獄の中に生きるようにして生きていた。そうした彼女が文学書を読み、想像力だけを深く持つ羽目になり、そうしてその全て、彼女の持てる物全てを作品に吐き出した。女である事、それ故に社会から疎外されていた事が作品内世界を掘り下げるのに役立った、という風にも言える。私は同じタイプとして、日本の紫式部を思い出す。紫式部もまた当時の社会で、豊かな教養と知識を持ちながらそれを実生活で発揮する機会を持たなかった。そこでエネルギーはフィクションに注がれる事になった。やがてフィクションは現実に戻ってくる。つまり、彼らはフィクションを通じて、現に生きている我々とようやく面会するのである。