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バッハに話を戻そう。バッハは、神を信じているという点では当時の常識人だった。彼は革命家ではなかったし、そうなる必要もない、という幸福の中にいた。そういう言い方をするのであれば、教会が信じていた神とバッハが信じていた神は同一だったのである。そこにおいては矛盾はなかった。この点は重要だと私は考えたい。
一方で、バッハの天才性は、神への奉仕に対する形式に現れた。バッハの天才は、社会の在り方と矛盾した。実際、バッハは「奇妙な演奏」を上司から咎められている。もちろん、今の我々からすれば、バッハがそこでおとなしく引き下がっていれば、彼は我々の知るバッハではなくなったはずだ。彼の天才性は当時の水準を抜いたその変奇性に現れていたのだから。
当時の社会がどのようなものだったのか、私も詳しくは知らないが、バッハの天才がそのように当時の社会的要求と矛盾したからと言って、バッハが破門されるという事もなかった。彼が音楽を失う事を社会が強制するという事もなかった。もっとうるさい社会、強固な規範社会であれば破門されたはずだ。だが、そこまではいかなかった。ここに自由と秩序の調和的な関係があったと一応考えてみたい。
つまり、バッハは神を失う事はなかったし、信仰が消えた事も一度もなかった。これは当時の常識と同一であり、そこに一致するものがあった。ただ、その神に対して、どのような形式で接近していくのかは、ある程度まで個人の自由が許されていた。だからこそバッハは己の能力の全てをあげて、神に対する偉大な讃歌としての音楽形式を作り上げた。そこでは、本質は同一だが形式には自由であるという一芸術家の姿が見える。この時、神は分裂していなかったのである。
この時、バッハは己の孤独の中で神に対する讃歌を作り上げた。…だが、我々に彼の孤独の相貌は見えない。厳密には、その時、彼は孤独ではなかった。つまり近代以降に現れるようなタイプとしての「天才の孤独」は存在していなかった。彼が自分の能力が正当に評価されていると感じずに済んだのはその為である。
バッハは神と直に繋がっていた。それはとどのつまり、彼が信じていた神が、当時の社会が信じていた神と同一であり、そこにバッハの幸福がある。バッハが孤独を感じずに済んだのは未だ神が単一だったから、と言う事もできよう。とすると、その後の、天才らの相互対立、例えばゲーテとベートーヴェンのような関係というのは分裂した神同士の関わりと言えたのではないか。つまる所、神もまた人間が創り出したものであるし…信じるものが一つでなくなった時、人々が各々の魂にそれぞれの神を磨き上げて創りあげたというのはわかりやすい点でもある。だが、そうした「人間性ーー神」の近代的天才達も、今から考えると、旧時代の論理や倫理の形式を利用しつつ自らを創り上げていたのだった。