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私はバッハの事を考えたい。
饗庭孝男のバッハ論を鵜呑みにして考えていくが、おそらくバッハは、プロテスタントの最良なものを代表しているのだろう。
バッハの音楽を聞いていると、荘厳、という感情が湧いてくる。それはロマン主義とは異なるものだろう。自我に囚われずに済んだ最後の偉大な才能がバッハだったという気もする。
言葉を変えて考えてみよう。バッハは近代が生み出したような概念としての「天才」ではなかった。バッハは今では大音楽家として知られているが、彼は自分が実力以上に評価されていない、などと悩む事はなかった。それは近代以降の悩みである。
バッハは神を信じていた。それが、今の我々には逆に感じられる。「神はその存在の多くをバッハに負うている」 …シオランの言葉は、まさしく現代から見た神の姿である。逆に言えば、我々が「神」に出会いたければ、芸術という迂路を通るのが遠いように見えても近道であろう。芸術はかつて神に至る為の手段だった。その後、手段が目的化され、更にその手段である芸術そのものも、社会や科学や経済の為の手段となった。こうして、神ーー芸術ーー人の幸福とも不幸とも言える関係は消失した。
バッハは神を信じており、それは私にはある共同体に属していた、という風に感じられる。よくも悪くも、天才の苦悩と悲劇をバッハは辿らずに済んだ。それは彼に天才の自負がなかった事と一致している。
バッハと比べた時、ニーチェやベートーヴェンはいかに苦しんだ事だろう。神なき後、己のみを頼りに何かを作り上げなければならなかった天才の姿がそこにはある。それでも、それはおそらく、ヨーロッパのブルジョワ的空間の中でありうべき形を取れたのだった。孤独と苦悩もやがては、それを理解する人間が現れると信じる事もできたし、そういう仲間も一応はいたのだ。
バッハがプロテスタントの最良の部分を代表する、とは私には秩序と自由のある調和として考えられる。この問題についてあくまでも恣意的に考えたい。
饗庭孝男の線で、プロテスタントは聖書に直接に解釈を施す存在として考える。…知っての通り、そもそも宗教とは上から下に降りてくる倫理であり、人間に対するある制限である。だから、強固な宗教共同体においては様々な規則・規範が強烈に機能し、自由はなくなる。
芸術は全く自由がない所においても死ぬが、同時に、完全な自由においても同様に死んでしまう。芸術そのものはそういう微妙な生物体としてイメージできるだろう。
宗教があまりにも強すぎると、制限が強すぎる為に芸術が生まれる自由がない。戒律であらゆる形式が制限されてしまえば、そこに芸術家の個性は現れ得ない。そういう意味では、ソ連や共産主義の強い中国などは、強固な宗教が支配した共同体と見た方がわかりやすい。それが正しかろうが間違っていようが、いずれにしろ、一つの支配的な形式が上から制度として強制された時、芸術家は、自らが自由に扱う物性(形式性)を失ってしまい、芸術家たる事が不可能になってしまう。現れるのは制度や秩序に奉仕する存在としての芸術家、つまりは、社会の一機構と考えた方がわかりやすいあるグループでしかなくなる。彼らを扱うのは批評家の仕事ではなく、歴史家か社会学者の仕事だろう。
一方、あまりにも自由がありすぎても、芸術家は何を表現すべきかわからなくなる。これは現在の有様が映し出している。従って、逆説的に、日本社会の著しい劣化は、来たるべき優れた芸術家を用意していると言えるかもしれない。社会の諸部分に制限や拘束が目に見えるようになってきたが為に、芸術家が己の力を発揮する場も現れてきていると見る事もできるだろう。拘束がなければ、自由への渇望は、行為(作品)としては現れ得ない。英雄的な死も、それを発現できる場がなければならない。