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我々が希望を持つ事ができるのは、芸術によって恒産を為した人が過去にいるからではない。やった所で無益な芸術という虚構に命を掛けた先人がいるからである。
思えば、実に多くの芸術家が、死の運命から自身の霊感を引き出していた。死とは言うまでもなく、実人生が、したがって現実が無意味になるような運動である。だが、多くの芸術家が死に近づくにつれて、自身の芸術家としての能力を増していったーーというのは、そこで彼にとっての世界、現実は閉じて行き、代わりに、内部的な世界が広がったからである。
俳人の芭蕉は、西行を尊敬していた。芭蕉の旅はただの旅ではなく、旅に死ぬ事を夢見た旅だった。つまりフィクションであり、それ自体が虚構であったと言っていい。この虚構、嘘を本物にする支点はどこにあったか。それは芭蕉その人の老躯、その実存であろう。その死を覚悟した旅が、俳句を芸術として自立させるに至った。
世界は主体の有り様とは全く違う在り方で存在する。個が個として、自己を認識する時は必ず、世界に対するある種の無力として感じられるのは、それが個であるという必然に尽きている。なぜなら世界を動かすには集団でなければならず、集団であるには不満足な精神こそが個となるからだ。
個として、一人の実存として芸術に赴くとは従って、自らの実存を掛け、死の運命を甘受する事でもある。死を甘受するのは、それが個体であるからであり、世界に溶けている個体は、世界に包摂されるが為に死を経験しない。死は、全体の中の部分を殺すかもしれないが全体は殺さないと感じられるからである。だが独立独歩の人間は自らの死を感じる。英雄が、悲劇的な死をたどるのは当然である。それは自己という存在をあまりにも強固に打ち立てたから起こる、必然的な推移であろう。