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 現在に目を向けると、マルクス主義活動などとうの昔で、まるで関係のない事に見える。だが、言葉が変わっただけで、今も同じものが継続しているように感じられるし、また継続するのは必然であると感じる。つまり、民衆のための芸術、という言葉が、大衆のための芸術、という風に変わっただけではないのか。芸術は今や大衆の「ため」にあり、それは資本主義と融合し、それぞれが大衆に対して「開かれた」姿勢を堅持している。開かれているからこそ閉じたものに目を向ける人間は世界から疎外される、というのがこの世界の特徴にもなっている。

 

 小林秀雄は「芸術とは実人生から見れば屁のようなものである」という事を率直に認め、そこから見える芸術の本質を重視していた。それが若い頃の正宗白鳥との論争に繋がっている。

 

 小林の言葉は今にも、昔にも通じるのだが、今を生きている人間はそんな風には感じない。問題は既に終わった、消化された、と考える。例えば、マルクス主義という運動が過去の運動で、自分達とは何の関係もない、という風に。

 

 確かに、芸術とは実人生に比べた時、屁のようなものであろう。この点において憤る人間はおそらく何かを勘違いしている。こういう疑問に対して、「いや、芸術は社会や経済に貢献している」と反論する人は、知らずに芸術を誹謗しているのだが、その事に気づかない。気づかないという事に現代の誤ったオプティミズムがある。

 

 コロナウイルスの騒動の際、ある歌手に「お前達は歌って踊って国民を楽しませてればそれでいいんだ」というコメントが届いたそうだ。このコメントに対して、芸術を擁護する大層立派なコメントが多数ついただろうが、私は全く逆の事を考えたい。

 

 芸術とは確かに、実人生から見たら屁のようなものである。コロナウイルスが広まる、というような緊急事態が起きれば、所詮は虚構でしかない芸術よりも実際の現実における対処、方法などを重視するのは普通の活動とも言える。

 

 かつてマルクス主義運動が盛んだった時も、芸術はマルクス主義という現実的変革運動の風下に立たされた。俺達は現実の変化の為の闘士なのに、なぜお前達はそんな空疎な、文学だの芸術だの、音楽だのを弄んでいるんだ。そんなのはただの遊びだ、大切なのは現実であり、虚構ではないーーこの声の在り方が、先の歌手に寄せられたコメントとよく似ているのは偶然ではない。芸術は所詮、嘘でしかない。だから、非常事態においては、「国民を楽しませる事しかできない」。

 

 今はまだ極端な非常事態ではないが、事がもっと激しくなればこうした声はもっと大きくなるに違いない。国家の為の芸術でなければならない。社会の為の、経済の為の芸術でなければならない。また、芸術家も経済的利得を稼げるようにならなければならない。こうした至極もっともな正論が裏側から芸術を鎖に繋いでいる。私はその事を考えてみたいが、この事を考えるというのは必然的に我々が繋いでいる鎖に目を向ける事でもある。そしてそれに目が向けられた時にやっと、虚構としての芸術が本物になる契機が出てくる。

 

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