表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/10

10

 では現在、我々はどうすればいいのか。

 

 「大衆・資本主義・共同体」との一致に安らぐ事が最も大事だと感じられる、常識に安息している人々(彼らは安息しているが故にあえて新奇性を持ち出し、小手先の差異や革新を気取るのだが)にとってはこのような問いそのものが馬鹿げたものに見えるだろう。だが、彼らはその代償として、つまり時代に同衾した結果として時代が去れば一緒に流れ去る事になる。彼らがそうした運命を自覚し、その自覚を表現に持ち込む事があればまた違った道筋も見えたろうに。

 

 こうした問いを発するという事はそれ自体、自分の居場所を指し示す事になる。しかし人は一人で共同体も、歴史も、神も作り上げる事はできない。オイディプス王のように…自らの運命を認識し、自己を破壊する事、その程度が最大の意志に過ぎぬのかもしれない。神は内部にも外部にも存在する。それが感じられぬのは、自己が存在しない為に神と一致している、つまりは神を信仰する事も、神に逆らう事も知らない、そういう、いわば、安らいでいる「同一者」そのものだからだ。

 

 私は「神」という言葉を繰り返し使ったが、神は抽象的で対象的なものであると同時に歴史的なものでもある。どんな天才も歴史を一気に作り上げる事などできない。小林秀雄が晩年に「自分は西洋の事がわかっていると思っていたが、わからない事がわかった」と言っているのはそういう事だろう。自分の中の生理的感覚そのものを作り上げるのは誰にもできない。自分の深層を手ずから作った天才など一人もいない。各々、できる事をしただけである。そして天才には歴史の風が吹いていた。逆風の場合には、新たな天才が出てくる為の礎になるのが精一杯という所だろう。

 

 日本における「知識人」が苦闘の結果、何故、伝統に還っていったのかもこれで理解できる。彼らは自分の中の生理的感覚そのものを作り上げる事が不可能だと悟ったのだろう。また、頭脳で理解した「西欧」の概念が、自分の深層に落ちていく時、それが自分の中にあるものと相容れぬとわかったからだろう。(例えば、内村鑑三なども、あまりにも武士道的にキリスト教を理解していると言えるかもしれない。ただ、こういう風に伝統が共鳴する箇所では、有効な理解が成り立つとも言えるが、この場合も伝統そのものを一から作り上げる事はできない)


 さて、私はこういう事をつらつらと書いてきて一体何が言いたかったのだろうか。

 

 はっきりしている事は私は孤独であり、またそれ故の幸福も享受しているという事である。これについてはあれこれ言うつもりはない。

 

 それ以上に大切な事は私自身の限界がはっきりと見えた事だろう。それを宿命と呼ぶ事もできるだろうが、そうした宿命は自己の意志の先にある。人為的な努力の先にあるもので、「私」がそもそも「私ではないもの」によって作られているという経験だろう。

 

 ギリシャ悲劇においては、人為の先に神の掟があり、それは主体の意志を貫徹させる事によって始めて露わになるのだった。我々の風土においては、主体の意志は、共同体の掟とまったりと溶け合い、空気・場となって一体化されるのが理想とされている。そこでは対立の止揚のようなものが起こっているが、同時に、もやもやとした霧に包まれている。私も反逆的な事を書いてはいるが、私もまた自分の存在の根に反逆する事はできない。私はきっと日本人なのだろう、という風にも感じる。また、普遍性とは、結局、ある集団が自らの主体性を貫徹させて現れたものであって、数字や物やコミュニケーションに飛びついていきなり普遍性が現れるというものでもない。我々は、普遍性についても断念さねばならないのだろうか?

 

 こうして考えてくると、自分の限界というものがはっきり見えてくる。認識は、自分自身の限界を最後に照らすはずであり、認識の限界そのものも照らすだろう。私は敗北者としての人生を送るだろうが、それはある意味、日本の伝統に則っていると言えなくなもない。一人で、対象化された神を作る事が無理である以上、自らの敗北を見つめ、その道を歩いていく他ないだろう。

 

 …また日本の天才が、一人の人間としては、奇妙なほどに神格化されるのも、今まで言った日本的特質が表現されているのだろう。私はそこには何かが足りないような気がしているが、それを埋めるだけの能力は私にはない。ただ、私の頭には時折、ヒースの野を歩くエミリー・ブロンテの幻影のようなものがよぎっていく事はある。幻影の方が現実なのか、それとも今生きている私が現実なのか、ふとわからなくなる時がある。そして、そういう幻影を現実に映し出す機会ももうそれほど残されていないだろう。

 

 世界はあるようにある。そこで、一人の人間は自分を感じながら死んでいくが、その代償として彼は、もう一人の自分自身を見る。それは彼が見る最後の幻影となるだろう。それは神から離反したものが見る最後の幻影であるのだろう。

 

 私は、結局、日本の知識人の運命は明治・大正からそれほど変わっていない気がする。太宰治を「弱さ」故に自死したと見る事もできるが、その自死は、例えば北村透谷の自死からずっと連続しているように感じる。自分の中に閉じこもった偏屈な永井荷風や伝統に回帰した小林秀雄や谷崎潤一郎など…結局、大きな物語はそれほど進行していないように思われてならない。そうして、この物語を感知しない人達だけが世界の表面で馬鹿騒ぎを繰り広げているように思う。いわばここは深海の底であり、ここに流れる音楽は聞く耳がある人だけが聞くであろう、という風に感じられてならない。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ