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文学という領域においてマゾヒズムというものは興味深い、とミシェル・ウエルベックが書いていたと思うが、確かにそれはそうだと感じる。マゾヒズムというのは自己自身が倒れる事を認識するという認識能力である、と考えてみるなら、そこに運命の受容という問題が現れる。
人間は新しく自分自身を発明する事はできない。それは無理であって、白紙の上に何かを書きつけて現れてくるものではない。理性や意識の奥底にあるものを覗くと、理性的判断もまた理性的でないものによって作られているという事が見えてくる。だが、それが見えてどうなるか。見えたからどうなのだ、と言えば、ただ結論は受動的なものに走っていく。つまり運命の受容である。
人間は時代を生み出す事はできない。社会を生み出す事はできない。社会を生み出す事ができる、と集団的な行動の中で、その行動と個人の意志が合一していると信じられる部分では可能に見える。しかし、その内部においては個は現れない。私が常に気になるのは「個」であって集団ではない。勝つのは集団である。それは間違いない。だが、敗北はもう一つの変形した勝利ではないのか。この問いの中に我が近代文学は現れる事になった。
マルクス主義活動家の宮本顕治は芥川龍之介の小説を「敗北の文学」と切って捨てた。宮本は太宰治の作品も否定している。こうした路線における否定…つまり、文学よりもそれを上回る現実の重視、現実の変革、現実の変容に対する参入、それらを所詮、虚構でしかない芸術よりも上位に置く。問題は歴史的に既に終わったマルクス主義だけではないはずだ。問題は、現実に芸術が屈従する事が今や普通である事ではないのか。だが、この点に楔を打ち込む人間はいない。現在、文学は存在しないからだ。