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理屈家と悪魔

作者: シャット

 法城(ほうじょう)愛理(あいり)は理屈を好んでいる。



 一般の小学五年生とはかけ離れた落ち着きの下、理論と合理を行動規範に、生活から無駄を省いている。


 徒歩での登下校の最中に予習復習を欠かすことなく、授業を余さず吸収するため一分の隙なく集中し、休み時間には可能な限り課題や宿題を進めている。


 給食を速やかに完食したのち、あるいは放課後、時間が許す限り図書室に籠もっている。

 さまざまな本や文献を読み漁り、知識の幅を広げる一方、時間管理も怠ることなく下校する。


 特売の利用は不可欠。価格の暗記は前提だ。

 単に最安であるだけでなく、個々の食品で作りうる献立のコスパも考慮して、一任された予算での最適解を模索する日々。


 学業にも生活にも最善を尽くして帰宅すると、父親のいない家庭の家事を手伝うことに従事する。



 法城愛理の優先順位は明確だった。

 必要に応じて、人間関係その他は不要と諦めていた。


 だから、必然だったのだ。


 願いを叶える悪魔とやらが姿を現した、その日。

 代わりに最も大切なものを奪う、と言い放った日。


 少女の返答は必然だった。


 法城愛理の優先順位が明確なのは、彼女にできることが有限でしかないから。自身の価値基準の下、為すべきことを為し、不可能なことは切り捨てるだけだった。

 対して悪魔の判断基準は、少女の知るところではない。宙に浮き微かに透けて人間離れしたその姿を、理で語れるとは思いがたい。そして、意に沿わない犠牲は避けたかった。

 だから──、



「最も大切なものというのは、どのように定義されますか?」



 根底から認識を確認するための不器用な反問は、法城愛理の必然だった。



   ◇



 屁理屈だとは自覚している。穿ちすぎだとも自認している。逆張りのようですらあると、自嘲もしているかもしれない。

 それでも考えなくてはならない、そう思うから考える。

 大切なものとは何か。大切であるとはどういうことか。


 法城愛理にとって、最も大切なものは何か。


 たとえば彼女は家族を愛している。その生活を支えるために時間を費やしている。

 それは間違いない、けれど。

 しかしそのとき、「最も大切」に該当するのは誰だろう。

 母親か妹か。二人の弟のどちらか。あるいは弟妹という集合か、家族という総体か、それ以外のものなのか。

 この時点で少女には判断がつかないが、加えてこれは悪魔の出題だ──すなわち、その「最も大切なもの」は、願いの代償として奪われることになる。


 誰とも何とも知れないが、仮にそれが人であるとして。当該人物を奪うとは、どういうことなのか。

 その命を奪うことか?

 相手に関係する記憶を奪うことか?

 前者は論外だし、後者でも困る。彼らの記憶が失われることは、彼らのために生きてきた数年が失われることに等しい。


 それほどの犠牲を払ってまで願うことなど、ない。

 そもそも何が代償となるかも定かでない。


「要するに、契約成立の余地はありません」


 法城愛理はそんな推論を、悪魔の反駁を待たずに語った。

 悪魔に願って得をするには代償を上回る願いでなくてはならないし、彼女にそれほどの野望はない。

 願わない代わり、犠牲も出さないことが最善で間違いない。


「ですから、お引き取りください」


 愛想で笑って頭を下げて、それで終わりと彼女は思った。

 突如訪れた非現実的な非日常との縁は、切れるはずだと。


 けれど、悪魔は困っていた。

 困るというのは人に模した表現でしかなく、対応の術がないというか、適切な応答が定まらない、という形容がより客観的だろうか。


 悪魔を動かす道理を彼女が知るはずもないのだが──願いを叶える悪魔にとっては、ヒトの願いを叶えるのが日常だった。

 人間の感覚に寄せて説明するなら、願いと代償の契約によって得られるエネルギーを糧に、その悪魔は存在している。

 一度の契約で得たものが失われるまで、人界に干渉することはない。稀に人前に現れるときはその願いを叶えて、すぐに姿を消す。


 願望の成就と同時に人界を離脱するように構築された機構だ、と表現してもいい。

 そのような挙動しか経験したことがないのだから──それ以外の挙動をするようには設計されていない。


 悪魔の論理(バグ)を言い換えるならば。


 願いを叶える悪魔は、ヒトの願いを叶えなければ、その人間を離れることができない。

 だから悪魔は、人並みに困っているのだと──少女はすぐに、知ることになる。


 かくして。

 願いを持たない少女と願いを叶える悪魔の、奇妙な共同生活が始まった。



   ◇



 それから、一ヶ月。

 願いを叶える悪魔が観測した限りでは──


 法城愛理は、理屈を好んでいる。

 合理を偏愛していて、()()()()()()()()()()()()()


 登下校の時間や業間も学習に割き授業に集中するのは、学生という立場に与えられる教育を最大限に享受するため。

 図書室に通い見識を広げるのは、社会制度や法を知ることで家族の損を避け利を得るため。

 特売を積極的に利用するのも、家事に励むのも、何もかもが家族のためで。


 そして──その目的に、彼女は含まれない。


 法城愛理の合理性は、彼女自身の利益を重視していない、と悪魔は推定する。

 そうでなければ、あまりに自罰的で。

 異様に献身的で、非常識なほど利他的だから。


 人間の常識を悪魔は知らない。

 父親のいない法城家に思うところはない。

 しかし利己的に人間を利用することが常の悪魔にとっては、法城愛理にとっての合理は充分に異常だった。


 だから、なのだろうか。


 願いを叶える悪魔が彼女に些細な干渉を始めたのは、興味を抱いたから──というのは人間的に過ぎる。

 刺激に対する応答を参考に法城愛理の人間性を測るため、と形容した方が、より悪魔的と言えるだろうか。

 いずれにしても、本当に些細なことだ。


 いまの悪魔は実体を持たない。少女の脳内に直接話しかける程度の能しかない。


 だから、尋ねた。


 この行動の理由は何か。その単語はどういう意味か。あの人物をどう思うのか。

 悪魔にとってはどうでもよくて、だからこそ人間にとって何なのかを探ることに価値のある、数々の疑問。


 対して、人間は困った。


 非現実の実在を完全に信じたわけではなくとも、悪魔を名乗る存在の言葉を無視する勇気はない。

 しかし、願いを叶える悪魔を認識できるのは彼女だけなのだ。


 普通に返答したなら独白する狂人と化すことに気づかないほど愚かではない。けれど法城愛理の日常に余暇はない。

 だから、必然的に他の行動を削らなければならない。


 図書室に寄る時間が最大の犠牲だった。

 昼休みの屋上とか、放課後の町外れとか、人気のない場所を探した。


 嫌々ながら、質問へと応答したことがあった。

 災難と思いつつ疑問に応じたことがあった。

 呆れ半分で話したことがあった。

 苦笑交じりに雑談をした。


 悪魔と話すことが日常になってくると、他の悪魔との区別が面倒になった。

 願いを叶える悪魔だからデザイア。

 端的で明瞭なネーミングではないか、と彼女は自負している。


 それを、仲良くなったと言っていいのかはわからない。


 所詮は悪魔と人間だ。法城愛理の自由時間が縮んだことに変わりはない。

 図書室に寄らなくなってから久しい。他者の接近に慌てて黙ったことも少なくない。


 彼女の人生にデザイアという悪魔が混入したこと。

 それが厭なのかといえば、そうでもないのが不思議だった。


 客観的には無為な時間だ。虚空に話す少女の図でしかない。

 そして主観では自明に不合理だ。法城愛理の本懐ではない。


 けれど、厭とは思えない。

 デザイアのことを嫌いになれない。


 悪魔の側も同様だった。


 願いを叶える悪魔の生態に恥じる現状。願いと無関係な質疑応答に終始する毎日。

 少女と違う人間に願いを尋ねていたら、果たしてどれほどの代償を得られていたことか。


 けれど不思議と、彼女を離れることを優先できない。

 離脱のため、無理に願いを叶える選択肢を選べない。



 その感情を、いまの法城愛理は知らない。

 悪魔のデザイアにヒトらしい感情はない。



 互いと過ごす毎日に何を思っているのかを互いに自覚しないまま、時は流れていく。



 法城愛理は小学六年生になった。


 同じ学校に通う弟妹が増えて、彼女はさらに忙しくなった。けれどデザイアと話す時間は減らなかった。



 法城愛理は中学一年生になった。


 悪魔の美的感覚は人間と隔たっていて、少女の制服姿を測れない。そのことを少しだけ、残念に思った。



 けれど。

 この日常が長続きしないと悪魔は知っていた。



   ◇



 法城愛理が昏倒して病院に搬送されたのは、中一の夏のことだった。



   ◇



 願いを叶える悪魔が願いを叶えないままでいる状況は、単に不自然というだけでは収まらない。本来なら願いを叶えることで得ていたはずのエネルギーを、なかったことにできるはずもない。

 代わりに何が失われていたのかは、破綻した現在には明らかだった。


「一応、ちゃんと寝てはいたつもりだったのだけれど……」


 過労と診断され、病室に寝かされた彼女は苦笑する。


 おそらく一般の人間が想定する以上に、法城愛理は睡眠時間をきちんと管理していた。

 普通の人間が生きていくために必要な睡眠とされている時間を調べ、毎日欠かさずほとんど等しい時間の睡眠をとっていた。


 彼女の偏執的な合理性は、デザイアの影響さえなければ、今も実を結んでいたかもしれない。


 悪魔を存在させる代償に、法城愛理の身体はある種の生命力を消費しつつあった。現代医学にはそれを観測できないためか過労の診断となったが、体力を奪った張本人──ならぬ悪魔には、原因が自身であることは明らか。

 仮に睡眠時間がもっと長くても、体力の上限が日々削られていくようなものだから、いつかは破綻していただろう。


 そのことを告げられても、少女は肩を竦めるだけだった。


「昔の法城愛理なら、こういうときはどうしていたのかな」


 独白の形の疑問に、悪魔は思考を巡らせようとした。

 人間の思考に対応する演算の実行には、判断材料が足りなかった。

 願いの成就をあの日の彼女が拒絶したことが、悪魔の想定外だったように。


 デザイアには法城愛理の行動原理がわからない。


 願いを叶えることには代償が伴う。叶えなくても、別の代償がやがて破綻に繋がる。どちらを選んでも後がない。

 合理的に詰んでいる、この状況で。


 合理が道を拓けない状況で法城愛理を動かす、彼女の根幹にある心理──その感情を、デザイアは知らない。


 だから尋ねた。

 これまでの日々と同じように。


「合理的であるというのは、誰にとっても正しいことだから。同じ理を辿りさえすれば、誰でも納得できる思考だから。

 ──なんて返答を、求めているわけではないよね」


 デザイアは肯定する。

 それは単に、いまの彼女が合理的思考を信頼する理由に過ぎない。

 法城愛理が合理性を信頼するようになった経緯を──その契機を理解するには、充分ではない。


「別に、たいした理由でもないけれど──」


 そう語りだす彼女の姿は、どうにも生気が欠けているように錯覚させられた。

 病身と病衣では、説明できないほどに。



   ◇



 それは、法城愛理の原風景の話だ。

 彼女の記憶にどうしようもなく焼きついた光景。



 酒に酔って母に家族に、殴りかかる父親の姿。


 感情と衝動に任せて暴力を振るう、その醜悪。



 母親や弟妹や自分を暴威が襲うことへの、恐怖や苦痛以上に──何よりもその光景の醜さが、法城愛理の人間性を彫塑した。



 暴力経験に伴う恐怖が自身を歪めたわけではない、と彼女は思っている。

 それは根拠のある自己認識だ。


 たとえば、それは休日に、消し忘れて垂れ流される地上波が刑事ドラマを映すとき。

 暴力や流血や悲鳴、そのものは平然と受け止めていられる自分と──表情を歪め過呼吸気味に電源を落とす、母親の姿とか。


 法城愛理に傷が残されたとしたら、それは虐待ではなく──自分にも暴行者の父親と同じ血が流れている事実に他ならない。


 決してああ(﹅﹅﹅﹅﹅)なりたくはない(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)と、彼女は強く思ったのだ。


 暴力の情景を見るたび。その醜悪を目の当たりにするたび。

 彼に育てられた自分は、彼と本質的に等しいかもしれない。


 それが何よりも、法城愛理の恐怖だった。


 だから彼女は衝動を恐れて、感情を畏れて──そして合理と利他を選んだ。

 利己の極致で暴力を振るう未来を避けるため、他者に利することを──客観的な正当性に従い行動することを、旨とした。


 法城愛理の母親が離婚した、数年前の話だ。


 離婚の理由が理由である以上は、親権を父親に譲れるはずもない。法的な拘束力が慰謝料を支払わせてくれる、とはいえ。片親が四人の子供を庇護する苦労が、並大抵のはずはない。

 子供の側が──何より最年長の長女が、協力しなくては成立しない生活。



 そうして、法城愛理の自縄自縛が始まったのだ。



   ◇



「だから。自分以外の誰かを犠牲にしてまで願うことなんて、できるはずがなかった」


 仮に彼女が許容し得る代償があるとしたら、それは法城愛理自身くらいのもの。

 けれど少女は、自分が家族に愛されていると知っている。

 もしも自分を犠牲にしたら、母親が悲しむと確信できる。


「いずれにしても、都合良く現れた悪魔なんかに叶えてもらう願いはなかった」


 法城愛理にできるのは、尽くせる限りの時間を尽くして家族の生活を支えること。

 そこにあるのは、有限の時間を徹底的に効率化する合理だけ。


 機械仕掛け(エクス・マキナ)の悪魔がすべてを解決する幕はなければ。

 法城愛理自身の幸福のために割かれる何かも、ない。


 そのことを彼女は、自覚しているのか。



 悪魔にはわからない。



 寝台の上に身を起こした彼女の体躯が、中学一年女子の平均に比して遥かに小柄であることを知らない。


 ある日を境として、過剰な精神的負荷が彼女の身体の成長を妨げ始めた可能性に気づくことができない。


 所詮ヒトには共感し得ない悪魔には、法城愛理のすべてを理解することなど、決してできるはずがない。


 けれど、同時に。



 願いを叶える悪魔だからこそ推定できることがある。



   ◇



 それは、デザイアの事情の話だ。


 願いを叶える悪魔が、ヒトの願いを叶えて生計を立てることができていた理由。

 願いを叶えなければ人間を離れることができないという致命的な欠陥が、法城愛理を相手に初めて発覚したのはなぜか。

 その謎には、至って単純な解決が存在する。


 悪魔が姿を現すのは、誘惑に負ける可能性の高い人間の前であるということ。極めて単純な法則。


 けれどもちろん、契約成立の確率を定量的に評価することは難しい。

 世界中の人間を大域的に調べて優先順を考えるというのは、いかに人外といえども困難を極める。


 だから悪魔は、人間の感情を指標にする。


 願いを抱く、ヒトのこころを。

 救いを求める、ヒトの叫びを。


 窮地に喘ぐ心底の声が切実な人間の前にこそ、姿を現す。

 多少の犠牲を度外視しても救済を望む人間を、誘惑する。


 普通の人間には逆らえるはずがないのだ。

 絶望の底で垂らされた、希望の糸に縋るように。


 そもそも叶えたい願いを切実に抱えた人間に、悪魔の契約を拒絶する理由はない。


 法城愛理も同様の、はずだったのだ。

 デザイアの姿を目にしたことこそが、彼女の心の奥底に押し殺された悲鳴の証左だった。


 思えば当然の話だ。


 年齢が二桁にもならない幼子が、自分の本心に従うことすら許されず、日常や学校を楽しむこともできずに、ただやるべきことをするだけの日々を過ごしてきたのだ。

 それが息苦しくないはずがあろうか。

 つらくないなんてことがあるだろうか。


 願いを叶える悪魔の標的として選ばれた、そのことこそが。

 悪魔には共感できずとも、確かに本音を物語っているのだ。


 法城愛理の合理に隠れた等身大の少女にとって、父親の業に抑圧される毎日がどれほど息苦しいものだったのか、と。

 そして、


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を、これ以上なく示している。


 彼女にとっての地獄は続く。


 超常の悪魔にならば叶えうる願いが、その運命を変えることはない。

 感情も本音も悲鳴も何もかもを覆い隠して、ただただ家族のためだけに奉仕する日々は終わらない。



   ◇



「でも、デザイアとの出逢いが法城愛理を変えたの」



   ◇

 


 それまでの彼女は、家族のためだけに日々を生きてきた。

 つまりそれは、かつて母親が結婚した相手を、弟妹を産んだ親の片割れを──自分に血を遺した父の存在を、間接的に意識し続ける日々に他ならない。


 合理と滅私の選択以上に、きっとそれは悪影響だった。

 自分に父親の血が流れていると、強く強く意識することは。

 自分は感情も衝動も抱いてはならないと、自縛を強めることでしかない。


 もしも悪魔が願いを叶えていたら──その場凌ぎの解決策で糊口を凌いでも、家族に奉仕する生活は変わらないだろう。

 そしていつか、法城愛理は破綻することになる。


 その、はずだった。

 けれど、そうはならなかった。


 悪魔に叶えてもらう、願いを言えなかったから。

 否応なく、少女の生活に異物が紛れてしまった。


 合理と利他が望まない、家族以外と過ごす時間が生まれた。

 普通の人間なら知っていて当然の常識を悪魔に説法する時間を割く羽目になったし、悪魔的な思考が導いた異次元の発想を真剣に議論することもあったし、互いに決して解り合い得ないヒトと悪魔が異種間交流する場に恵まれた。

 家族のことを──父親のことを、考えずにいられた。


 それは間違いなく、無駄な時間だった。


 理屈を好む法城愛理にとって自明に無益で、合理を偏愛する彼女にとって反論の余地なく不合理で、滅私を選んだかつての少女には許されるはずがなくて。


 だからこそ、デザイアと過ごす時間が。



「きっと、私は(﹅﹅)──楽しかった」



 そして。


 それは、デザイアにとっても同様だった。



   ◇



 デザイアは、他の悪魔と直接の面識を得たことがない。


 かつては、願いの契約を結ぼうとした相手がすでに憑かれていて、間接的に他者の存在を知ることもあった。その類の機会が近年は減ってはいたが、特に何か思うこともない。

 人間の伝承で世間的に語られる悪魔の狡猾な印象にデザイアはそぐわない、と法城愛理に言われたこともある。

 それもまた一つの観測として、デザイアは参考にするだけだ。


 ただ。

 ひょっとしたらデザイアという悪魔の機構には、人間からの簒奪を評価しない傾向があったかもしれない。


 もちろん、悪魔の状態を人間の言葉で直截に表現できるわけではない。

 しかし仮に便宜上、人間的な形容でデザイアの性向を分析するとしたら。


 ()は、人間から代償を奪うことを好まなかった。

 困窮し絶望した人間の願いを叶えるために、同等の犠牲を必要とすることを望んではいなかった。

 だからなるべく穏便に、人間との契約を結ぼうとした。


 ここに一つの推測がある。


 一般の悪魔が、法城愛理の先入観と同様に、狡猾で独善的だったならば。

 ヒトを欺き願いを叶える代わり、多大な代償を支払わせていたとしたら。


 人間にとって害悪を為すその種の悪魔は、ヒトが必死で祓う対象となっていたかもしれない。

 そうして数多の悪魔が滅びていくなかデザイアが生き延びたのは、()の人間性──ならぬ悪魔性ゆえなのかもしれない。


 だがデザイアもまた悪魔だ。

 いくら望んでいなくとも、ヒトの願いを叶えずにはいられない。

 なぜなら()が干渉できる対象の候補となるのは、いずれも救いを求める人間ばかりだから。

 犠牲や代償の存在を知ってもなお、悪魔に魂を売ってしまう。望みの願いを口にしてしまう。



 法城愛理という、唯一の例外を除いて。


 悪魔にとっては自覚なく、彼女は特別な人間だった。



 本来のデザイアには、人間と普通に接する機会はない。観測するのは悲鳴と哀願だけだった。


 救いを求める魂魄の叫声と、願いの契約を請い願う姿。

 その悲哀だけが、悪魔にとっての人間──だったのだ。

 だからこそ。


 貧乏な家庭も、孤立した学校生活も、図書室の静謐も、特売の喧騒も、屋上の夕景も。

 何もかも、()にとっては新鮮だった。



 たとえそれがヒトと同型の感情ではなくても。


 デザイアという悪魔が人間に示した関心や興味と解釈できる反応は、法城愛理との対話が証明している。



 願いを叶える悪魔にとって、意味のない時間だったけれど。


 ヒトと契約を結ぶことに繋がらない無益な過去だとしても。


 もしもそれを人間の情動に喩えるなら、怒でも哀でもなく。


 ヒトから何かを代償として奪わずにいられる、喜び以上に。


 人間に対する数多の知見を得ることができた、この日々は。


 きっと、



あなたも(﹅﹅﹅﹅)、──楽しかったのね」



 その感情を噛み締めるように、法城愛理は微笑んだ。

 憑き物が落ちたような、穏やかで美しい笑顔だった。



   ◇



 デザイアという悪魔との関係がどのような言葉に表されるものなのか、法城愛理は知らない。


 だってそもそも、ヒトと悪魔だ。


 友愛や恋情を抱き得る相手とは、決して思えない。相互性に欠ける以上は友達や恋人であるはずもないだろう。

 家族に比べて、遥かに劣る。


 それ以前に──デザイアを観測できるのは、きっとこの世で彼女だけ。

 すべてが(﹅﹅﹅﹅)法城愛理の妄想(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)だと、そう思われても無理はない。

 他者に胸を張れるような関係だなんて言えやしない。



 それでも。


 デザイアと過ごしたこの数年は、父親の暴虐が彼女に呪縛を遺してから初めての、幸福な時間だったのだと思う。



「けれどそれも、終わらせないといけない」



 悪魔に憑かれたままでは生きることができない。


 どんなに入院が続いたとしても、デザイアと一緒にいる限りは体力の上限値が減っていくだけだ。

 それでは家計の負担にしかならないから、法城愛理は。



「願いを、言うよ」



 たとえ何が代償になろうと、今のままの状況を続けるよりも──徒らに家族の重荷になるよりも、手早く悪魔と縁を切って復調すべきだと、彼女の合理は告げている。


 そうともなれば、願うべきことは少女にとって明瞭だった。


 デザイアとの関係がいかに幸福でも、家族を切り捨てることはできない。

 彼女の合理が家族を選んだのは、法城愛理の理屈の前提、その価値観に家族愛があったからなのだ。



 悪魔に願いを叶えてもらえばいいと、理屈が言っている。


 その選択が何よりも合理的だと、法城愛理は判っている。


 だから別れが惜しくなる前に、デザイアの反駁を待たず。



 同時に、それでも。


 かつて合理の底に消えかけた少女の本音を、今度こそ蔑ろにしないために。



「私は──」



 法城愛理は、矛盾の願いを口にする。



   ◇



「願いを叶える悪魔のあなたと、ずっと一緒にいたい」



   ◇



 それから。


 数日は、単調な入院生活が続いた。



 体調が回復するまで彼女にできることはないから、大人しく療養に専念する。逸る感情を合理で鎮めるのはお手のものだ。


 家族は交代で見舞いに来てくれた。

 母は無理しないで欲しいと心配そうだった。

 妹は彼女の分も家事をするからと息巻いていた。

 弟たちも、手伝えることなら任せてくれと得意げだ。


 理屈だけで動いていた頃の法城愛理は、自分にできることを可能な限りすべてやろうと必死で。

 もしかしたら、家族の顔をきちんと見ていられなかったのかもしれない。

 そんな気がした。



 見舞い客は家族しかいないだろうと思っていたけれど、中学の同級生が毎日ひとりは訪れてきた。

 ちょうど定期試験が近いから板書を、という名目。

 彼女の側の興味は薄かったから孤立した気になっていたけれど、相手の方はそういうわけでもないらしかった。



 客の対応以外にやるべきことがない生活は恐ろしく暇で退屈するかとも思ったが、病院という場はそれ以上に新鮮だった。

 医療従事者の話をこれほど聞ける環境は他になく、患者の側も多様性に満ちている。

 自分の体調と相手の仕事の邪魔をしない範囲でいろいろと雑談して回るのも、自分と同様に暇な病人と世間話を弾ませるのも、楽しい異文化交流だった。



 初めて人界に滞在する悪魔もこんな気分なのだろうか。


 視界の隅にちらついていた、いつもの姿は消えている。



   ◇



 実際のところは、勝算のない願いではなかったのだ。



 願いが叶う代わりに最も大切なものが犠牲になる、という特殊状況を考えるとする。

 二年前の法城愛理を悩ませたのは、代償がいかに定まるか不明であるという点だ。


 この状況下で得をするには、代償よりも価値ある願いを提示する必要がある。

 けれど代償の重要度が推し量れないうえに、当時の彼女にとっては、犠牲の候補となる家族を誰も喪いたくはなかったから。

 そもそも誰も犠牲にしたくはなかったし、犠牲がどれほどに大きなものかを見積もることもできず、それよりも価値のある願いが思いつくはずもなかった。



 けれど、今回は事情が違う。


 あの瞬間の法城愛理にとって最も重要なものは、デザイアと過ごした日々だった、と断言することができる。


 そこに、確信があった。


 家族の存在が大切でない、といったら嘘になる。

 けれどあのときばかりは、彼女にとっての最愛の家族は自身を縛る業でもあったし。

 デザイアと過ごす日常は、間違いなく楽しかった。


 だから。


 後者のほうが大切だ、と考えられた、あのときだけは。

 何が代償に失われるのか断定できた特別な状況だから。

 代償と等しい(﹅﹅﹅﹅﹅﹅)ものを願う(﹅﹅﹅﹅﹅)、博打に賭けることができた。


 悪魔の契約がどのように成立するのかは依然として不明瞭、だからこそ。


 願望成就が導くのは、願いを叶える悪魔デザイアとの未来。

 その代償として失われるのも、願いを叶える悪魔そのもの。


 結果と犠牲が釣りあったとき、なんらかの不条理が働いて、なんらかの奇跡が起きるのではないかと、法城愛理は期待していたのだけれど。


 ──結果は、見てのとおりだ。



 非現実の悪魔が少女の日常に憑き纏うことは、もうない。



    ◇


 

 退院の時期を可能な限り早めようとした結果、家族の予定とはまるで合わなくなってしまった。

 病院の受付で、独り。

 退院の手続きを終えて振り返ると、待合の喧騒が目についた。


 その中に、法城愛理の家族の影はない。


 けれど探し求めた姿を見つけて、少女の口許は綻んだ。



 たとえば、こんなご都合主義がある。



 法城愛理が悪魔に願ったのは、デザイア(﹅﹅﹅﹅)という個体、一個の生命体との未来。

 法城愛理が犠牲と諦めたのは、願いを叶える悪魔(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)が憑き纏う、輝かしい過去だ。


 その矛盾を都合よく解釈する方法が、一案。


 たとえば願いを叶える悪魔が、悪魔ではなくなったら?



 病院内で走りは禁物。それでも少し、少女の足が速まる。



 もちろん、それは流石に希望論だと法城愛理も認める。

 もしも狡猾な悪魔との取引だとしたら、人間ばかりに利するそのような展開はあり得ないだろうけれど──でも、もしも。


 願いを叶える悪魔の側も、それを望んでいたとしたら?



 人混みを掻き分けるように、少女は足を進めていく。



 矛盾の願いを口にする瞬間、法城愛理は信じていた。

 そうあれかしと願っていた。


 悪魔の術理を行使する側のデザイアが、恣意的な解釈で契約を結んでくれることを。



 半ば小走りで駆け寄っていく、その先で──。


 見知った顔の見慣れない人間(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)が、小悪魔のように笑っている。



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