生まれいづるもの
彼の生に、乾杯。
狐に包まれるとはこういう事を言うのだろうか。誰でも人生の内一度や二度は朝起きても夢で何をしていたかを覚えていたりするもので、夢でみた冒険の余韻を噛みしめ、しかし朝ごはんが終わる頃には内容が思い出せなくなっている。そんな経験をした筈だ。
それにしてもこれは無いだろう。いくら何でもそこに至る流れが拙速過ぎる。そう彼は思った。
落ち着いた森の中だった。そよ風に揺らされた葉の間から木漏れ日が地に射し込み、まだ生まれたばかりの新しいいのちを祝福するようにゆらゆら揺れている。精一杯伸ばされた枝の上では小さな隣人たちが冬に向け木になった実を食んでいる。耳を澄ませば小鳥と小川のせせらぎが合唱している事に気がつけもするだろう、そんな場所。
「死に晒せ!」
「クソが、下がりながら陣形を立て直せ、一人も通すな!」
そんな柔らかな森はつい数分前に消え去った。
怒号と苦し気な息遣い、鋼がぶつかる耳障りな音。横転した馬車にもたれ掛かる左腕を失い、切断面を押さえ泣き叫ぶ者、肚から溢れてしまったてらてらした腸を必死に体内に押し戻そうとする者、それらに止めを刺さんと獲物を振り下ろす者。絶叫、絶叫、絶叫の嵐。
是は戦場であった、或いは死であった。もしくは地獄。
バラバラの装備があからさまに山賊と主張する、人相の悪い男たちが一、二、三、四、五、六人。長剣らしきもので応戦している死に体の兵士が三人、その奥で震えている裕福そうなドレスの少女、一人。負傷者、死者およそ十五人。そこから少し離れた場所に傍観者、一人。
極限状態と呼ぶのが正しいだろう。彼らは殺しあっている、その命を擲って何かを手にいれようとしている。金か、未来か、そんなものは存在しないのか。
誰だって死にたくない、混乱の中で必死に頭を働かせた。十人に聞けば十人が大ピンチと呼ぶ苦しい展開、例えばコレがネット上に転がるライトノベルの様に超能力と強い精神を持っていたのなら通りすがりの伝説の英雄、異世界からやって来た最強高校生、不屈の魂を持った主人公の快進撃を始められたかもしれない。
不可避の一撃をもって山賊の脳漿を辺りに飛び散らし、少女たちを救い、ラブロマンスを始める事が出来たかもしれない。そんな大それた力が無い者でも不意討ちなら一人位はどうにかできるかもしれない。
結果だけを言うのなら、それらのかもしれない達は彼では叶わなかった。物理的にできるかどうかではなく、心が受け入れられない。
非武装の凡人でも大声で叫べば兵士に攻撃の手を与えてやれるかもしれない。しかしそれをした所で何か変わる可能性は限りなく低い、物言わぬ死体が一つ増えるだけの可能性が殆どだ。それにもしかしたら山賊だと思っていたのは勘違いで悪いお偉方の圧政に耐えきれず決起した勇敢な農民と、汚職に塗れた騎士団の戦いかもしれない。さらに僅かに残った冷静さは今すぐ走って此処を離れなければと警鐘を鳴らしている。
突然目の前に誰かを殺すまで止まらない殺人集団が現れたとして、彼を殺して止めてやろうと考える事のできる人間がどれだけいるか。仮に居たとしても一種の突き抜けた天才であり、日常では異常者の烙印を押されることに間違いは無いだろう。
そうやってやらない理由ばかり思い付く。だから、声すら出せなかった。
「はあぁぁああ!」
兵士の一人が絶叫と共に降り下ろした一撃が外れ逆に山賊の鉈が手首に付き立つ。強い痛みと衝撃を受けた兵士が剣を手放し、山賊が手首から力任せに引き抜いた鉈を首もとに叩きつけた結果、兵士は大量の血潮をばら蒔きながら倒れた。練度の違いからか全体的に見れば山賊側にできた傷の方が多いもののこれで一人辺り三人の山賊を相手にすることになる。
彼らはまた一歩死に近づいた。
逃げ出したいのだが足が竦んで動かない、ただ見つからないように、ガタガタ震える歯の根の音が聞こえないように、必死に自分の体を抱き締めていた。その筈だった。
曰く、人間の精神には許容範囲が存在する。
曰く、人間の精神には限界が存在する。
故に、人間の精神では_______________。
目覚める。
「Gho,ger,gua,gha」
それは声と呼ぶには足りない、呼吸のついでに音が漏れたといった風であったが、その場に居た全ての生き物に届き、そしてその全てを凍りつかせた。
一般的に人間に限らずおおよそあらゆる生物は圧倒的な実力差を感じると生き延びることを諦めてしまう、その様に産み出されている。そうなっている。そしてそれをどうにかするのが訓練であり、慣れである。
つまるところ彼らが初めて出会うそれに対応出来なかったのは至極当然の現実だった。
「Golagessazdedodagydeggiathe!!!」
魔獣と呼ばれる生物がいる。本能的に周囲のエーテルから力を吸い取り現象へと置換する事が可能な生物の事であり、通常生物には見られない多様な特性を保持している事が多い。だからそれを分類するなら魔獣と呼ぶ他なかった。ところが、実際には誰もそれを魔獣だとは感じなかった。否、感じられなかった。
容姿については悪魔、そう呼ぶのが近しいだろうか。
重厚な鎧を被った騎士のような出で立ち、その両手には刃渡りが成人男性に匹敵する程圧倒的な鎌が生えており、たった今手頃な位置に植わっていた木を輪切りにした。またその下半身は人間とは違い六足で、重心を低く保っているため高速で移動するのに向き、長い尾の先にも斧のような鋭利な刃物が付いている。それら全ては何かを殺す為の機能だと誰もがわかった。
何を?人間をだ。
「あれは、何だ」
「分かりません、ですが討伐を行うおつもりでしたら町単位で行うべきです。」
そう生き残っている兵士達が呟いて後、先程までの喧騒とは程遠い静寂だけが森を支配していた。動けば死ぬ、単純かつ明快な事実が十分前の森を取り戻す、最も押し潰されそうな緊張感だけは戦闘中と比べ物にならないまでに高まっているが。
それを下手に刺激してはならない。山賊も兵士もそれを理解していたからこそ石像のように固まっていた。
「いや、やめて、私死にたくない………」
少女が意識を失って倒れる、諸行無常、静寂はそう長く続かなかった。恐怖に耐えきれなかった少女のか細い声に反応した悪魔が動き始める。
「Ghibydabbubbaghe!!!」
「身を差し出してでも食い止めろ!意地でもマリン様の元にたどり着かせるな!」
「このファッキンビーストめ、死んだら慰謝料請求するからな!」
兵士達の動きはこれ以上なく素早かった、その命を捨て駒にしてでも少女、マリンの涙に震えるそのか弱い体を守ろうと悪魔とマリンの間に立ち塞がる。彼らは一秒後に切断されて死んでいるだろうこと、例え身を呈した所で悪魔がその気になれば心臓の鼓動一回分の時間が稼げれば御の字である事も承知していた。
だがそれがどうしたというのか、とっくに覚悟は決めている。
悪魔の六足が地を踏み砕き、高速で飛来する。進路を塞ぐ木にぶつかり、薙ぎ倒しながら迫ってくる。意味をなさない雄叫びを上げ、その身に宿した三つの刃を構えると一回転し、刃が脱兎の如く逃げ出そうとした山賊六人全員の腹部を両断した。
「は?」
まず切り裂かれた場所から内蔵が飛び出し、べちゃべちゃ汚い音を立てて地面に落ちた。遅れて下半身、最後に上半身が地面に積み重なる。明らかに助からない致命傷だ、しかし彼らの本当の不幸は死ぬことではなく、即死できる位置を切られなかった点にあるだろう。
吹き出す鮮やかな鮮血に溺れ、どうにか息をしようと開けた口に半分になった肝臓が入りより深いパニックに陥る。
バタバタ暴れているつもりなのだろうが、既に八割方その生を散らしているため弱々しく肉の山を叩く以外には何もできない。それすらも徐々にできなくなり十数秒もすれば思い出したように時々跳ねるだけの肉の塊に姿を変えた。
それを見届けてから地面に足を突き立てて止まった悪魔は、ゆっくりと地に伏せた、一分、二分、三分、動く気配はない。
兵士の口から長いため息が漏れる。
「あれは動きを止めているが、果たして無事生き残ったと考えても良いものだろうか」
「最終的に生きている人間が三人しかいないのを無事と呼べるのなら、ですけどね」
「どちらにせよ一旦帰り報告せねばなるまい。どうにかして殺すにしても我々だけでは難しいし、見張りも意味を成さんだろう」
兵士の片割れがマリンを背負い歩き始めた。重々しい足取りで、しかし一歩ずつしっかりと地面を踏みしめて。仲間も馬車も連れて帰ることはできない事実に悪態の一つでもつきたいが、それでも彼らは帰らねばならない。
彼女を、マリンを失う訳にはいかないのだから。