多感覚統合
視覚や聴覚だけではない。嗅覚も、鋭くなってきた。
ある日、来客用の待合室で置き忘れのスマホを見つけた。俺が自分の部署で頻繁に相対する人間の所有物ではなさそうだ。
俺は、そのスマホから所有者のものとおぼしき微かなにおいを感じ取った。そして、周囲にまだそのにおいが微かに残留しているのに気付き、そのにおいが強まる方向に歩いてみた。ほどなく玄関に辿り着き、そこで俺は今まさに外に出ようとしている男性を見つけた。スマホに残っていたにおいと同じにおいは、その男性から最も強く感じ取れた。
「すみません、これ、あなたのスマホですか?」
俺が呼びかけると、その男性は振り向いた。俺とは面識が無い人だった。年齢は40代ぐらいだろうか。たぶん、取引先の営業担当者か誰かだろう。彼は驚いた様な表情をして、こう言った。
「あ、はい! ありがとうございます」
彼は感謝の表情を浮かべて俺からスマホを受け取ったが、彼が訝しむ心理が彼の表情に少し表れていた事を、俺は見逃さなかった。
彼は改めて玄関から出る直前、自らのスマホの画面ロックが有効になったままである事を注意深く確認してから、指紋と虹彩の2重認証でロックを解除していた。
彼が訝しむのも無理は無い。スマホから所有者の詳しい情報を得た様子も無いのに、なぜ面識の無い俺がスマホの所有者である彼を知り得たのか。それを不審に思っていたのだ。
いかに嗅覚が強化されたといっても、おそらく嗅覚神経細胞の数や嗅覚受容体の種類が増えたわけではないだろうから、犬と嗅覚の鋭さで勝負して勝てるかどうかは、確信を持てない。
それでも、俺の嗅覚が少なくとも標準的な調香師以上に強化された事は間違い無い。
そして、嗅覚が鋭過ぎて日常生活に支障をきたすという事は無い。これまでやってきた様に何か別のものに意識を集中すれば、よっぽど強い匂い、普通の人でも即座に何らかの反応を示す強さの臭いでなければ、意識下に追いやる事ができる。再び意識に上らせる事も可能だ。
視覚・聴覚・嗅覚で起こった感覚の鋭敏化と使い勝手の向上は、味覚や触覚でも起こった。
飲食物の産地を味で当てる事がほぼ確実にできる様になったし、皮膚に伝わる僅かな感触の違いを感じ取る事で、普通の人が感じ取れないほどの微かな空気の流れをも感じ取れる様になった。
プラスチックの下敷きなどを擦って静電気を溜め、髪の毛を逆立たせる遊びは誰もが1回はやった事が有ると思うが、俺の場合、腕や脚に申し訳程度に生えている産毛を通じて、僅かな電場の変動を感じ取れる様になった。
俺を驚かすべく背後からこっそり忍び寄ろうとした同僚を、今まさにその同僚が驚かそうとする動作の直前で俺がいきなり振り向き、にっこり笑って呼びかけ、あべこべに驚かした事も、一度や二度は有る。
更には、俺が感じ取った足音の特徴・空気の流れ・電場の変動・においの増減の感覚が統合される事で、ある程度(おおよそ十数m~数十m)離れた地点にいる視界外の人間の有無及び数・位置・距離を把握する事、そして誰なのかの見当を付ける事が、可能になった。
人間以外の生物や無生物に対しても、たいていの場合は同じ事が出来る。
――武術の達人が暗闇であっても忍び寄る敵を察知して返り討ちにする、などと言う話は時々見聞きするが、今の俺なら、それができそうな気がする。それができる事が、「気配を感じ取れる」という能力の一端なのだろう。
五感の鋭敏化と使い勝手の向上、そして五感の統合は、俺に新たな能力を齎した。
相対する人間や動物の詳しい思考を読む事はできないが、嘘をついているか否か、それに加えて大体の意図と、感情や体調は、把握できる様になった。
表情や声の調子、呼気や発汗に伴って発散されると思われる様々なにおいの原因分子、等々の情報。
それらの情報が俺の中で統合される事により、俺は目の前にいる生物の大まかな意図や感情や体調を察する。
俺は、社内の誰が俺に対して良からぬ感情をいだく傾向が強いか、把握できる様になった。
同僚の内のある者は俺に対して特別な感情を持っておらず、別の者は俺の事を「いざとなれば出世競争で踏み台にさせてもらいたい奴」と思っているようだ。
係長と課長は俺の事を「所詮は学者崩れの、融通が利かなくて使えない奴」と見下しているらしい。……確かに、俺の幼い頃の夢は科学者になる事だったのだが。
更に言うと、俺に対して「自分の思い通りに動かず、イライラする」と思っているらしい。俺が召使いロボットの様に忠実に動かない事に、腹を立てているようだ。
部長以上となると、別の意味で俺に特別な感情を持っていない。「いくらでも換えが利く、その他大勢」……まあ、当然だろう。
俺が告ろうと思っていた同僚の女性は、残念ながら俺に気が無いらしい。その他の同僚の女性も概ね、俺の事を「イケてない男」と思っているようだ。
実感として、確実に味方になってくれる者はゼロ、条件次第で味方してくれそうな者が4割前後、どちらかというと敵に回りそうな者が4割弱、そして残りの約2割は、どうあがいても味方になってくれる事を想像できない者であった。
……薄々感づいてはいたが、俺の職場での人間関係、あまり良くないなぁ。
俺の眼の前で2人以上の人間が言葉などの遣り取りをしてる時は、一方が他方をどう思っているか、大体分かるようにもなった。これにより、職場の人間関係の実態を把握できた。
いざとなれば俺を蹴落とそうと思っている同僚(以後、仮に同僚Aと呼ぼう)は、部長の歓心を買う事に腐心していた。
係長はいかにして課長にとって代わるかの策に余念が無いようであった。
課長は部長に忠誠を誓っており、部長は課長を「使い勝手の良い下僕」と思っているようであった。
そんな部長からは、強い上昇志向――その気になれば密やかな違法行為も辞さない程の――を感じ取れた。
俺をあまり好ましく思っていない先述の同僚Aは、俺の部署内で最も容貌の良い同僚の女性に、遠回しにアプローチを掛け続けていた。
そんなAに対し、女性の方は「『歩くATM』としての将来性は、あまり無さそう」と思っているようであった。
俺の職場の人間関係の実態は、俺にとっては(予期していたとは言え)がっかりさせられるものであったが、それでもその情報は、俺が職場で生き残る役には立った。
例えば、Aが俺にある案件の失敗の責任を俺に擦り付けようとした時、Aの主張を覆す証拠を部長だけの眼に触れる所にこっそり置き、俺が濡れ衣を着せられる事を免れた。
また、昼食時に社員用食堂で噂好きな女性社員達の会話に参加するチャンスをたまたま得た時、「係長が課長をどう思っているか?」という話題をそれとなく振った。
案の定、彼女達は勝手に話を膨らませ始め、中には課長に対する係長の思惑を裏付ける証言を始める者もいた。……どこでどうやってその情報をつかんだのやら。女って、怖い。
――それからまもなく、係長と課長は互いの思惑の探り合いに腐心する様になり、俺に対してあまり注意を向けなくなった。結果として、係長と課長が俺に対して何かと厄介な仕事を大量に振る頻度が、いくらか減った。
そんなこんなで、俺は入社以来初めてサービス残業を減らす事ができ、定時で帰れる日を増やす事ができた。そして空いた時間を、俺は自らのスキルに磨きをかける事とキャリアアップへの布石に費やせる様になった。




