発端
「………………!!」
俺は目を覚ます。ヤバい! 居眠りしてしまった!!
慌てて辺りを見渡すと、係長とバッタリ眼が合う。
なんてこった。よりによってこのタイミングで。
当然、係長は不審げな表情を浮かべ、俺を問い詰めた。
「ん~? 滝本、さっき任せた件はできたのか?」
できているわけがない。
上手い言い訳も思いつかずに硬直していると、係長はすぐさま俺の机に向かってつかつか詰め寄って来た。
あ、あ……
係長は俺を押しのけるようにして、俺のパソコンのモニターを見た。
もうだめだぁ……おしまいだぁ……
……しかし、予期していた係長の怒声は聞こえない。
代わりに、拍子抜けした様な声が聞こえた。
「なんだ、ちゃんと出来てるじゃないか」
???
何が何だかわけもわからず眼を白黒させている俺を尻目に、係長は部屋を出て行く。ドアを閉める直前に「それ、さっさと先方に送っとけよ!」と言い捨てて。
何秒かのあいだ呆然としていたが、何気無くパソコンのモニターに視線を戻して、更に驚いた。
係長から押し付けられた件、ちゃんと出来てる……。
これまたわけがわからない。だがとにかく、俺は係長のさっきの言葉通り、完成したファイルをメールに添付して然るべき宛先に送った。
さて、押し付けられた仕事はまだまだ……有るはずだったが、少なくとも今日が提出物の期限になっているものは、全部片付いていた。
???
本日の午後、3度目の驚きである。提出物の内容をチェックしてみたが、間違いは無かった。
わけがわからないながらも、俺はそれらの提出物を然るべき部署や取引先に送る手配を完了させた。
珍しく、時間に余裕ができた。俺は積み残されていた仕事を前倒しして片付ける事にした。
そして、終業時刻。珍しく定時で帰る事ができた俺は、駅のホームで帰り道の列車を待ちながら、今日の午後我が身に起こった不思議な出来事について頭を悩ませていた。
俺、夢遊病の気が有ったっけ……?
夢遊病――『睡眠時遊行症』とも言う――の事例で、夜中に無意識のまま寝床から起き上がって冷蔵庫の中のものを飲み食いしたり、無意識のまま電話をかけてとりとめのない事を喋ったり、というのは俺も見聞きした事が有る。
夢遊病の重症例では「寝床から起き上がった後、無意識のまま車を運転した」などというものもあるらしい。
夢遊病の重症例とは違うが、寝不足のまま運転して、大脳は浅い眠り(つまり、レム睡眠)の状態に陥ったにも関わらず、小脳など脳のその他の部分は覚醒していて、無意識のまま車を運転できてしまう、という事例の話も時々見聞きする。
何にせよ、無意識で車を運転している時は、突発的な事象に対して迅速かつ的確な判断ができない。それによる交通事故も、たまに起こっている。
大脳が浅い眠りの状態に陥った場合も、夢遊病の場合でも、正確な判断を意識的に行う必要が有る作業――例えば、プログラムのデバッグ等――は、できないはずなのだ。
少なくとも俺は、夢遊病状態で素晴らしいコードを書けたなどという事例を、寡聞にして知らない。まさか居眠りしている間に小人さんが仕事をしてくれたわけもあるまいし。
俺の身に今日の午後起こった事は、「夢遊病」で片付けるには無理が有る。
じゃあ、何だ? いわゆる二重人格――正式病名『解離性同一性障害』――か?
その可能性は否定できないが、そう断定するには情報が少なすぎる。
解離性同一性障害に至る要因の一つとして、激しいストレスや心的外傷が有る。児童虐待あるいは地獄のような戦場で被るであろう類のものだ。
しかし、俺は今までの人生でそこまで激しいストレスや心的外傷を被った覚えは無い。
今の職場は確かに強いストレスを感じる所ではあるが、解離性同一性障害を起こす程であるとは、俺には思えない。
あれこれ考えたが、納得できる結論は出ない。有力な情報が足りないままに結論を出そうとしても、徒労に終わるだけだ。
俺が今日の午後の不思議な出来事についての考察を打ち切ったちょうどその時、帰りの列車がやって来た。
そういや、居眠りから覚める直前、変な夢を見たな……。良い夢じゃなかったが……何だったんだろ、あれ?
その夢については、今日の午後の不思議な出来事以上に、何らかの有意義な結論を出すのは難しい。
俺はその夢に対する考察を早々に打ち切り、自宅で久々の余暇を楽しむべく、帰りの列車に乗った。




