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中秋の名月

 本日の依頼主の要求を遂行し終わった時、もう夜の7時を過ぎていた。

 ――電気工事業を含む建設業一般は夜間工事への従事も多い為、夜の7時に終業できれば「早い方」らしい。中には24時間を超えるほぼ連続の勤務を武勇伝のごとく語る者も珍しく無い。


 本日の依頼主である小さな電気工事屋さんにはそんな労働条件に耐えて来た者ばかりいるせいか、「納得行く仕事をしてくれるまで、帰さないぞ」という雰囲気の、無言の圧力(プレッシャー)が有った。

 その圧力を無視できなかったので、こんな時間になってしまった。


 会社の事務所に戻ったのはさらに遅く、夜の8時半少し前。直属の上司である係長や、課長は既に帰っている。部長以上の上役とは、今日は直接顔を合わせてすらいない。

 もっとも、部長以上の上役と直接顔を合わせる日など、1ヵ月のうちに数日有るか無いかなのだが。


 他の同僚達も、既に帰った様だ。俺は自分の机に向かって独りぽつんと座り、本日分の日報を書き始めた。

 予想以上の時間を要した理由、なんて書こう? 下手に依頼主側の事情を理由にすると、「お前が不出来なのを他人の所為(せい)にするな!」とか難癖じみた説教を浴びる破目になるしなぁ。


 苦心して日報の文面をどうにか(ひね)り出すと、もう午後9時近くだった。俺は事務所内LANのファイルサーバーに日報をアップロードし、その少し後に事務所を出た。

 俺のスマホ内のペルソナが、日報のアップロードと俺が事務所から出た事を確認すると、終業時間の確認ボタンを表示したので、俺はそれをタップした。


 そこでようやく、ささやかな安堵の溜め息をつく。明日の朝までの僅かな間、日々の苦行から解放される事に対して。



 その日は気紛(きまぐ)れにいつもと違う道を辿って帰った。新宿御苑の近くを通り過ぎた時、2~3名のホームレスと思しき人達を見かけた。

 内閣府は「景気動向指数は数年前から緩やかな上昇を続けている」などと発表しているが、その割にはホームレスの人達を見かける頻度が増えた様な気がする。


 内閣府が統計上のまやかしをしていないと仮定しても、景気動向指数と俺達一般庶民の実感が一致しているとは到底思えない。――おそらく、日本においても貧富の差が拡大しているせいだろう。


「ホームレスはホームレスで人生満喫している」などという意見も有るらしいが、俺には信じ難い。普通、誰が好き好んで、風雨を(しの)げる事すら保証の限りでは無い生活をしたがるものか。

 ホームレスの状態に至った人達というのは、大体の場合、「のっぴきならない事情や状況」に陥って、そうなったに相違無い。

 俺だって、15年ぐらい後には、「のっぴきならない事情や状況」に陥るかもしれない。言い古された言葉だが、「明日は我が身」だ。


 そんな事を考えていると、また憂鬱な気分が強くなり、俺は今日何度目か分からない溜め息をついた。


 家に帰ると、もう午後10時過ぎ。

 俺は賞味期限間近で半額になったコンビニ弁当を黙々と食べた後、風呂に入る。

 そして寝間着に着替えた後、寝室の照度を落とし、ベッドに横たわってネット動画ニュースを見始めた。


 何気無く惰性で動画ニュースを見続けていたが、見たニュースの数がそろそろ2桁に届こうとする頃、俺はあるニュースを見て、目を見開いた。


 そのニュースは、俺の同窓生が新事業について公式発表した事を報じるものであった。

 その同窓生の名は、依耶(よりや) 瑁人(まいと)


 日本発祥の多国籍巨大企業『ヨリヤグループ』の若き総帥。


 彼はその神懸かり的な手腕で、最初の会社設立から僅か10年足らずの内に、自社を株式時価総額100兆円以上の超巨大企業グループに急成長させた。


 まるでアメリカンドリームの体現者の様な人物であるが、れっきとした日本人である。


 彼は俺と同い年で若干29歳であるが、既に、かつて日本の高度成長期を支えて来た大企業の創始者達と並び称される存在である。

「日本の大企業の創始者達の様な人物は、日本人の中からは今後表れないであろう」との某経済評論家の予言を、彼はあっさり(くつがえ)した。


 当然ながら、政財界に対する彼の言動の影響力は、もはや内閣総理大臣すら上回っている。


 彼が影響力を拡大するに当たって、それまで日本の政財界を牛耳っていた者達と激しく対立したが、数多の対立において彼は(ことごと)く勝利し、今も無敗のまま勝利を重ねている。

 ――その勢いはまさしく『化け物』としか言い様が無い。


 政財界の有力者のうち彼と対立した者は今に至るまで例外無く失脚しているが、中には不慮の事故や病気で死亡した者も少なくない。

 「彼が対立者の死に関与した」などという仮説がネット上でまことしやかに(ささや)かれているが、地球上のいかなる調査機関や報道機関も、その仮説を立証するに足る証拠を全く掴んではいない。

 その事も、彼が怪物とみなされるのに一役買っていた。


 あまり親しい関係でないとは言え、俺は大学で彼と言葉を交わした事が有る。


 彼は、対立者を批判する時に辛辣(しんらつ)な口調になるという性質を持っていたが、それを除けば、俺の知る限り欠点らしい欠点が見当たらず、明朗快活で、優等生を絵に描いた様な性格であった。


 人格者である以上に、彼の才能はずば抜けていた。彼以上に「文武両道」を体現する人物は、今の世界に存在するまい。


 柔道・剣道・空手道・合気道、合わせて弐拾(にじゅう)段以上。

 大学入学直後、あらゆる体育会系のサークルや同好会が熾烈な勧誘合戦を繰り広げたという、知る人ぞ知る逸話も有る。

(結局は体育会系からの誘いを全て丁重に辞退し、彼自身は工学部であったにも関わらず、『都内数学科学生集合』という文化系サークルに入った)


 大学在学中にP≠NP問題を解決して世界中から注目を集めた。

――計算機科学史上の超難問の内1つとして知られ、西暦2000年にクレイ数学研究所のミレニアム懸賞問題にもなった、あの問題を、である。


 それに留まらず、P≠NP問題を解決した時の数学的手法を応用して、AIシステムの新しい設計思想(アーキテクチャ)を生み出した。


 更に、その設計思想に基づくAIの研究開発をする会社を、これまた大学在学中に設立した。

――それが彼が最初に設立した会社『株式会社・瑁(MAI)』であり、MAGIソリューションズの前々身に当たる会社である。


 大学卒業後の彼は社長業に専念するものだと、誰もが予想したが、誰も予想を的中させられなかった。

 どういうわけか、彼は大学卒業直前に自分の会社の株式を売却し、経営を他者に委ねた。

――但し、自分が持つ技術の特許権は保持したままで。


 そしてアメリカとヨーロッパへ遊学し、カリキュラムを驚異的な速さで消化し、経営学と法律学の修士号を取得する傍ら、新たな会社を設立した。

 それが、後のヨリヤグループの持株会社『ヨリヤホールディングス』の前身となった。


 その後、彼は会社を急激に成長させ、『ヨリヤグループ』の名を世界に(とどろ)かせ始めた頃、最初に設立した会社を買い戻して傘下に加え、その社名を『MAGIソリューションズ株式会社』と改めた。


 MAGIソリューションズ株式会社は株式会社・瑁だった頃に比べて事業規模が20倍以上に膨れ上がっており、海外の経済誌からは「ヨリヤは雪玉を他人に転がさせて巨大な雪達磨(スノーマン)を創った」と評された。


 それ以降、G社やIBM社に勝るとも劣らないAI技術を武器にして、ヨリヤグループは世界有数の多国籍巨大企業となり、現代に至る。


 ……つまるところ、依耶は俺から見て最上位の上役になるのだが、普段それを意識する事は無い。

と言うより、俺にとって依耶はまさしく『雲の上の人』であって、具体的な上役として意識する事が不可能なレベルである。


 二人とも日本にいた頃は同じ大学で学んでいたのに、彼と俺との間には「雲泥の差」と言うに相応しい大差が有る。その事実に、絶望すら感じる。


 くよくよ考えていたせいで、目が冴えてしまった。

 俺は起き上がり、トイレで小用を足す。

 ベッドに戻る前に、台所で冷蔵庫からペットボトル入り炭酸水を取り出し、コップに一口分だけ注ぎ、飲んだ。そして、溜息。


 俺には煙草を吸う習慣が無く、酒もあまり飲まない。

 全く飲めないわけではないが、酔いが醒めるのに少々時間を要するので、翌日が休日でもない限り、夜に酒を飲まない。

 さもなければ、朝寝坊して会社に遅刻しかねないからだ。

 遅刻でもしようものなら、その分、リストラ枠に近づく事になる。


 俺はペットボトルの栓を締め直し、余った炭酸水を冷蔵庫の中に戻し、ベッドに戻ろうとした。

 その時、窓から月が見えた。


 中秋の名月。


 俺は月に見惚れ、もの思いに耽った。


 古今東西を問わず、月は人間の想像力を掻き立てて来た。


 日本では、「月には兎が住んでいて、餅つきをしている」と信じられてきた。


 古代中国でも月に住む兎「玉兎(ぎょくと)」の説話が信じられ、さらにその説話の起源は古代インドだと言われる。

 また、嫦娥(じょうが)という名の仙女の伝説が有り、その仙女が変じたという蟇蛙(ひきがえる)の姿を、古代中国人は月の模様の中に見たという。


 その他、北欧の人は本を読む老婆の姿を、南欧の人は(かに)の姿を、東欧や北米の人は髪の長い女性の姿を、南米の人は驢馬(ロバ)(ワニ)の姿を、アラブ人は吠える獅子(ライオン)の姿を、月の模様の中に見たという。


 古代エジプトでは「天空神ホルスは太陽の眼と月の眼を持つ」と信じられてきた。


 天空神ホルスの頭部は隼の頭部と同じ形をしていると伝えられ、古代エジプト人は、ナイル川の上空高くを悠然と舞う隼を「ホルスの化身」であると信じた。


 隼と言えば。俺が今朝目覚める直前に見た夢には、隼とも西洋の竜とも東洋の龍ともつかぬ生き物が出て来たっけ。


 そんな事を想起した瞬間、俺は確かにその生き物の姿を月の模様の中に見た。


 ……???


 俺は瞬きをして、もう一度、月を凝視する。だが、今度は何の姿ともつかない模様が見えるだけ。気のせいか?


 そして、唐突に猛烈な眠気が襲ってきた。


 俺はどうにかこうにかベッドに戻り、布団を被り、そのまま深い眠りに落ちた。

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