掃討
※今話に含まれる小ネタ5選:「セルラー・オートマトン」「錬金術」「ラプラスの魔」「自由意志」「決定不能な問題」
「ん? うーむ、そうさな」
ゴズモフ先生は「どう言ったものか」という考えが垣間見える僅かに困惑した表情で、言葉を選びながら、俺の問いに答えた。
「拙者とマリは、いわゆる『悪霊の仕業』とされる現象による災いを退ける事を生業としてきた人間達の、末裔でござるよ」
「末裔……」
先生の答えに、俺は考え込む。
「そんなに奇異な答えでもござるまい? 『あれ』を見た後では」
先生は、闇の結界の中に籠城しているガーデスを一瞥してから、言葉を続けた。
「『あれ』は、太古の昔から人間が『悪霊のかしら』あるいは『悪霊の王』と呼んで語り継いできた存在そのもの。
『あれ』は、歴史の闇の中で暗躍し、夥しい数の人間の運命を狂わせてきた存在でござる」
その辺りは、依耶が「味付け」と称してご丁寧にも俺に話した事柄と整合している。
「歴史上で「悪霊の仕業」とされてきた現象の99・99%以上は、実は超常現象でも何でもなく、単なる物理的現象あるいは人間の仕業でござる。
しかしながら残り0・01%未満は確かに「悪霊の仕業」と呼ぶにふさわしい現象であり、それらの現象のほとんどに『あれ』が関わっていたのでござる。
……『あれ』は超対称性粒子で構成された超対称生命体であり、『あれ』もまた物理法則に束縛される存在でござるが、それを知らぬ人間にとっては、まさしく『悪霊のかしら』と呼ぶべき超常的存在でござろうな」
先生は一旦言葉を切り、俺が話を理解しているかどうか確かめるかのように数瞬の間凝視してから、次の言葉を続ける。
「で、拙者達の祖先は、先ほど述べた類の災いを退ける事を生業としてきたのでござる。
その歴史において、悪意の超対称生物を相手に戦う術を研鑽し続け、また、『あれ』に敵対する超対称生物との親交を深めてきたのでござるよ」
「『あれ』に敵対する超対称生物……「マカミ」と呼ばれた蒼い狼や、「アジュール」と呼ばれた天使の事ですか?」
「左様」
「グレイの聖者の茨も?」
「左様」
「メルリンの事は、どのくらい前から御存知でした?」
「幼少期、拙者の父親から話だけは聞かされておったでござる。
……実際に初めてメルリン殿に相見えたのは20歳の頃でござったし、それからもそう頻繁に会ったわけではござらんが」
「それじゃあここ2~3ヵ月の間、メルリンから「ガーデスに対する奇襲作戦」について相談を持ちかけられませんでしたか?」
その作戦とは、言うまでもなく、メルリンが俺に対する頼み事として持ち掛けて来たものだ。
「持ちかけられたでござる」
「でも今の状況から見て、先生がメルリンの『隠れ蓑』役にならなかったのは明らかだ。
……何故です? 俺よりずっと、適任である様に見受けられるのに」
「う~ん、それはじゃな、」
〈それについては、私から説明しましょう〉
ほんの少しだけ困った様な表情で話を続けようとするゴズモフ先生の言葉を、メルリンの言葉が遮った。
〈既に私以外の超対称生命体と「同調」している人間に重なって隠れようとしても、上手く隠れる事は難しいからです。
……例えばの話、既に五体を武器と化しているかのごとく屈強な人間が、衣服の至る所に武器を隠した状態で、重要人物がいる場所でのボディチェックを誤魔化せると思います?〉
「……まあ、無理だな。……あ、それじゃあ、やっぱりゴズモフ先生も……」
「左様。超対称生命体が、重なり合っているでござる」
先生がそう言ったとたん、先生の体から鉄色に鈍く光る靄のようなものが湧き出て来た。
数秒後、それは明確な輪郭を持った像となった。
その像は、黒い頭巾付きの外套を纏い、全身を板金鎧で固めている屈強な人間のような存在であった。
その存在は、髑髏を思わせる鉄仮面と思しきものと、大鎌と思しきものを、装備していた。
鉄仮面と思しきものの双眸は赤く光り、大鎌と思しきものの柄は真っ直ぐで頑強に見え、銀色の光沢を帯びている。
大鎌と思しきものの柄は、むしろ『両手棍』に見える。
その上端の側面には窪みが有り、窪みからは大きな黒い刃が付き出ている。
それは、あらゆる波長の光を吸収するかのような、黒だった。
「こ、これは……」
その姿を見た誰もが、『死神の騎士』と形容したくなる様な存在であった。
「斯様な姿ゆえ、見せるのをためらったのでござるよ」
ゴズモフ先生が、少しばかりばつの悪そうな顔でそう言った。
〈紹介しましょう。彼の名は、「ハイド」。
真神、聖者の茨、そしてアジュールと同じく、地球起源の超対称生命体です。
この様な姿をしていますが、邪悪な存在ではない事は、この私が保証しますよ〉
「拙者はハイドの様な存在を『メイト』と呼び、グレイとキョウコ、そしてマリは、同様な存在を『ガーディアン・スピリット』と呼んでいるでござる。
拙者達はみんな日本語を解するでござるが、日本語だと、ハイドは『相方』と言ったところでござるかな。
グレイとキョウコは『スピリット』の部分に精神の「精」と霊魂の「霊」という漢字を当て、マリは『スピリット』の部分に「聖人君子」の「聖」と霊魂の「霊」という漢字を当てているでござる。
日本語の発音だと、どちらも『しゅごせいれい』でござるが」
「そ、そうですか……」
メルリンとゴズモフ先生がハイドを紹介している間、ハイドは全く喋らなかった。……なんかこわい。
ハイドの姿はとても威圧感に満ちているが、ここはメルリンの言葉を信じるとしよう。
〈とにかく、既に別の超対称生命体と「同調」している人間に、私が重なり合って隠れるのは難しいのです。
無理矢理隠れようとしても、敵の雑兵にすらバレバレになってしまうでしょうね。
それに、当初は誰か1人だけに『隠れ蓑』役になってもらって、その人と私とだけで奇襲をかけようと考えていたのですが、敵の動向を探っているうちに、それも難しくなってきた事が判明しました。
敵は大幅に兵力を増強し、索敵能力と検査能力に長けた中級以上の個体を、特に増やしていたのです。
……だから、私は作戦を変えました。
あたかも私と隠れ蓑役の人間1人だけで奇襲をかけようと考えているかのごとくふるまって、敵を欺きました。
そして、敵が重要な計画を実施する日――つまりは本日に、まずは協力者の皆さんに陽動作戦を実行していだだくよう、お願いしたのです〉
「その陽動作戦を実行したのが拙者達、というわけでござる。
あたかも、拙者達のうち誰か一組が、メルリン殿と隠れ蓑役の人間との組であるかの様なそぶりを見せつつ、な」
何とも日常からかけ離れた話に、俺はどうにかついていった。
俺は一度既に非日常に巻き込まれているし、今もまさしく現在進行形で、歴史上あまり例が無かったであろう類の非日常に巻き込まれている。
その背景を矛盾無く説明できる話であれば、どんなに突拍子も無い話だろうと、受け入れざるを得ない。
そう思いつつ、俺は尋ねた。
「グレイとキョウコ、それにマリさんは、みんなゴズモフ先生の親戚なのですか?」
「4人全員ではござらん。マリが拙者の姪である事は既に話した通りじゃが、「血族か?」という意味の問いかけであれば、グレイとキョウコは、拙者とマリのいずれとも血縁はござらん。
しかしながら4人全員、『あれ』とその配下の者どもを退散あるいは滅却させるべく協力し合う者達の一員、という点では共通しているでござる」
とその時、一体の怪物が上空からこっちに向かって突進してきた。
全体的には虎に似ているが、頭に牛の様な角が生え、体毛は山荒に似ており、尻尾は蛇のそれで、広げると翼開長6mほどもありそうな猛禽類の翼を持った、全長約5mの空飛ぶ怪物。
さっきガーデスの傍にいた奴だ。
乱戦の最中、敵陣からこっち側に意図せずして飛び出てしまったのだろう。
そいつは、半ば恐慌状態で襲いかかってきた。
しかし1回瞬く間に、そいつは頭から尻尾まで縦一文字に真っ直ぐ斬られていた。
いつの間にか、ハイドがそいつを一刀両断していたのだ。
ハイドの持つ大鎌の黒い刃は更に大きくなっており、まるで巨大な生物の鉤爪のような形に変形していた。黒い刃は全長数メートル位あるだろうか。刃の角度は柄に対して平行に近くなっている。
両断された怪物は断末魔を上げる事すら無く急速に分解し、塵となった。
その塵は速やかに黒い刃に吸収された。塵を吸い尽くすと、黒い刃は元の大きさと角度に戻った。
「ハイドの『無慈悲なる大鎌』の刃は……あらゆる電磁相互作用を阻害する暗黒の刃。
切れないものは殆ど無いでござるし、その気になれば、切ったものを分解・エネルギーに変換して吸収する事もできるでござる」
ハイドは大鎌を構えた姿勢で甲板から数cm浮いたまま滑るようにして後退し、ゴズモフ先生の左前方に着地し、そのままの姿勢で待機した。
「さっきの怪物は……中国大陸で妖怪『窮奇』として伝承される存在でござったが……ハイドには敵わぬでござる。
下僕ではなく、『あれ』そのものなら、話は別でござるが」
ゴズモフ先生の言葉に、メルリンが次の言葉を続ける。
〈上位の配下に半ば恐慌状態に陥る者が出始めたのであれば、終局は近そうですね。
……今さっき健も見た通り、私が陽動作戦をお願いした方々は、私が当初想定したよりも大きな戦闘力を有しています。
だから、陽動に止まらず、通常物質側に進出した敵を掃討する作戦もお願いする事にしました。
そのおかげで私は、今ここに在る1体の私以外の殆ど全ての分身を、地球の中心核付近に巣食っているガーデスの本体を滅ぼす作戦に動員する事ができたのです〉
「侵蝕は食い止めたんじゃなかったのか?」
〈侵蝕を食い止めてはいたものの、滅ぼすには至らなかったのですよ。……ついさっきまでは〉
「ついさっきまで?」
〈はい。私は他の分身全て及び本体と意識を共有しているので、本体及び分身のいずれか1体が認識した事象を、何光年離れていても瞬時に、全ての分身及び本体が認識できます。
更に言えば、私の本体と分身の区別において、厳密な境界は有りません。
分身のうち操るエネルギー量が最も大きなものを便宜上「本体」と呼んでいるだけで、仮に「本体」が破壊されても、分身のうちいずれかが新たな「本体」となります。
どんなに小さくとも分身が1体でも残っていれば、新たな「本体」と複数の「分身」を復元可能です〉
「君のその性質と同様の性質を、ガーデスも持っているんだな?」
〈はい〉
やっぱり。俺の推測は当たっていたようだ。
メルリンは、今俺が見ている「赤い奴」を「司令官」と呼び、地球の中心核付近に巣食っている本体を「首領」と呼んだが、それらの呼称は便宜上のものに過ぎない。
「首領」が滅んでも「司令官」が生き残れば、そいつが新たな「首領」となり、新たな「司令官」や眷属を生み出せる。
……メルリンは「ついさっきまでは」と事も無げに言ったが、それはつまり……
〈はい。ついさっき、地球の中心核付近に巣食っていた本体を、滅ぼしました〉
メルリンはえらくあっさり言ったが、事実そうなのだろう。
何しろ、彼の力は強大だ。
グレイとキョウコ、ゴズモフ先生、そしてマリさんと、各々に重なり合っている地球起源の超対称生命体達との力を全て合わせたのと同じかそれ以上の力を、彼は持つ。
彼の『存在感』からして、それは間違い無い。
メルリンと名乗る「今ここに在る彼」だけでなく、他の分身全て及び本体の力の総計は、計り知れない。
その計り知れなさを考えれば、「ガーデスの本体を滅ぼした」との宣言を、事実に反すると考える尤もな理由は無い。
「それじゃあ後は、闇の結界の中に籠城している赤い奴を滅ぼせば、終わりか?」
〈はい。そして、戦況に余裕が出て来たので、こうして再び私があなたの前に現れる事が可能になりました。
もっとも、敵の勢力圏内に瞬間移動するには、妨害を防ぐための標識が必要なのですが〉
「……その標識とは、もしかして、マリさんが俺にプレゼントしてくれた三日月のペンダントの事か?」
〈はい。あの三日月のペンダントは、私の体から切り分けたごく小さな部分を材料にして作ったものです。
元々私の一部であり、私から分離した後も量子もつれ状態が保たれています。
それ故、敵の通信妨害の影響を受けずに、私が瞬間移動を行う際の標識として機能するのです〉
「少しばかり時間をかけてあのペンダントを観察してみた限りでは、高純度の白金で作られている様にしか思えないんだが?」
〈はい。――私にとって、元素転換は難しい事ではないですから〉
「……げ、元素転換? それが難しくないって!?」
20世紀のSFの巨匠・アジモフが書いた『金の卵を産むがちょう』の話じゃあるまいし。
現実の科学史上、ルイ・ケルヴランの様に「生物の代謝活動の中で元素転換を行う事は可能」と主張した学者はいた。
しかし21世紀に入って3分の1近く経った現代においても、そんな主張をしたらほぼ間違い無くトンデモ学者の烙印を押され、まっとうな科学者からはインチキ扱いされるだろう。
ケルヴランの理論はツッコミ所だらけで、元素転換に伴うエネルギー収支の問題さえ満足に取り扱えない。
初めから手の込んだジョークとして書かれたアジモフのがちょうの話の方が、科学的にはよっぽど筋が通っていたくらいだ。
因みに、アジモフ自身、有能な本職の生化学者でもあった。
〈健、私があなたに出会ったばかりの頃、私が「その気になれば、周囲の物質やエネルギーを分解して全身から吸収する事も可能」と言った事を覚えていますか?〉
「ああ」
〈その応用ですよ。私は、分解した物質やエネルギーを、通常物質に変換する事も超対称物質に変換する事もできます。
勿論、通常物質である鉄を超対称物質に変換してからまた元の鉄に戻す事ができます。
そしてエネルギー収支に矛盾が無いのであれば、再変換を行う際、必ずしも元々の通常物質と同じ元素構成にする必要はありません。
鉄を超対称物質に変換した後、通常物質への再変換時に金に変える事も可能です〉
「その能力で、白金も造れるわけだ。それどころか、他の貴金属や希土類元素なども」
〈お安い御用です〉
これでようやく、マリさんが俺に三日月のペンダントをプレゼントしてくれた時の、意味深な発言の真意が分かった。
貴金属や希土類元素を造る事を「お安い御用」と言ってのける存在にとって、金・銀・銅も白金も、「さして高価な物とは思えなくなる」だろう。
メルリンにとって白金製の三日月のペンダントを作る事は、人間が自らの髪の毛を切って編み物を作るのと同じ位の容易な事であるようだ。
「……量子重力理論の謎を解いて『万物の理論』を知るに至った存在にとって、元素転換ぐらい朝飯前、というわけか」
〈もしもあなた達地球人の文明が順調に発展すれば、いずれ同じ事ができる様になるでしょう〉
もしも、メルリンがやってのけるのと同じ位の容易さで元素転換を行う技術を、今の地球人が手に入れたら一体何が起こるだろうか?
経済が大混乱するのは間違い無い。
金本位制が廃止された現代社会でも尚、金は貨幣の価値に大きな影響を及ぼし得るが、元素転換技術は金の魔力を大きく減ずる事になる。
その代わり、元素転換を容易に成し得る様な技術力が、その技術の単なる一産物と化した金に取って代わって、貨幣の価値を担保するのかもしれない。
少なくとも俺は、そう思う。
――ここまで考えて、俺は、ふと思った。
メルリンと同等の力を持つガーデスもまた元素転換の力を持つはずだが、ガーデスの眷属はどうだろうか?
高位の眷属なら、ガーデスから元素転換の力を授けられていても不思議ではない。
「悪魔を召喚して錬金術を行った」などという伝承のうちいくつかは、ガーデスあるいはその眷属と契約した人間が引き起こした事柄に基づくのかも知れない。
〈あなたの推察は的を射てますよ、健〉
やはりそうなのか。
〈因みに、今あなたを守っているその三日月のペンダントは、組成についてだけ言うと純度100%に近い白金です。
しかしながら、私が意図的に作り出した格子欠陥や不純物が細胞状自動機械の要素として機能します。
それゆえ、ある程度の情報処理や外部への物理的干渉を行える自律的な機器として動作します。
先程も話した通り、そのペンダントと私との間で量子もつれ状態が保たれているので、遠く離れた所からそのペンダントを介して、私が力を行使する事も可能なのです〉
細胞状自動機械……あれか、『ライフゲーム』みたいなものか。
『ライフゲーム』――整然と並んだ桝目の各々を白く塗るか黒く塗るかを決めるごく単純なルールが、まるで生物のごとく多様なふるまいを見せるという、知的ゲーム。
このペンダントが実はセルラー・オートマトンの実装例になっているとか、これまたとんでもない話だ。
今は3次元集積回路を研究している大学時代の知人に教えてあげたら、大いに興味を持つのではなかろうか。
「で、そのペンダントが俺に渡された理由というのは……」
「勿論、メルリン殿が練り直した策に基づくものでござる」
しばらく黙っていたゴズモフ先生が、再び口を開いた。
〈そのペンダントを持たせるだけなら、増強された敵の検査能力を以ってしても、発見される事はありません。
私が一旦あなたと別れた後、ガーデスがあなたを付け狙っている事について確証を得ました。
そこで、そのペンダントをあなたに持たせて、ガーデスがあなたを襲おうとするのをペンダントを通して察知した途端、私が瞬間移動してガーデスを討つ、という策を立てたのです〉
ガーデスが俺を付け狙った理由というのは、依耶が言う所の「味付け」を施した俺の魂を喰らう為だったわけだが。
俺は危うくガーデスへの生贄にされるところだったのだ。
「もっとも、上手くペンダントを手渡せる状況に辿り着くのは至難の業でござったがな。
メルリン殿やアジュールが持つ未来予知の能力が無ければ、上手くペンダントを手渡せる時と場所が分からないままであったかも知れん」
〈予知した未来に対して行動を変えた後、別の未来が見え、それに対して更に行動を変える……それを何回か繰り返しましたね〉
途方も無い行動を事も無げにやってのける話を聞いたのは、今夜だけで何回目だろうか?
もう、大抵の事では驚かない。
ただ、未来予知の原理が物理学や数学の見地からはどう説明されるのかは気になった。
古典物理学の見地からは、未来予知に関して、『ラプラスの魔』という理論上の存在がかつて考察された事がある。
その『ラプラスの魔』は、全宇宙の素粒子の位置と運動量を同時かつ確定的に知る知覚能力とそれを全て記憶する能力、そして全ての素粒子について運動方程式の解を求める計算能力を兼ね備えた、超越的存在である。
もしも『ラプラスの魔』が存在するなら、いかなる過去や未来であろうとも計算し尽くし、何が起こったかあるいは何が起こるかを100%確実に知る事ができる――はずであった。
ラプラスの魔にとっては生憎だが、仮にラプラスの魔が本当に存在するとしても、その能力は我々が知る物理法則が成立する世界では通用しない。
なぜならば、我々の世界では『不確定性原理』という強固な物理法則が成立し、素粒子の位置と運動量を【同時かつ確定的に】知る事は【原理的に】不可能であるからだ。
ラプラスの魔が我々の世界に対して能力を発揮しようとするには、我々の世界の物理法則を根底から御破算にしなければならない。
そんな事をすれば、計算すべき世界そのものが存続できなくなり、結局は我々の世界について何も計算できなくなる。
仮に不確定性原理が成立しない異世界があったとしても、ラプラスの魔が計算し尽くせるかどうか怪しい。
なぜならば、たとえ無限の計算能力を持っていようとも、「計算」に基づいて答えを出そうとする以上、
『ゲーデルの不完全性定理』や
『万能テューリングマシンの決定不能定理』に
引っかかるからだ。
それらの定理は、
「あらゆる計算手順を網羅しているはずの計算システムをどの様な方法で構成しようとも、その構成された計算システムの枠組では答えを出せない問題(決定不能な問題)が、少なくとも1つ必ず存在する」
事を示している。
それは、「計算システム」の一種と見做せるラプラスの魔にとっても、計算不能(決定不能)な問題が少なくとも1つ常に存在する事を意味する。
先述の定理は数学的に厳密に証明されている。それを否定しようとしたら既存の数学全部を否定する破目になり、結局、何も計算できなくなる。
――現実の世界は「何も計算できない」などという可笑しな事にはなっていない。
既存の数学に基づいた計算で答えが出る問題が数多有る事は紛れも無く真実であり、既存の数学から導かれた先述の定理もまた紛れも無く真実である。
ところで、計算機科学に携わっている者の中には、「物理法則を完全に知る事ができれば何でも計算で答えを決定できる」という決定論的前提に立って「自由意思」を否定する者が、不思議な事に少なからずいる。
たとえ「物理法則を完全に知る事ができる」という根拠を是とするとしても、「何でも計算で答えを決定できる」という根拠は一体何処から持ってきたのだろうか?
依耶がその様な自由意思否定論者を見たら、たぶん嗤い出すだろう。
何にせよ、少なくとも今の俺の頭では、物理学および数学の見地から未来予知について上手く説明する方法を思いつかない。
俺が未来予知の原理を気にかけてから諸々の事を連想したのは、時間にして10秒前後だったろうか。
その連想は、メルリンによって遮られた。
〈連想中のところ失礼しますが、戦いの終わりが近付いてますよ?〉




