同窓会
12月24日。
依耶が企画した忘年会兼同窓会の日は、あっという間に近づいて来た。
日本語で12月の事を「師走」とも言うが、その由来には諸説有り、どの説が正しいか定かではない。
一説によると「師と仰がれる様な立派な人物さえ忙しさのあまり奔走する月」だからという理由で「師走」なんだとか。
とにかく、毎日いつも通りに仕事をしているだけで忘年会兼同窓会の日は急速に近づいて来たので、俺は事前に準備を済ませていた。
新たな礼服を買ったり、散髪に行ったり、往復の交通手段を予約したり、当日の仕事を定時で終わり翌日有給休暇を取れる様に段取りを付けたり。
そして当日。俺は東京国際クルーズターミナルに向かう。
依耶が企画した忘年会兼同窓会の会場、それは豪華客船
『いずれ来る幸運』号の船上であった。
当日から翌日にかけてのスケジュールは、
午後6時半出港、航路から街の夜景を眺めつつ、
午後7時に開会の挨拶、
その直後に食事会(1次会)開始、
午後9時からフリースタイルパーティー(2次会以降)、
翌日午前8時に静岡県の清水港に入港、
午前8時半に富士山を背景にして閉会の挨拶、
そして解散、という流れになっていた。
俺の出身大学は高名な科学者・高級官僚・政財界の有力者等を多く輩出しているので、殆どの場合、その種の人間が同窓会の幹事となる。
それゆえ同窓会は毎回盛大なものになるが、今回は歴代の中でも最大であろう。
何しろ、あのヨリヤグループの総帥が幹事なのだから。
会場として豪華客船を一晩占有するという時点で豪気だが、その豪華客船が元々ヨリヤグループ傘下の海運会社が所有する現在世界最大の豪華客船ともなれば、今のところ依耶以外の誰にも真似はできまい。
来年の新年会・忘年会や同窓会の幹事はさぞかし重圧を感じるだろうな。ま、俺が幹事になる事はまず有り得ないが。
そんなわりかしどうでもよい事を考えつつ、俺は乗船口の係員に招待状を見せ、乗船する。
『イベンチュアル・フォーチュン』号は総トン数24万8千トン、全長377・62m、全幅67m。
その偉容は「洋上を渡る楽園」と呼んでも過言では無い。
美食・娯楽・休養のための施設を満載しており、この船単体でリゾート地として完成している。
最大乗船人数は乗組員を含めると6千人を超え、ちょっとした街の人口に匹敵する。
イベンチュアル・フォーチュン号には、5千人以上の乗客が乗っていた。
――会の告知用特設Webページによると、最終的な参加人数はだいたいそれくらいらしい。
開会式の場は、船内の公園。植物園さながらに草花や樹木が植えられており、ここが船上だという事を忘れてしまいそうなほどの見事な公園だ。
公園の上には、光の透過率と反射率を変えられる強化多機能プラスチック製の開閉式天幕が有る。
また、天幕を開けた状態でも空調設備が生み出す空気の帳によって外気を殆ど遮断する事ができ、公園内の気温と湿度は快適に保たれる。
開会の挨拶の後すぐに飲食を楽しめるよう、食事会は公園内でのビュッフェスタイルパーティーとなっていた。
俺が船内公園に入ってしばらくして、依耶の挨拶が始まった。
「皆様、本日は私、依耶 瑁人とヨリヤグループが主催する忘年会兼同窓会に御出席くださり、誠にありがとうございます!
……私は堅苦しくて長ったらしい挨拶を好まないので、手短に済ませます。
世界の平和と経済の先行きに暗雲が立ち込める中、今回お集まりいただいた皆様は、各々方が得意とする分野で日夜奮闘されている事と存じます。
世界の平和と経済のために奮闘なさっている皆様にこそ、今宵の宴の様に羽を伸ばせる場と一時が必要であると、私は確信しています。
なればこそ、今宵は大いにお楽しみください!」
依耶はそう言って、すぐ近くのテーブルに準備された盃を手に取り、乾杯の音頭を取った。
「それでは皆様、乾杯!!」
依耶が乾杯の掛け声と共に盃を掲げると、船内公園に集まった全員が「乾杯!!」と叫んで盃を掲げた。そうして、宴は始まった。
早くも、依耶の周囲には人だかりができている。
その顔ぶれの中には、ネット動画ニュースやテレビでよく見かける国内外の芸能人や財界人や政治家などが多く含まれる一方、俺が顔を知らない人物も多数含まれている。
どちらにしろ、今や政財界で内閣総理大臣を上回る影響力を持つ依耶 瑁人の威光に肖りたいとの思惑で群がって来たのは間違い無い。
依耶は自分の周囲の人間に愛想良く振舞っている。
俺はその様子をしばらく眺めていたが、唐突に、依耶と目が合った。
「やあ! 健、来てくれたんですね!」
いきなり親しげに声を掛けられ、俺は驚いた。
依耶は丁寧に人だかりをかき分け、俺の側に近づいて来た。
そして、依耶は俺に握手を求める。
俺はその動作につられる様にして右手を出し、彼と握手を交わした。
困惑する俺の両眼を、依耶はなぜか2~3秒間凝視した。
気のせいか、心の中を覗き見られている様な感触を覚えた。
依耶は俺の両眼から視線を外してから、言葉を続けた。
「紹介しましょう。彼は、滝本 健。
我がヨリヤグループのMAGIソリューションズに勤めるAIトレーナーです」
人だかりの中から響きが聞こえる。当然だろう。
どよめく者達は「天下のヨリヤグループの総帥から直々に紹介された、こいつは一体何者だ?」と思っているに違い無い。
人だかりの中から何人かが歩み出て、俺の事を更に詳しく尋ねてきた。特に、俺の仕事とか経歴とか。
内心どぎまぎしつつも、どうにかして淀み無く話す事ができた。
もしも依耶が招待状に添えた暗号通貨MAICAの受取用QRコードが無ければ、MAICAで上等な礼服を買う事ができず、もっと気まずい思いをしていた事だろう。
「馬子にも衣装」という諺が有るが、良く言ったものだ。
2ヶ月ほど前に無事完了した、ニュートリノ捕捉式走査システムの走査制御AIの件を除けば、俺はこの人だかりから歩み出た者に対して気後れ無く語れる程の実績を持ってはいない。
それでも、歩み出て来た者達は名刺交換を求めてきた。「今はまだ実績に乏しいが、あの依耶 瑁人が直々に紹介したぐらいだから、将来有望な人材なのだろう」とでも思ってくれたのだろうか。
俺は、ある者に対してはペルソナ管理下の電子名刺を、またある者に対しては昔ながらの紙の名刺を、それぞれ交換した。
ふと気が付くと、依耶がいない。
おおかた、別の場所でまた人だかりに囲まれているのだろう。
それにしても。やはり依耶は強く意識して俺をこの忘年会兼同窓会に招いたようだ。
そればかりか、人だかりができている所でわざわざ俺を紹介した。
どういうつもりだろう? 彼は俺の事を気にも掛けていないのではなかったのか?
俺の『嘘を見抜く能力』には何も引っかからず、俺には、彼が心底から俺を歓迎している様に感じられた。
メルリンの話通りなら、今の依耶にはメルリンと同格の存在が憑依しているはずだ。
依耶に憑依しているであろう存在はメルリンにとって不倶戴天の敵であり、世界の破壊を目論む存在らしいが……俺と握手した時の依耶はとても爽やかで、邪悪な存在に憑依されている様には到底見えなかった。
もっとも、人知れず悪事を働く人間というものは、往々にして、表面上は人当たりが良いものらしい。
「いかにも詐欺師に見える詐欺師」ばかりなら、詐欺の被害者が出るわけは無い。
依耶に憑依しているであろう存在に対して、メルリンがまだ奇襲を仕掛けた様子が見られないのも気になる。
俺以外の候補者の中から、奇襲の際の隠れ蓑役を引き受けてくれる人間が今日までに見つからなかったのだろうか?
今日はあきらめ、別の日に奇襲するつもりだろうか?
それとも、今この瞬間も、隠れ蓑役となっている誰かと重なり合って、奇襲の機会を伺っているのだろうか?
疑問は一旦脇に置こう。俺の体――特に脳が、栄養分を欲している。
俺は、普段口にできない様な、豪華で高価な食材の味を楽しんだ。
クラッカーやフランスパンの上に盛られたキャビア、ウニやイクラやネギトロの軍艦巻き、からすみ入りのパスタ、焼いたとらふぐの白子、松坂牛のステーキに、焼いた黒トリュフのスライス……等々。
腹八分まで食べたところで、俺はグラスを持って海が見える場所まで移動した。
グラスの中身は、スパークリング日本酒。
以前、友人に「だまされたと思って飲んでみろ」と言われて勧められて以来、俺のお気に入りとなった。
――船内には、人間の給仕係はもちろん、給仕ロボットも多く歩き回っていたので、宴の場となっているどの区画でも、気兼ね無く器を交換でき、飲み物のおかわりやつまみを注文できた。
もちろん、宴が開かれている間、全部無料である。
俺は船の側面に沿って設けられた通路に出た。
今の所ここは人がまばらで、落ち着いた気分で海を眺める事ができる。
――さっきみたいに人が多い所は、どちらかと言うと苦手である。
船は常に陸地が見える航路を進んでおり、街の光が、まるでクリスマスツリー用の電飾の様に見えた。
実に良い眺めだ。
今夜だけ、俺がどこかの良家の御曹司にでもなったような気分になる。
これで、見目麗しき女性でも傍にいてくれたら、最高なのだが。
と、その時。まさにその妄想が形になったかと錯覚する様な淑女が、通路の向こうから静かに歩いて来るのに気付いた。
かなりの長身で、ひょっとしたら、身長174cmの俺より背が高いかもしれない。
いわゆる「スーパーモデル」だろうか。チャイナドレス風の白い礼服を身に纏っており、礼服の上からでも、女性として理想的なプロポーションを有している事が見て取れる。
かなり鍛えてもいるようだ。何かスポーツか武術でもやっているのだろうか。
年の頃は20代前半、顔立ちは東洋系に見える。肌は小麦色でしっとりしている。
くっきりした鼻梁は優美な曲線を成しており、眉も同じ様にくっきりした優美な曲線を描いている。
滑らかで張りの有る唇は健康さを感じさせるピンク色。
髪は烏の濡羽色で、光の加減によっては緑色に見える艶を帯びている。その髪を結って、頭の左右両側でシニョンを作っている。
俺が思わず見惚れるほどの美貌を持つその女性は、しかしながら、意志の強さを感じさせる濃い琥珀色の瞳を俺の方に向けてはいなかった。
俺がその女性の視線の先を見ると、紳士と呼ぶに相応しい雰囲気を漂わせた男性が通路の反対側から歩いて来るのに気付いた。
その男性は、黒いモーニングドレスを纏っていた。
背丈は俺より若干高い程度。一見して細身だが、よく見るとがっちりした体つきをしている事が、礼服の上からでも分かる。
年の頃は20代前半。色白で、甘いマスク。髭は見当たらない。
長過ぎも短過ぎもせず整えられた豊かな髪は濃い焦茶色。
彼の濃い紅茶色の両眼は、彼女の方を真っ直ぐ向いていた。
ほどなく、男女はお互いのすぐそばまで歩み寄る。
女が先に口を開いた。
「状況は?」
「まだ進んでないね」
男が答える。
使われている言語は英語だった。流暢なクイーンズ・イングリッシュである。
「そう……ならば、待つしかないわね」
女がそう言った時、男が俺の視線に気付いた。
「……何か?」
男が訝しげに俺に訊ねる。
俺は慌てて返答する。
「あ、いや、良いカップルだな、って思って」
……ああ、俺のバカ。言うに事欠いて
何言ってんだか。
しかしながら意外にも、二人が気を悪くした様子は無かった。
女は気恥ずかしげに顔を朱に染めてはいたが。
男にいたっては、満面の笑みを浮かべていた。
「おお、褒めてくれてありがとな!
良ーいだろー、俺の嫁! 」
男はそう言って女の腰を抱き寄せる。
女は「きゃっ!」と可愛らしい叫び声を上げた。
男の口調は、いつのまにか、ハリウッド映画でよく聞く様な、くだけたアメリカ英語の口調になっている。
「俺の嫁は、そりゃあもう、良い女でなー、
毎晩抱……うぐぅっ!!」
いきなり、女は男の脇腹に肘鉄を食らわせ、男を沈黙させた。
「バカ言ってないで! ダンスにでも行くわよ!!」
女は顔をやや俯けながら男の手を掴んで強引に引っ張り、男と一緒に、俺の目の前から立ち去っていった。
さっきの肘鉄……すごくガチだった様な気がするんだが……。
食らったのが俺なら、アバラが2〜3本イッてたかもしれない。
それはさておき、何にせよ、あの男女の間に俺が立ち入る余地は無い。
さっきの様な素敵な女性とお付き合いできるならばそれはもう素晴らしいと思うが、相思相愛の男女に野暮な干渉はしたくない。
だいぶ昔に『略奪愛』とかいう言葉が流行ったらしいが、俺はそういうのが大っ嫌いだ。
……それにしても。さっきの男女は俺にとって初対面であるはずなのに、なぜか、以前どこかで会った様な気がする。
どこだったか……思い出せない。たぶん気のせいだろう。
気を取り直して、俺は船内の別の場所へ移動した。
このイベンチュアル・フォーチュン号には、大小合わせて数十ものホールや集会場が有る。
今回の忘年会兼同窓会では、食事会が1次会という位置付けで、2次会以降はフリースタイルのパーティーになっていた。
依耶の取り計らいにより、フリースタイルパーティーは、主催者が異なる個別のイベントの集合体となっており、嗜好が異なる者それぞれが好きなイベントを選べる様になっていた。
もちろん、食事会の参加者は、2次会以降に参加せず早々にそれぞれの宿泊部屋に戻っても構わない。
フリースタイルパーティーの中には、飲み会、カラオケ会、ダンスパーティー、演奏会、映画鑑賞会、仮装パーティー……等々が含まれていた。
俺は、特に深く考えず、コスプレパーティーに行ってみた。
船の乗客が乗客だけに、幕張メッセ辺りで開かれる様なコスプレパーティーとは少々雰囲気が違っていたが、コスプレイヤーのレベルは総じて高い。
……いわゆる「上流階級」の人の中にも、サブカルチャー的なものに親しんでいる人はある程度いるらしい。
ホール内のあちら側にダルタニアンと三銃士がいると思えば、
こちら側にはアーサー王と円卓の騎士団がいる。
ドン・キホーテとサンチョ・パンサがいると思えば、
法螺吹き男爵と異能の従者達もいる。
三国志の英雄達もいたし、
玄奘三蔵法師・孫悟空・猪八戒・沙悟浄の御一行、
桃太郎と鬼、光源氏、輝夜姫、
アラジンとランプの魔人、
ホームズとルパン、モリアーティ教授もいた。
大体は古くから読み継がれてきた古典的名作の登場人物に扮している者が多かったが、中には漫画・アニメ・ゲームのキャラクターを演じている者もいた。
あちらには竜退治の勇者がいるし、こちらには黒い武道着の男が……
「Oh!」
目移りしてると、若い女性と思しき誰かにぶつかってしまった。
「ごめんなさい! お怪我はありませんか?」
俺は即座に振り向いて謝る。
そこには、白いローブに身を包み両手に大振りの節くれだった樫の杖を持った、「お嬢さん」と呼びたくなる様な若い女性がいた。
艶やかな蜂蜜色の金髪。
花弁を連想させるふっくらとして滑らかな表面の唇。
丸みを帯びた白磁器を連想させる整った顔。
そして、スターサファイアの様な紺碧の双眸。
俺が女性に見惚れてしまったのは、今夜2度目だった。
「あ、お、俺、滝本 健と言います!
MAGIソリューションズに勤めるAIトレーナーです!」
俺は殆ど条件反射的に紙の名刺を差し出していた。日本人サラリーマンの哀しい性質である。
……ああ、俺のアホ。何で見当違いなやり方で自己紹介してるんだか。
そんな俺を見て、彼女はクスクス笑いだした。少なくとも、悪気は無さそうだ。
「日本人の勤め人って、ほんと、いきなり名刺を差し出す人が多いんですのね。
私も4分の1は日本人ですけど」
彼女の口からは、驚いた事に、流暢な日本語が飛び出してきた。
「私の全姓名は、マリ・エアリーズ・リーマン。
『マリ』の部分は、漢字だと「真実」の「真」に「理性」の「理」で、『真理』と書きますの。
『リーマン』の部分は、数学者のリーマンと同じ綴り。
……間違っても、日本人がよくやる様な「サラリーマン」という単語の変な略し方や、今世紀初頭の世界金融危機で顰蹙を買ったどこぞの金融屋さんとは、全く関係無いですわよ?」
彼女が自らのフルネームを紹介するくだりの末尾辺りには、「間違ったらただじゃおかないわよ?」というニュアンスが感じられた。
間違われて不愉快な気分になった事が少なからず有るのだろう、たぶん。
俺は、間違っても、彼女の姓について間違った事を言う気にはならない。
「私は名刺を持ちませんけど……名刺替わりに、これをお渡ししますわ」
彼女は近くの壁に杖を立て掛け、懐から何かを取り出した。
それは、三日月型をした白金色のペンダントであった。
「……いいんですか? こんな高価そうなもの」
「良くってよ。……それが作られた経緯を知れば、さして高価な物とは思えなくなるでしょうから」
「……え?」
彼女の意味深な発言の真意を問い正そうと思ったが、その試みは、いつのまにか俺の左隣りに来ていた壮年の大男の声に阻まれた。
その声も、流暢な日本語だった。
「おお、マリ、お前もこっちに来ておったのじゃな」
「伯父さまっ!」
彼女は喜びの表情を浮かべ、いきなり壮年の大男に抱きつく。
「これこれ、昔と同じくこうしてくれるのは嬉しいが、もう少し人目を憚りなさいな。
お前ももう年頃の女性なのじゃから」
「じゃあ、二人きりの時なら良いのね?」
「いや、それはそれで別の問題が有るじゃろ。実の伯父と姪の関係じゃぞ?」
「えー、でもー……」
彼女はちょっぴりむくれ顔になる。
……うわ、何この可愛い生き物。
俺が彼女にまた見惚れていると、壮年の大男が自己紹介を始めた。
「おお、申し遅れた。
拙者、ジーキル・ゴズモフと申す者でござる」
「拙者?」
「ああ、日本語の習得に当たって古い時代劇の動画を好んで教材にしたせいでござるかな。
言葉遣いが少々古風なのはご容赦めされよ。
拙者はプロテスタントの牧師でござるが、大学教授として物理学を教えている身でもござる」
と言う事は、彼の牧師服はコスプレじゃないのか!
「……あ、え、えーと、改めて自己紹介します。
私は滝本 健と言います。
MAGIソリューションズに勤めるAIトレーナーです」
俺は、マリさんに名刺を差し出した時と同じ様にして、紙の名刺を差し出す。
意外にも、彼はそれを興味深そうに見た。
「ほほう。
『ニュートリノ捕捉効率の飛躍的向上の可能性』という題名の修士論文を書いた、
あの滝本 健 君かな?」
「はい」
「あれはなかなか面白い論文でござった。
そのまま博士論文として査読を通っても可笑しく無い出来でござったな」
「あ、ありがとうございます!」
まさか、海外の大学教授に評価されるとは思わなかった。
「今は会社勤めをされてる様じゃが……博士課程には進まなんだかな?」
「はい、色々ありまして」
「……うむ、これ以上深くは聞くまい。
事情は人それぞれでござるからな」
豊かな黒髪と立派な黒髭を備えた厳つい顔をしているが、その濃い灰色の双眸からは、穏やかな印象を受けた。
「……さてと、拙者とマリはこの後用事が有るゆえ、失礼いたす。
いつか機会が有れば、物理学について語り合おうぞ」
「それじゃ、またいつか会いましょうね」
マリさんは壁に立て掛けていた杖を再び手に取り、先に歩き出した伯父に寄り添いつつ、軽く手を振って、この場を後にした。
……うん、可愛い女性だ。
俺はしばらく彼女との出会いの余韻に浸っていたが、唐突に船の最上甲板に出たくなり、コスプレパーティーの会場を後にした。
空に綺羅星と殆ど新月になりかかった月、海の彼方の陸に無数の灯りを眺めながら、俺は船の最上甲板で、マリさんから貰った三日月型のペンダントを目の高さに掲げて凝視した。
詳しく分析しないと断言できないが、ぱっと見、本物の白金で作られている様にしか見えない。
「それが作られた経緯を知れば、さして高価な物とは思えなくなる」だって?
どういう意味だ?
マリさんを呼び止めてでも真意を問いただすべきだったろうか。
だが、「用事が有る」との事だったし、その状況で呼び止めるというのも無粋だ。
俺は三日月型のペンダントをスーツの胸ポケットに入れ、考え込んだ。
その時、俺を呼ぶ声が聞こえた。
「おや、健、こんな所にいたんですね」




