誰何
ほうほうのていで駅のホームから逃げ出した俺は、わざわざいつもと違う道を通ってアパートの自分の部屋に戻った。
誰かが俺を不審者だと思って通報するかと思ったが、冷静に考えてみれば、刃物か何か持って暴れていたのだったらともかく、単に大声を上げただけの奴をいちいち通報する理由が無い。
関わらない様に目を背けて遠ざかるのがせいぜいだろう。
その様に考える程度の冷静さをようやく取り戻した俺に、また、声が聴こえて来た。
〈……少しは落ち着きましたか?〉
さっき駅のホームで聴いたのと同じ声。その声は俺よりやや年上の男性の声として聴こえる。
穏やかで、知性を感じさせる声だ。
「だから、誰だよ!? あんた?」
俺はまた思わず叫んでしまった。隣人が帰宅していたら、叫び声のうるささに苛立って壁を叩くかもしれない。
〈私の名前は……そうですね、とりあえず『メルリン』とお呼び下さい〉
「とりあえず?」
もっと冷静になろうと努めつつ、俺は声の大きさを下げて問いかけた。
なんなんだよ、その、あからさまに「本当の名前じゃありません」的な返答は。
〈私の本当の個体名は、人間には正確に発音できませんから。無理に発音しようとすると、ちょうど、鳥の鳴き声を人間が真似しようとするのと似た事になるでしょう〉
うん、幻聴にしては、話す内容が理路整然とし過ぎている。
仮に俺が、高名な数学者のナッシュも患ったという統合失調症に罹患しているのだとしたら、ここまで筋の通った会話は成立しないだろう。
「で、そのメルリンさんは何者なの?」
〈その質問にできるだけ誤解無い様にお答えするには、少々込み入った話が必要です〉
「幽霊か?」
〈『死んだ人間の想念が何らかの仕組みにより実体化したものか?』という意味でしたら、違います。
そもそも『霊』という言葉の定義が曖昧で、答えづらいですね〉
「神か? 悪魔か?」
〈それもまた、問いの中で使われている言葉の定義が曖昧であるゆえに、答えづらい問いですね。
――少なくとも私は、人間が神話や経典や教義などで「神」あるいは「悪魔」として語り継いでいる存在と、自らとを、同一視していません〉
「宇宙人か?」
〈『人間に似た地球外生命体か?』という意味なら、違います〉
「地球外生命体か?」
〈はい〉
ようやく、簡潔明瞭な答えが返って来たな。
地球外生命体だと言うのが本当なら、次の質問は当然、これだ。
「何の目的で地球に来た?」
〈私の敵を完全に滅ぼすという目的の為、地球に来ました〉
……なんっ、だよっ!? いきなり物騒な答えが出て来たぞ?
俺は内心の動揺をなるべく悟られまいとし、努めて強気な声で質問を続ける。
「その敵とは、人間か?」
……まあ、耳を通さず直接俺の脳にメッセージを送っていると思われる者相手に、内心の動揺を隠そうとしても無駄だとは思うが。答えはすぐに返って来た。
〈いいえ〉
『はい』と答えられたらどうしようかと思った。しかし、安心するのはまだ早い。嘘をついているかもしれないし、それに……
〈嘘はついていません〉
わずかながら抗議の念がこもった声で彼が反論したので、俺の思考は一瞬の間中断した。
――メルリンの声は男性の声として聴こえるから、『彼』と呼んでも差し支え無いだろう。
そんな事より、気になる事はいっぱい有る。
「……やっぱり、心を読めるんだな」
〈はい。あなたの脳の言語野で発声準備が整った時の神経網の発火パターンを解析して、何と言おうとしているかを読み取る事はできます。
頭に浮かんだ事柄――いわゆる表層意識――を読みとる事もできます〉
「もっと深い所も読み取れるのか?」
〈あなたの同意を得て、私との同調状態になれば、何の後遺症も残さずに実行できます。
同調無しに無理矢理実行すると深刻な後遺症や死を招きますが、私はその様な野蛮な事を好みません〉
唐突に、俺の人生で最大級と感じられる強烈な冷気が、背中を貫いた様な気がした。
『背骨に氷柱を詰められた様な感覚』というのはこういう感覚の事なのだろう。
彼にとっては単に客観的事実を述べただけのつもりかも知れないが、俺にとっては「その気になればお前を殺す事はいつでも簡単にできるぞ」という事実を告げられたに等しい。
あまりにサラッと告げられたその事実に底知れぬ恐怖を感じ、俺が次の質問を思い浮かべられずにいると、意外にも、彼は慌てた様な声で俺に語りかけて来た。
〈ああ! お、落ち着いて下さい! 先程もお伝えした通り、私の敵は人間じゃありませんし、あなたに危害を加えるつもりは毛頭無いですから!〉
まさか地球外生命体になだめすかされるとは思わなかった。とりあえず敵意が無さそうな事は分かったものの、まだ体の震えが止まらない。
それでも、何とか気力を振り絞って、次の質問を発した。
「に…人間だけじゃなく、ほ、他の生きものも、お前が滅ぼしたいと思っている敵ではないのだな?」
〈はい。私の敵は、私と同様に地球外生命体です。原則として、私の敵を滅ぼす事によって地球由来の生命体に多大な被害が及ぶ事を、私は好みません〉
原則、ね。と言う事は、例外的な場合は対応が違うわけだ。
〈はい。その『例外的な場合』とは、私の敵によってこの地球の生命体が操られている場合です。
操られた生命体に対しては、敵の支配から解放して救う試みを、私の力が及ぶ限り最大限行いますが、全ての場合において救えるという保証はできません〉
「……ほんっとうに、込み入った話だな」
彼が俺の質問に理路整然と答えようとしているのは分かったし、実際、疑問は1つずつ解消されてはいる。
しかし、疑問が1つ解消される度に新たな疑問が生じている感は否めない。
アパートの自室に帰り着いてからというもの、玄関でずっと立ちつくしたままで彼との奇妙な問答を続けて来たが、さすがに疲れた。もう少しくつろいだ状態で話を続けたい。
〈冷蔵庫の中に、アイスコーヒーとチョコレートケーキが有ると思いますが、それを居間で飲み食いしながら話を続けても構いませんよ?
私は人間用の飲食物を飲み食いしなくても生命活動を難無く維持できますので〉
「なんでアイスコーヒーとチョコレートケーキの事知ってんだよ……」
〈私があなたに直接話しかけるのは今日が初めてですが、それ以前から『無言の干渉』は行っていました。
――あなたの知覚能力を徐々に増強して、私の存在を認知可能にするためです。
それは、あなたが今年9月の満月を何気無く凝視していた時から始まっていました〉
あの時からかよ! あの時確かに、いまだかつて感じた事の無い奇妙な感覚を感じたが、原因はそれかい! そして、俺の知覚能力増大の原因は彼の干渉か!!
〈その通りです〉
彼の方は少なくともその時以降の俺の日常をだいたいお見通しだったってわけか。プライバシーも何もあったもんじゃないな。
もしかして、1ヵ月ほど前に仕事中に居眠りをしてしまった時に窮地を脱したのも……?
〈はい。私があなたの体を操って、仕事を片付けました〉
敵意が無い事を表明したとは言え、その気になればいつでも俺を簡単に殺したり操ったりできる相手がすぐそばにいるという事実に比べれば、プライバシーの問題すら些細な問題と化してしまう。
〈……すっかり気を悪くしてしまった様ですね。ごめんなさい〉
あ、一応謝ってはくれるんだ。シャレにならない力を持っている割には、意外と謙虚なんだな。
〈そう思って頂けると幸いです〉
次に何を話すかを考え、彼に話しかけようとして、彼に人称代名詞で呼びかける際の問題に思い至った。
仮にも俺より格上の存在、さっきまでみたいに「あんた」や「お前」とかじゃこの先まずかろう。
かと言って、今更「あなた様」とかは、取って付けた様な感じがして嫌だ。
さて……
〈『君』で良いですよ。名前で呼ぶ時は単に『メルリン』と呼び捨ての方が、気楽で良いです〉
それで良いんだ。じゃあ、そうしよう。
「……まあ、何にせよ、君が俺をわけのわからない厄介事に巻き込んでくれたおかげで、尋ねたい事が更に増えた。話の続きは居間でじっくりさせてもらいたいけど、いいよな?」
〈はい〉
俺はようやく靴を脱ぎ、部屋の中へと上がった。




