背後の幻影
2泊3日の検証旅行から帰り、親友に放射線測定器を返却した翌日、俺が周囲の環境を認識する仕組みに、更なる変化が起きた。
朝起きて、いつものように出勤する途中、道行く人全ての背後に朧げな人の形をした幻影が見えた。道行く人の誰ひとりとして、自らの背後の幻影に気付かない。
何だアレは!?
物凄く気になったが、幻影の正体を今すぐ探る気にはならない。――遅刻してしまうからだ。
疑問を棚上げにして、俺は職場への往路を急いだ。
定刻通りに職場に着くと、案の定、職場で見かけた人間全ての背後にも、人の形をした幻影が見えた。
物凄く気になったが、自分の仕事に無理矢理意識を集中させる。――が、仕事はあまり捗らない。気掛かりな事が解消しないままでは、仕事が捗らないのは当然だろう。
午前中の小休止の時間に、チャンスができた。たまたま同僚の頭上を蠅が飛んでいたので、それを追い払うふりをして、2~3名の同僚の背後の幻影に、手を突っ込んでみた。
案の定、何の抵抗も感触も無く、俺の手は幻影をすり抜けた。
幻影の方も、俺に対して何の反応も示さない。
もしこの幻影どもが「実体を持つ何か」であれば、自らを視認している可能性が高い存在(つまり俺)に対して何の反応も示さないというのは、考え難い。
この幻影どもは、本当に『影』の様な受動的な現象であるらしい。
誰かが俺に注意を向けた時はその背後の幻影も俺に注意を向けた様に見えるが、俺に注意を向けていない人間の背後に在る幻影が俺に注意を向けた事は、一度も無かった。
結論付けるには検証回数が少ないが、とりあえず気掛かりな事を頭の片隅に追いやるには充分だった。
午前中の小休止の時間の後、俺はいつも通りに仕事に専念できた。
その日の仕事が終わり、帰りの列車に乗った時、俺は今朝から見え始めた『幻影』が影の様に受動的な現象に過ぎない事を、より強く確信し始めた。
列車の中には朝に比べて割と多くの人間が乗っていたので、俺の手どころか胴体の一部が誰かの背後の幻影に重なり合う事もままあった。
が、やはりそれらの幻影が俺に対して何らかの能動的な反応を示す事は、一度も無かった。
たまに、誰かが俺に一瞬視線を向けると、その背後の幻影もつられるようにして同じ動作をする、という事は有ったが。
やがて、俺は何事も無く列車から降りる。
駅のホームにいる大勢の人間は皆、そのすぐ背後に朧げな人の形をした幻影を漂わせていた。
喜びに満ちた表情をした、穏やかな金色の光を発散する幻影。
怒りに満ちた表情をした、鈍い赤色の光を放つ幻影。
哀しげな表情をした、どんより澱んだ濃い灰色に見える幻影。
楽しげな表情をした、淡い桃色の光を帯びた幻影。
それぞれの人間の精神状態を反映した、それぞれの幻影。それらの幻影は全て実体ではなく、それぞれの人間の精神状態の視覚化に過ぎない。
暗闇の中でお湯の入った湯のみを見る実験をした時や、先日の検証旅行で放射線を知覚した時と同様に、これらの幻影は、それぞれの人間に付随する情報がARシステムの様に重ね合わせられて、俺が見ているものであるに過ぎない。
いわゆる「後光が見える人」の能力は、もし真実であるとすれば、この様なものなのだろう。
最初のうちは戸惑ったが、見慣れてしまえばどうという事は無い。
そう、あの、くたびれた中年男性の背後に見える幻影も……
……何だ? あの幻影。
幻影にしては輪郭がやけにくっきりしてるぞ?
最初は錯覚かと思った。しかし、その幻影と思しきものは、今まで見た事の有る朧げな幻影とは違う、明確な輪郭を持っていた。
そいつは卑劣さがにじみ出た邪笑を浮かべ、くたびれた中年男性の方に視線を向けている。頭には頭髪が無く、代わりに瘤とも角ともつかぬ物が両側頭部の上端部に1つずつ付いている。
全身は古いゴムを汚泥に浸したかの様な質感のドス黒い皮膚で覆われ、服らしきものは何一つ身に着けていない。身長は1m余りだろうか。
生殖器は見当たらず、代わりに先端が尖った鞭の様な短い尻尾が見える。
腕と脚は人間同様2本ずつ有り、両手足の指には鉤爪が生えている。
そして背中には蝙蝠の翼に似た物が生えているが、貧相で、とても飛べそうにない。
それにも関わらず、そいつは宙にふわふわ浮いていた。
幻影ではなく、実体なのか?
いや、俺以外に、周囲の人間の誰一人としてそいつが見えていないらしい。その様子は、そいつが幻影である事を示す充分な証拠だと思われた。見えていたら、大騒ぎになるはずだ。
それに、そいつは明確な輪郭を持つものの、体がわずかに透き通っており、そいつの体の向こう側の景色を辛うじて見る事ができた。
さらに言うならば、そいつからは酷い悪臭を感じ取れた。腐ったドブの様な臭い。この距離でこんなに顔をしかめたくなる悪臭ならば、俺よりもそいつの近くにいる何人もの人間が不快感を訴えてもおかしくないはずだが、そんな様子も見られない。
つまりこの悪臭は、常人の五感では知覚不能なそいつの何らかの属性を示すものであり、つい最近何度も体験した共感覚と同じ様なしくみで嗅覚信号に変換され、俺が知覚しているものであるらしい。
その幻影――ドス黒い肌の小人の姿をしているそいつは、俺から見られている事にはまるで気付いてないらしい。くたびれた中年男性の方を面白がるようにして夢中で見ている。
その、いかにも人生に疲れ切ったという印象を体全体から発している中年男性は、ふらふらと覚束無い足取りで、線路に向かって少しずつ歩き始めた。
彼の頭は覚束無い足取りのせいでゆらゆらと揺れている。
その中年男性の背後にいるドス黒い肌の小人は、いかにも愉快で堪らないというような狂喜の邪笑を浮かべ、ゆれに合わせる様にして、中年男性の頭を何度も何度も軽くはたいている。
顔を横にして見たならば、まるで頭をバスケットボールに見立ててドリブルしているかの様に見えた事だろう。
その中年男性の足取りは、明らかに、背後にいるドス黒い肌の小人に支配されているかの様に見えた。
線路には、駅に停車しようとする列車がいつの間にか間近に見える。
その中年男性の異様な様子はもちろん、その背後にいる奴にも、俺以外の誰も気付いていない。
……このままではあの男性が轢き殺されてしまう!!
思わずその男性に向かって手を伸ばしたその瞬間。俺の全身から光の奔流が溢れ、俺の体は轟音を発した。
ギュヲォーーンッッッ!!
無理矢理カナで表現するとしたらこんな感じだろうか、ジェット旅客機のエンジン音を短く圧縮したかの様な轟音。
そして、俺の全身から溢れ出た、白金色の、まばゆい光の奔流。
バシュッッ!!
高圧蒸気の噴射音の様な音を感じたのと、光の奔流が中年男性の背後にいるそいつ目掛けて収束するのを見たのは、ほぼ同時だった。
〈ギィャアァァァァァァ~~ッッッ!!!〉
そいつの凄まじい断末魔の絶叫と共に、そいつの体は白金色の激しい炎にたちまち灼き尽くされた。
灰となったそいつの体は急速に分解され、ほどなく、そいつの存在を示す一切のものが消滅した。
この一連の過程を知覚した者は、その場にいた人間の中で俺以外には誰もいなかった。
俺の体から出た轟音も白金色の光の奔流も、そして今さっき灼き尽くされた奴の断末魔の絶叫も。
そして、危うく線路に落ちるところだった中年男性は辛うじて列車との接触を免れ、我に返り、身震いした。
10秒か20秒くらいの間、その男性は驚愕の表情を浮かべたまま硬直していたが、こころなしか、その両眼は生気を取り戻したかの様にも見える。
いつの間にか、その男性の背後にその男性本来のものと思われる『幻影』が見える様になった。
やがて、その男性とその背後に現れた新たな幻影は慄きながら列車から離れ、駅の改札口に向かって一目散に走って行った。
走っていった男性の様子に訝しんだ者は何人かいたが、俺が知覚した現象を知覚した者は、やはり俺以外に誰もいない。
常人を遥かに上回る知覚能力を得た副作用で、俺の精神は異常をきたしてしまったのだろうか? 精神科医の診察を受けた方が良さそうだ。
〈いいえ、あなたの精神状態は正常ですよ。精神科医の診察を受ける必要は有りません。……もう少し込み入った話をしたいので、とりあえず、帰宅して頂けませんか?〉
とうとう幻聴まで聴こえる様になったか。いよいよヤバいな。
〈だから幻聴じゃありませんってば〉
「あんた、誰だよ!?」
俺は思わず声を荒げ、明らかに自分の声とは違う声の主を探して辺りを見回す。
しかし声の主の姿は辺りに見つからない。その代わり、奇異な物を見るような目で俺を見る人の姿が何人か目に入った。
マズい。はたから見たら、今の俺はただの変な人だ。
俺は慌てて駅のホームから逃げ出した。




