なろう小説のアニメ化考察
なろう小説のアニメ化が相次いでいるが、それに対するアニメクラスタの反応はあまり芳しくない。原作レイプかとも思ったが(実際にそのような意見も見かけるが)、一応それなりに円盤は売れているようなので従来のなろうの住人はそれなりに気に入ったと思っていいだろう。
なろうの住人とアニメクラスタが全く交わっていないことは“「イセスマ」で検索すると異世界スマホを絶賛する声が多数!? 「今の若者が分からない…」「イセスマと異世界スマホはきっと別アニメ」”というTogetterまとめを見ればなんとなくわかる。
おそらくこれは男は女よりも筋力が高いといったような性差みたいなもので、永遠に埋まらない構造上の溝であると思う。
男女平等を求めて女性を肉体労働系の職場に送り込むことが非効率であるように、なろう小説をアニメ化するのがそもそも間違いだと思うのだ。
既存のアニメ原作(ここでは仮にラノベとする)となろう小説の最大の違いは掲載媒体だろう。
書籍とインターネットサイト。どちらも文字媒体だから同じように思えるが、明確な区切りの有無という違いがある。
あまりに分厚い本は製本しづらいし読みづらい。だからどこかで区切って話を終わらせる必要がある。いくら続編があろうと特に山も谷も設けずに本を終わらせるのは良い行いとは言えない。
インターネットサイトにもページ遷移という区切りはあるが、それはどちらかといえば栞を挟むための便宜的な区切りであり、書籍では見開いた2ページに値するものではなかろうか。
章という機能もなろうには存在するがそれを挿入できる間隔にこれといった制限はないし、ラノベでも章で分けることは普通に行われる。「本が最後のページを迎える」という区切りに相当するものはない。
この区切りの有無はアニメ化の際に響いてくる。アニメは1クール6時間前後でほとんどの場合は終わる。ラノベは「本が最後のページを迎える」という区切りに合わせるようにアニメも終わらせればいいが、なろう小説にはそれがない。
なろう小説は色々と宙ぶらりんなままアニメが終わることになる。
また、作品に対するファーストインプレッショの違いもある。
ラノベの場合、まず視界に入ってくるのは表紙、とタイトルだ。
なろうの場合、まず視界に入ってくるのはタイトルとあらすじだ。
どちらもタイトルが最初に目に付くことに変わりがないので長文タイトルが増えたわけだが、問題はもう一つの方。
ラノベは表紙(えてしてアニメ絵のキャラクター)が最初の印象を作り、なろう小説はあらすじが最初の印象を作る。
必然的にラノベにはキャラクターを求める人間が多く集まり、なろう小説にはストーリーを求める人間が多く集まることになる。それぞれ売りが全く異なる作品に発展していくことは想像に難くない。
それを踏まえてアニメ化がもたらす原作のファンにとっての利点を考えよう。
ラノベのアニメ化とはすなわち「静止画だったキャラクターが動くこと」である。
キャラクターが好きでその作品に触れているのだから嬉しくないわけがないと言える。
ところが、なろう小説をアニメ化したところで得られるのは「原作のストーリーを再解釈した、さほど変化のないストーリー」である。
アニメ化にかけた労力に見合うものが得られるかと言えば甚だ厳しいと言わざるを得ない。しかもその再解釈に割けるリソースは先述のアニメ化の尺の都合に大きく制限される。
なろう小説のアニメ化には「この作品はアニメ化するほど人気の作品です」と大手を振って言えるようになること以外に、なろう小説のファンにとっての利点など無いのではないか。
なろうというプラットフォームはラノベを駆逐する勢いで急速に発展している。
ラノベの発売形式である「少数の出版社の人間による審査」よりもなろう小説の「多数の将来の顧客による審査」の方がウケが良いのは疑いようがない。
だが、そこから先のアニメ化という展望を考えたときになろう小説という内容は大きく足を引っ張ってしまうことになる。
念のために言っておくが、どちらが良くてどちらが悪いという問題ではない。
そこには無意識のうちに感じ取れる差があるというだけだ。