一の二 箱
青年が落ち着いて左右を見ると、左隣りの部屋の住人も手摺りから体をはみ出さんばかりにそれを凝視している。なにやら話し声も聞こえ、手摺りまで近づいて下を見れば、大家の奥さんと一階の住人が不機嫌そうに小さな声でそれに対して愚痴のようなものをこぼしている。通りの方からも話し声が聞こえ、どうやらやじ馬が集まっているようだ。
「あれって何かな?」
隣人の男がこちらをまったく見ずに言った。
青年はいきなりの質問に驚いて隣人を見た。
それまでろくに話したこともなく、自分よりも年上であるとしか知らない隣人に対して、当たり障りのない返事をする。
「黒い……壁……いや、建物じゃないですか」
「箱にも見えるな。魑魅魍魎でも入ってるのかな?」
初めてまともに会話をしたが、まともな会話をした気がしない。
「たった一晩でどうやって造ったんでしょう? やっぱり箱で、ただの張りぼてなんですかね?」
「まさかさっきの揺れを気がつかなかったのか? 大石君。あれは一瞬で出来たんだよ」
それまで瞬きもせずに黒い物体を見ていた男が、いきなりこっちを見て言った。おまけに名前を知らない相手に自分の名前を呼ばれ、思わず身構えてしまったのでその言葉の意味をまったく理解できなかった。
隣人は再び正面に顔を戻して言った。
「俺もその瞬間を見たわけじゃないが、工事の音と話し声が一瞬消えたと思ったらあの揺れが来たんだ。急いで出たらあれがあった。状況から見て、あの一瞬でこれが現れたのは間違いないだろう」
大石青年は隣人の言葉のごく一部だけ理解できた。
「工事の人達は何処に行ったんです?」
隣人は驚いたように大石を見る。
「盲点だ。そうだ。どうしたんだろう?」
首と体を左右に大きく動かし、隣人は物体の全体を把握しようとする。
大石は興味なさそうに、道まで出て眺めて来ればいいのに、と冷ややかに見ていた。
隣人は今にも手摺りから落ちそうなほど体を乗り出して、アパートの軒よりもはるかに大きい物体のてっぺんを見ようとした。
「やっぱりあれの中かな……」
不安定な体勢のまま呟く隣人に促されるように、大石も軒の上をのぞいた。
物体は無論壁ではなく、箱でもなかった。真っ黒の壁は大石の予想をはるかに上回るほど上空まで伸びていた。
再度まともな精神状態ではいられなくなった大石は、自然と口を開いた。
「オベリスク」