三の三 水之下
前回から大分間が空いてしまいすみません。御評価、御感想よろしくお願いします。
大石と深水は全身ずぶ濡れで、ボートに寝転んで天井を見上げていた。
二人の感覚で一時間程、何の取っ掛かりもない鏡の壁を登ろうという無茶をしたのだ。目測で300メートル以上の垂直の壁。不可能に決まっている。
しかし、大石にはじっとしているなどできなかった。小柄で軽い大石は、1、2メートルはなんとか登れた。四角の角で、直角に面した壁に手足を突っ張って登るのだが、直ぐに滑って水面に落ちる。
始めは呆れた様子で見ていた深水も、がむしゃらな大石に感化され、登り始めた。
そうして疲れ果てた二人は、ボートの上で仰向けに寝ていた。その状態のまま、大石は深水に言った。
「思ったんですけど……あそこの空間が普通で外とつながってるんなら、ここの時間とかも外と同じなんじゃないんですか?」
深水も仰向けのまま、顔も動かさずに答えた。
「伸びる時だけ通常になるのかも知れないだろ。あっちのオベリスクは不連続的に伸びてただろ」
「何怒ってるんですか?」 深水の言い方には刺があった。
「こんなの登れるわけがない。時間と体力の無駄だった」
よほど腹が立ったのか、深水はそれから黙ってしまった。
大石は寝転がりながらも、何か方法がないか考えた。天井まで登ることは不可能。壁を破る方法は皆無。溜め息をつきながらうつぶせになり、何気なくボートの縁から水面を眺める。
魚の姿は見えない。よどみ、濁った水は、1メートル程の深さまでしか見えない。
「下ってどうなってるんですかね?」
深水は答えず、黙ったまま体を返し、水面をのぞいた。
奥が見えない茶色い水が、かえって壁に囲まれた小さな池をまるで底無しのように感じさせた。
「このオベリスクに秘密があるとすれば、地下だろうな」
「秘密ってなんです?」
大石は体を起こして、あぐらをかいて深水のほうを向いた。
深水のほうは相変わらず寝たまま言う。
「何のためにこれが出てきたのかだ。……どうせこうしてても仕方ないし、調べるか」
深水はようやく起き上がって、上半身を大きく水面に乗り出した。その勢いでボートが揺れ、水面に同心円の波が立った。
大石は一応用心でボートの縁をつかんで揺れを抑えようとした。揺れは徐々に小さくなり、波はボートから離れて広がっていった。
最初の波が鏡にあたり、跳ね返ってくる。四方の壁からかえってきた波は、互いに干渉しあい、ボートの周りで不規則な波になった。
何気なく波を目で追っていた大石は、波を個々に判別出来なくなり、波紋の異常さに気付いた。沸き立つように好き勝手な場所で凹凸を作る波は、いつまでも小さくならず、今は波のせいでボートが小さく揺れている。
「なんだこれ?」
深水はそう言ってボートの両縁をつかんだ。波はおさまるどころかむしろ大きくなり、既に立ち上がれないほどボートは揺れている。
大石も深水とは反対側の縁から濁った水面を注意深く観察した。波と、掻き回されて舞った泥などの不純物で水面のすぐ下すら見えなくなっている。
突然の、鳴咽と水の跳ねる音に、大石は後を見た。深水が嘔吐していた。確かにひどく揺れているが、そんなに突然吐き気が来るとは考えにくい。だが、大石のほうも異常な吐き気に襲われていた。船酔いなどほとんどしたことがない。何かがおかしい。
深水が搾り出すように掠れ声で言った。
「音だ」
大石にもその言葉は聞こえたが、その意味を理解できるほどの余裕はなかった。
「低周波だ。音源は……下だ」
深水は顔だけボートから出し、虚ろな目で水面を見ている。
いつのまにかさざ波は失せ、大きなうねるような波がボートを上下に揺らしている。
二人の脳はもはや揺れも感じなくなり、吐き気と不快感で頭の中は満ちて理性や思考を失っていった。