二の五 水上
岸から数百メートル先の水面にそびえ立つそれは一点だけアパートの横に建った物と異なった。
大石たちは岸からそれを見上げていた。兵衛老人が感心しながら言う。
「また高くなったな」
このオベリスクは既に200メートルを越えているだろう。太さは同じようだから、こうなると塔と言うより棒だ。
「同じオベリスクなんですか?」
深水の質問に兵衛老人が嬉しそうに答える。
「人間が調べられる分析方法では全くの同一体。各辺の長さ、角度、高さ。僅かな誤差すら無い」
「高さって……全然違うじゃん」
ヒロミの疑問には深水が答えた。
「オベリスクは徐々に高くなっていた。つまりあっちのオベリスクもこれと同じ高さになっている……。そういうことですね?」
「理解が速くて助かるな。そうだ。あれは全て、同じタイミングで同じ分高くなっている」
兵衛老人の言い回しに気になるところがあり、大石は聞いた。
「全て? まだ他にもあるんですか?」
兵衛老人はなぜか、失敗したというような顔をし、渋々口を開く。
「……全部で八柱だ」
その言葉に大石が何か返そうとしたが、衛正がいきなり会話を止めた。
「無駄話は後にしましょう。ここもあの町同様封鎖されています。ようは敵地にいるようなものです」
ヒロミは疲れた顔になって文句を言う。
「また逃げるのか……」
「その前に……あれを側で見れませんか?」
大石の愚問に、衛正は呆れるというより驚いて答えた。
「奴らはあれを監視してるんですよ! 自ら捕まりに行くようなものだ」
残念そうな大石を見て、兵衛老人は口の端を上げた。
「面白い。衛正、どうせ強行突破するのだろう? 行かせてみろ」
「大父! 何を?」
衛正は信じられないという表情で兵衛老人と大石を見比べた。
「確かにここからの経路はやや強行ですが、それにしてもその行為は無謀です……」
衛正の言葉を遮るように、兵衛老人は有無を言わさぬ鋭い目で衛正を見た。その口元は、何かを企むように歪んでいる。
衛正は一瞬、兵衛老人とアイコンタクトを取り、まだ不満そうだが、妙にあっさりと言った。
「より可能性の低い賭であるとお忘れなく」
大石には何が賭であるのかわからなかった。ただ、あれを側で見たかっただけだ。
「俺も行かせてください」
深水の希望を予測していたように兵衛老人は言う。
「まあ、いいだろう」
「私も……」
「ヒロミ、お前は駄目だ」
ヒロミの意思は、兵衛老人に頭から否定された。
「なんで!」
「危険だと言っているだろう」
言葉は少ないものの、その真剣な表情はヒロミの言葉を完全に封じてしまった。
大石と深水の感心はすでにオベリスクに向けられ、兵衛老人のそんな態度に気が付く余裕はなかった。
岸には、捨てられたボートが一隻あった。大分古いようだが、幸い穴などは開いておらず、何とか使えそうだ。
「くれぐれもお気を付けください」
二人がボートに乗り込むと、衛正はそう言ってゆっくりと押した。ボートがゆっくりとオベリスクに向かって進む。二人はボートに残されていた今にも折れそうなオールでボートを進める。
「ところで、ここってどこですかね?」
大石が不意に思った疑問を口にする。
「風景とかさっきの地下水道とか考えると、多分奥多摩湖だろ」
深水はすでにオベリスクに目を奪われたまま答える。
大石はその言葉を確認するように辺りを見回す。岸にヒロミたちの姿はなくなっていた。それを不審に思いながらも、大石は水をかいた。
オベリスクまであと100メートル程に迫った。その高さに圧倒される。先端を見上げていると首が疲れるほどだ。オールを持つ手の動きが鈍くなっている二人を、その声が現実に引き戻した。
「そこのボート。直ちに引き返しなさい。今この湖は一般人の立ち入りが禁止されています」
スピーカーからの声だ。深水は一瞬オベリスクから目を離し、大石を見た。その目には決意が込められていた。次の瞬間、二人は全力でボートを漕ぎ出した。
「停まりなさい! その物体は非常に危険です。停まりなさい! ……警告に従わない場合は発砲します!」
それでも二人は水をかき続けた。
遠くで破裂音がした。それと同時に、ボートのほんの2、3メートル先で水が跳ねた。
それでも二人は止まらない。異様な興奮状態にあった。それが危険によるものなのか、オベリスクに近付いたことによるものなのか、二人に判断は出来なかった。
ついに1メートル先で飛沫が上がる。しかしオベリスクまですでに10メートルもない。そこからはもう、銃撃も放送も無くなった。
近付いて見ると、やはり質感等はあのオベリスクとそっくりだ。だが、大石にはそんな詳細なことよりも、この巨大な物体自体に異様とも思える畏怖の念を抱いていた。真下から見上げると、まるで天を支えているか、天を貫いているかのようだ。
他の何をも忘れてオベリスクを見入る大石を、深水の叫びが現実に呼び戻した。
「大石君! 船をを停めろ! ぶつかる!」
正面を見れば、どんどん黒い壁が迫って来る。すでに3メートルもない。二人は必死にボートを停めようとしたが、さっきまで全力で進めていたものが急に停まるはずがない。
「ぶつかるぞ!」
こういう時は水中に飛び込めばよかったのだろうが、二人は体が硬直してしまった。ぶつかったと、二人が思った瞬間、何の衝撃もなく、世界はただ漆黒の闇に包まれた。
「なに! どうしたの?」
林の中からボートを見ていたヒロミは、思わず上ずった声を上げた。ボートがオベリスクにぶつかったと思った瞬間、ボートが消えたのだ。いや、それは正確ではない。ぶつかる瞬間にオベリスクが一回り太くなり、ボートはそこに沈み込むように音も無く滑りこんだのだ。そして次の瞬間には、オベリスクは元の太さに戻っていた。水面には、ただボートが消えただけのように、ボートが進んだことで生じた波しかない。オベリスクが太くなったことで波は生じなかったのだ。
突然サイレンが鳴り響いた。オベリスクを挟んで反対側の岸に何人もの人間が現れる。それを見計らい、衛正は言った。
「今のうちです」
ヒロミは信じられないという顔で見る。
「二人は? どうするの?」
衛正は何も答えずヒロミの顔を見る。そこからは残酷な決意が読み取れた。
何も言わない衛正に代わり、兵衛老人が口を開いた。
「何かあればお前を最優先にすると言ったろう」
「囮にしたの?」
ヒロミの目には、怒りと僅かな涙が浮かんでいた。
「そうしなければ私達三人も逃げられない。犠牲は二人で充分だ。急ぐぞ」
まだ何か言おうとするヒロミの口を、衛正が塞いだ。ヒロミはもがいて振りほどこうとしたが、衛正はそのまま塞ぎ続けた。やがて息が続かなくなり、ヒロミは意識を失った。
気を失ったヒロミを衛正は背負い、兵衛老人と無言で目配せすると、何も言わずに林の奥へと進んで行った。
衛正の姿が見えなくなると、兵衛老人はオベリスクの方をまた見て呟いた。
「封印か……」
オベリスクの周囲には、十隻以上のボートが取り巻いてなにやら作業を始めていた。
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