九の巻
阿国座『枕獅子』初演から二日後、徳川家光の一行は再び日光社参に出発した。
江戸を出発してから四日目に日光に到着し、二日過ごした後、帰途についた。
家光の影武者となった松五郎は、少しずつ将軍の生活が板についてきた。
将軍の馳走を食べ、将軍の美酒を飲み、将軍の着物をまとい、将軍の部屋で寝る。
女も少年も好きなだけあてがわれた。
日光での儀式や典礼は退屈だったが、きらびやか毎日は、これまでの過去を忘れさせるほど魅惑に満ちていた。
明日は江戸城に戻る。
松五郎は岩槻城の中奥二十畳の部屋に一人で寝ていた。
「松五郎先生」
聞き覚えのある声で昔の自分の名を呼ぶ声がする。
松五郎は起き上がり、行燈の明かりを灯す。
「松五郎先生」
暗闇に三郎の顔がぼんやり浮かび上がる。三郎は黒装束に身を包んでいる。
「三郎じゃないか。なぜここに」
「昨日、『枕獅子』の千秋楽でした」
「どうだった?」
「連日、大入りでした」
「うまく『枕獅子』は演じられたのか?」
「おいらは二日目だけです。三日目以降は立役の勘之助が『枕獅子』をやりました。勘之助は前から女形がやりたかったそうです」
「そうか、勘之助がやったのか」
「・・・・」
「ところで三郎、どうしてここがわかった」
三郎の目つきが変る。
「まだ儂に気づかぬか」三郎が老人のしわがれ声で言う。「それとも気づかぬふりをしているのか」
三郎はおもむろに懐から能面を取り出し、顔にかぶる。
「お頭」松五郎がつぶやく。「お頭の正体は三郎だったのか」
松五郎は能面党の「ま」組に所属していたが、「ま」組の組頭の顔は見たことがなかった。
ただ声だけは知っていた。
しわがれた声から老人だとばかり思っていたが、少年だったとは。
歌舞伎役者なら、老若男女、どんな声でも真似ることはできる。
「能面党の掟は覚えておるな。抜け忍、裏切り者は殺す」
三郎は背中の刀を抜く。
「待ってくれ」
松五郎は布団から飛び起きようとする。
だが三郎の振り下ろした刀の方がわずかに速い。
夜の岩槻城の中奥から、断末魔の悲鳴が響き渡る。