八の巻
阿国座の演目『枕獅子』は、長唄に合わせた女形の舞いが見どころの歌舞伎だった。
前半は恥じらう女の舞い、後半は獅子に転じ、たてがみを振り回す荒々しい舞い。
女形、藤島松五郎は両手に開いた扇子を持って優雅に舞っていた。
客席は大入り満員。
三味線の音が舞台に響く。
長台詞を一気にまくし立てると、大向こうから声がかかる。
「沢田屋」
「二代目」
すると背後に黒子がそそくさと駆け寄る。
黒子の手伝いで藤色の着物を脱ぐと長唄の曲が変わり、下に着ている紅色の着物で別の舞いを舞う手筈になっていた。
「変な気起こしたら」黒子が松五郎の耳元にささやく。「命ないわよ」
女忍者だ・・・・。
思わず扇子を落としそうになる。
松五郎はなんとか取り繕い、舞いを続ける。
自分は柳生の忍者たちに必死に命乞いをして、『枕獅子』の初演に間に合わせた。
初演が終われば彼らの元に戻ると約束した。
戻ったらもう一生、ここへは帰れない。
これから松五郎は自分が殺した男――将軍、徳川家光の影武者にならなければならない。
それが、彼らが示した条件だった。
この条件を飲めば、彼らは松五郎を殺さない。
それにしろ・・・・あの女忍者はずっと自分を監視しているのだろうか。
柳生の忍者から解放され阿国座に戻る途中、自分は何度となく脱走を試みた。
だがその度にあの女忍者がどこからともなく現れては脱走を阻止する。
黒子にまで化けるとは・・・・なんともおそろしい女だ。
松五郎は舞いを続けながら舞台下手に退場し、急いで獅子の衣装に着替える。
阿国座に初演公演はまずまずの出来だった。
楽屋裏では、一つの布団の中で二人の裸の男が抱き合い、男色に興じている。
一人は松五郎、もう一人は松五郎の付き人の少年、三郎。
女形の歌舞伎役者にとり、男色は珍しいことではない。
男同士のまぐわいを終え、布団から出て煙管を一服すると、松五郎はまだ布団の中にいる三郎に話しかける。
「三郎、これでお別れよ。明日からはお前が二代目藤島松五郎になるの」
「えっ?どういう意味ですか。松五郎先生」
「あたしはもう阿国座には戻れないの」
「どうしてですか」
「あたしはある人物に成りすまして、残りの人生を送らなくてはならないの。だからそのかわり、三郎があたしに成りすますのよ。『枕獅子』の舞いと台詞は全部覚えてるはずよねえ」
「明日から、おいらが『枕獅子』を演じるんですか?無理ですよ」
「嘘おっしゃい。お前が影で稽古してるの、あたしが知らないとでも思ってるの?」
「そんな・・・・」
天井で物音がする。
鼠か、それとも女忍者か。
そのどちらでもあり得るだろう。
たとえ物音の主が鼠だとしても、あの女忍者は天井裏にいて、こちらの様子を観察しているに違いない。
自分と三郎の道ならぬ恋も知られてしまったのか。
どこまでも抜け目ない嫌な女だ。
「松五郎先生」三郎がべそをかきながら言う。「行かないでください」
涙が頬を伝う少年の顔を見て、松五郎は無償に三郎が愛おしかった。