現実世界に支障が出た。
違和感に気付いたのはヒューゼルトだった。
「殿下、起きてください」
こんな時間から眠れるわけもなかった僕は、何の前触れもなくバッとテントを開いた護衛兵に全力でビクッとなった。
「マサヒロは起きていたか」
「…だから、8時から眠れるわけないってば」
街灯やらもないからものすごく真っ暗だけど、砦の明かりだって遠くに見えるし、田舎育ちの僕には然したる感慨もない。
ネオンもなくて、空気もいいと星が綺麗? ハハッ、うちと条件的には大差ないよね!
ディーはもそもそと寝具から這い出すと、唐突に水の玉を作り出して浮かべ、ぽふりと顔を突っ込んだ。
髪を濡らさず顔だけ突っ込む技術の高さに、熟練度を感じる。
そうして素早く己の意識を覚醒させたディー。
「何があった?」
暇を持て余しておこなった「あっち向いてホイ異世界選手権」にて、大変な盛り上がりのうえ体力を使い果たし速やかに就寝していた王子は、それでも迅速に状況確認を試みる。
ちなみに選手権には僕とディーしか参加していない。異世界対戦かつ頂上対決なのである。
…堅物ヒューゼルトが見張り優先のため、絶対に加わらなかっただけなんだけどね。
罰ゲームは5回の負けに対して1シッペだ。僕らの腕は未だに真っ赤である。ホント何やってんだ。
無意識に腕をさする僕の前で、ヒューゼルトは重々しく報告した。
「振動を感知しました。まとまった数の騎馬と思われます」
「…ほう。そこまで愚かであったか」
ディーは目を細めて呟くと、僕を振り向いた。
状況が全く掴めない僕は、首を傾げてみせる。
「一国の王子を、夜闇に紛れて始末する気らしいぞ」
「…え?」
目が点になるとは、こういうことか。
始まりこそ残念であったけれど、会談は和やかに終了したと思っていたのに。
一体、なぜ。
「…攻撃されたりしたら、戦争になっちゃうんじゃ…」
「当然だ。私は王太子ではないが、王子ではある。国として、それを殺されて黙っていられるものではない」
「いや、向こうにディーは殺せないだろ?」
「当然だ。私は国の最大戦力だぞ。たかが騎馬の一団に屠れると思うな」
なぜだろう、悪役の台詞のように聞こえてしまうのは。すげぇ自意識過剰な発言だけど、事実なんだろうな。
なにせドラゴンさえも打ち負かすディーに対し、騎馬程度では勝てる手段が思いつかない。
その一団が、地平を埋め尽くすほどのムキムキ戦士達であれば、ちょっとわからないけど。
…うーん。敵が地平を埋め尽くしていても、ディーが負ける光景が想像できない。
それに、半分くらいはヒューゼルトが1人で倒してしまいそう。
というか、地平を埋め尽くすムキムキのほうを想像して、ちょっとウェッとなった。
「もちろん自らの素性がわかるような手勢を送り込むとは思えないが…」
「殿下、じき現れます。ご注意を」
「うむ、わかった」
「マサヒロは緊張感を持て。相変わらず空気の読めない奴だ」
「いや、喋ってたのはディーだよね!?」
空気を読めとか、主人には決して言わないヒューゼルトである。
テントから出て、敵を待ち受けるディーとヒューゼルト。
一応テントから出てはみたものの、手持ち無沙汰に立ち尽くす僕。
「殿下!」
はっとしたようにヒューゼルトが叫び、素早くディーを背後に庇う。
重い金属音が響いて、お腹が痛くなりそう。
歯を食いしばる僕の前で、護衛兵と黒ずくめが斬り合いを始めた。
「きっ、騎馬来るって言わなかった?」
「先行する暗殺者がいても何の不思議もない。ふむ。騎馬の一団は私達の死体を確認するためのものかもしれないな」
「えぇ?」
「何にせよ、隣国の兵士の一団がスオウルードへ侵入していることに変わりはない。敵対行動以外の理由は見つけてやれないな」
そう、隣国とスオウルードの間には僅かな空白地帯があるのだ。
そこで攻撃を受ければ責任の所在は有耶無耶だったのかもしれないが…。
「入国審査なんかは一応エアデ砦の辺りでやるけど、領土としてはもうスオウルードなんだよね、この辺」
「ああ。空白地帯でも隣国の領内でも、野営するわけがない」
ですよね。帰りがけの王子を武器持って襲ったうえ、言い訳できない領土侵害だという。
「ヒューゼルトと遣り合えるとは、手練だな」
ガギンゴギンと響く金属音の応酬に物凄く不思議な感じがする。
あの黒ずくめの武器、ヒューゼルトの剣と張り合ってるよ。暗器じゃないのかよ。
重そうな護衛兵の剣に対して、短剣みたいな長さの何かで防いだり攻めたりしているのだから恐れ入る。
僕ならあんなリーチの短いもので戦えないよ。即行で手が斬られる。
「マサヒロ。部屋に戻るといい」
いつもの流れで、黙っていれば守られるだろうとぽんやりしていた僕に、そんな言葉が寄越される。
「えっ、今?」
驚いて隣の王子を見つめれば、なんということでしょう、横から更なる黒ずくめが飛び出してきた。
簡単に刃を受け流し、ディーは僕を庇う。
うわっと声が零れたけれど、僕にできることは特にない。
ディーは少し眉を寄せ、淡白に告げた。
「どうやら邪魔だ」
「おおう。返す言葉もないからとりあえず帰るね」
「うむ」
早々にテントの中へと撤退する僕の背後で、ヒューゼルトが叫んだ。
「マサヒロ!」
その声に振り向くべきだったのだろうか。
「ちぃっ」
聞こえたのはディーの舌打ちだ。
次に認識できたのは背中に食らったすごい衝撃。
「ぐげへっ…」
酸素全部出た。
そのまま、テントから自分の部屋へと吹き飛ばされる。
僕を吹っ飛ばしたのは敵か、味方か。
空中で前転するみたいにグルンとされて、けれど自分の意志ではないから体勢を立て直すことも出来ない。
逆さまの視界に見えたのは、僕の部屋の窓が向こうから閉められるのと…
ずがしゃ、ばりーん!
そんな音を立てて、なぜか砕けた窓ガラス。
「ぉごふっ」
背中に本棚がぶち当たって、足りない酸素がいっそう足りなくなった。
漫画が山のように降り注ぐのを想像して思わず身を縮める。
棚のガラス戸に本がバンバンぶち当たる音がするけど、引き戸だったのが幸いし、覚悟した衝撃は訪れない。
良かった。床で本に潰されて死ぬのは嫌です。ふかふかベッドで死ぬんだい。
息を吸おうとしたけれど、逆にカハッと音だけが出た。
苦しい。苦しすぎる。
そう、こんな苦しさは、逆上がりに失敗して背中を打ちつけた小学校の体育の…
「おーい、大丈夫かー!」
混乱して馬鹿なことばかり考え、浅い呼吸を繰り返す僕の耳に届くのは、ご近所さんの声。
一気に目が覚めた気がした。
やばい、大丈夫だって返事しないと。
「…っ…」
出ません。
呼吸が精一杯で声が出ません。
しかし叫ばないとピンチに、ピンチにっ…。
「どごの家だー?」
「結構な音だったべな」
「佐藤じゃないです」
「犬養でもないですよー」
「田辺も異常ありません」
「ありゃ、須月さんちでねぇかー」
やばい。ご近所ネットワークが動き出した。特定も早いの困る。
言わなければ、大丈夫ですって言わなければ。
「…だ、じょ…」
しかし自分の口から零れた覇気のない声に、笑って余計に呻く羽目になる。
頑張ったのに。だじょって何だじょ。
背中痛い。息できなくて苦しい。笑ってる場合じゃない。
「玄関の鍵がかかってて開きません」
「誰か隣の町内会の会長さん呼んできてくれ、ほれ、緑色の屋根のとこ」
「私行きまーす」
「うちじゃなくて、隣の町内会長さん呼ぶの?」
「あら。隣の会長さん、ここの須月さんのご実家なのよ」
個人情報、何ら保護されない。
大事になっては困ると、何とか口を開こうとするも、僕は流れに抗う術を持たなかった。
「ま、柾宏の部屋の窓が割れとる! 誰か! 梯子を!」
ああ、じーちゃん、来ちゃった…。
割れた窓を発見されたことにより、異音の原因が僕だと完璧に特定されてしまった。
がんがんと外壁から音が聞こえる。
じーちゃんが梯子を上ってきているのだろう。
諦めて床で顔を伏せると同時にガラッと窓が開いた。
「大丈夫か、柾宏!」
…死んだふりは良くない。
仕方なく顔を窓に向けるが、声はまだ出せそうになかった。
窓枠に残っていたガラスが室内と外にバラバラと落ちる。
「…うぃ」
じーちゃんに何か言葉を返そうかと思ったら、背中に響かない音がこれだけでした。
当方、フランス人ではありません。
「何があった! …な、何だこれは…」
窓を乗り越えて侵入してきたじーちゃんが慄く。
僕もそちらへ目をやった。
僕の腕のすぐ側だった。
「…矢…いってぇ」
腕をよけようとしたら背中に痛みが走った。矢が床に刺さっているとかいう現実、リアルに泣きたい。
床と窓の修理って幾らくらいかかるんだろう。こういうのもカードで払えるんだろうか。
誰になんて言い訳したらいいの、これ。
ピーポーピーポーと聞こえてくる救急車の音に、僕はいよいよ突っ伏すことしかできなかった。