ピクニック指導
覆水盆に返らず。
表情をなくして固まる僕と。珍しくも口が「あ」の形に開いたままのディー。
僕らの間を隔てる川は、黒く、細く、長く。
今にも、こちらの窓枠を侵食せんとばかりに…。
「早く、拭いてえぇぇぇぇ!」
「すまん!」
叫んだ僕の声に、意識を取り戻したディーはようやく、動き出す。
目にも留まらぬ速さで取り出されるティッシュにも、それがなぜか相手の部屋から現れた事実にも、稀に見る勤勉さで零れたコーヒーを拭き取る王子にも。感情は動かない。
麻痺したわけではなかった。そこに怒りはない。悲しみもない。
これは諦めだった。
…うん。本についちゃったコーヒーは、もはやどうにもならないと思う。水零しただけでも紙がフニャヘロになるんだし。それに色が付いたらもうアウト。決して元には戻らない。
僕も、やったことあるしね。
「本当に、すまない」
落ち込んだ様子でディーが言う。それが少しおかしくて、僕はこっそりと笑った。
いいよとすぐに一言言ってあげればいいのだが、「なんだ、いいのか」ってまた繰り返されたら嫌なので、一応悪いことをしたという意識は育てておこうか。
「ねぇ、ディー。敗因は何だったの?」
「…そう、だな…。油断していたことだろう」
いや、カップを置いていた位置だと思いますよ。
自分の部屋でくらい油断して、何の悪いことがあるというのか。
たまらず吹き出すと、僕がさして怒っていなかったということが簡単にばれた。
「…マサヒロ…」
「ぅは、ハの字眉しないでよ。大体、そんな顔されちゃ怒る気にもなんないってば」
「お前の本への執着具合から、二度と窓を開けないと言い出すのではないかと思ったのだ」
ケラケラと笑う僕に、ディーは肩の力を抜いた。
被害にあった本は高校球児達の物語。完結しているし、正直惰性で集めていたものなのでそんなにダメージもない。絵柄とネットの評判に押されて買い、始めのうちこそ次巻を楽しみにしていたが、すぐに興味がなくなった。僕はスポーツ漫画があまり得意ではないのだ。
ルールには詳しくない、用語だって理解できない。それでも面白ければ読む。
それなのにいつしか惰性になってしまう。本にも作者さんにも落ち度はない。…ただライバル達が増え続けた結果、誰が誰だかわからなくなる…そのせいだ。
熱が冷めればルールも用語も、あっという間に記憶から消える。
記憶力は余ってませんか。中古でも状態が良ければ高価で買い取ります。MASAHIR-OFFです。
あれ、ゴロが悪いな。マッサオフでいくか。お売りくだっさい♪マッサオフ♪
「よし、これならいけるな…」
「…状態の回復に策があるのか、マサヒロ?」
「え? あ、ごめん、ない。うん、ないない。全くないから普通に諦めて」
「…くっ…無念だ…」
悔恨の表情を見せるディー。大丈夫だよ、お気に入りの本だったらあの瞬間の叫びは「フォウアー!」とかの謎語になってるはずだから。
大体、お気に入りであっても、あんな顔見せられちゃあね。絶版じゃない限りそこまで怒らないです。普通に買い直します。
ちなみに汚れたほうも布教に使い、決して無駄にはしない。
翻訳メガネが結構調子良く日本語に対応してきたようなので、お試しで色んな本を貸してみることにしたのが、本日の悲劇の始まりだった。しかしコーヒーを飲みながら本を読むことに怯えてしまったらしいディーは、僕が貸した本達を机に移動させ始める。
「僕も飲み食いしなから読むからそこまで気にしなくてもいいんだけど」
「しかし借りて読み始め、二冊目にしてこの有様ではな」
二冊目を読みながらウロウロとコーヒーに手を伸ばした結果のバシャーである。被害にあったのは一巻だ。
ぱらりと確認してみたところ、狙い済ましたかのように主人公の顔だけにかかっていた。跳ねた先も染みた先も主人公の顔。つまり主人公がなぜか一時ガングロになっている。コーヒーに塗り潰された文字は一文字もないため、物語には一切支障がない。もし文字が一部でも隠されていたら、他のキャラが突然ギャル男と化した主人公に何か言ったようにも思えただろうに。皆が温かく見守る、主人公のギャル男デビュー。高校球児なのに。
そっと本を閉じる。微笑みは堪えきれない。
さすがはディーだよ。僕は今、奇跡を見た。
「どうした。なぜそんな慈愛に満ちた表情を浮かべている?」
「え、そんなキモイ顔してた? ごめんね、ちょっと奇跡を噛み締めてただけだよ」
慌てて奇跡ではなく、頬の内側を噛む。
「そうだ、マサヒロ。ピクニックに行く時間はあるか」
ディーがあまりに唐突にそんなことを言うので、僕は固まった。
脳内に草原と爽やかな笑顔でサンドイッチを手に持つディーが想像された。え、怖い。何の拷問?
「…え…、どうしたの、ストレスで精神的に壊れちゃったの? 男二人でピクニックはちょっと…」
「期待させて申し訳ないのだが、こちらで二人きりではなかなか出かけられないぞ」
「あぁ、ヒューゼルトね。じゃなくて…意図が読めない」
「提案はレディアだ。ギルガゼートに息抜きをさせたいのと、以前に言っていた水筒と弁当箱がどうしても気になるとのことだった。実際に使っているところが見たいという」
言われてようやく思い出した。大分前に魔法瓶の話をしたのだが、僕が一向に実物を持って行かないので痺れを切らしたのだろう。うん。完全に忘れていただけです。
それにしても、だって信じられないじゃないか。
人類総魔力持ちのファンタジー世界なのに、どうして旅のお供の水筒が袋か竹筒みたいなもので、中身も常温なんだよ。点火棒の水バージョンみたいな、冷たい水を魔法で呼び出す魔道具とかないの?と訊いたら、レディアには世間知らずの小さな子供を見る目をされた。
火魔法には点火棒の内部に刻印できる『点火するだけの魔法』があるのだそうだ。だから魔力を操作するだけで魔道具として発動できる。水魔法はなんかこう、津波地獄!ハイパー洗濯!ウルトラ滝行!みたいな大技ばかりで、静かにちゃぷっとコップ一杯の水を呼び出すようなものはないんだそうだ。水を程良く出すだけ、という魔法自体がない。魔法を刻印に応用できないから、水を出すだけの魔道具は存在しない。作りたければまず、水を呼び出すだけの魔法を完成させなければならないのだ。
ディーには水の玉が出せるのに。僕の謎の棒にも水の玉は出せるのに。解せない。
そう言うと、それはディーが水精霊との親和性が高いためだと言われてしまった。ディーの属性魔力を使うから僕が扱う謎の棒でも水玉が出る。
そして、精霊と親和性の高い人が属性魔力をこめないと動かせないような魔道具では、万人の役には立たない。電池が切れても簡単に補充ができないからだ。精霊と親和性の高い人というのは、魔石に魔力をこめるアルバイトなんてしなくても、十分魔法使いとして食っていけるエリートのことなのだ。
「それにしたって、使ってるところが見たいってことは、僕が飲み物ご飯係ってこと? 他の人は何持ってくのさ」
ディーは、ふっと笑った。
笑っただけで返事をしない。
「…おい」
「楽しみにしている」
「こら!」
「異世界のピクニックを指導していただこうと思ってな」
物は言いようだよな、チクショウ。