栗色の髪の姫
つばさは水の音で目を覚ました。川のそばに横たわっていたのだ。彼女のウェーヴした栗色の髪が、草の上にひろがっている。
「姫、姫様」
身体をゆすられたつばさは、自分の身に起きたことを思いだす。鬼に襲われ、屋上から落ちたのだ。
「……ここは? 」
「まずいことになりました。すぐに出発しますよ」
「出発? 」
つばさは起きあがり、身体についた土と草を手ではらい落とした。脇に、学校の鞄があった。部活用の体操服をつめこんでいるため、ふくらんでいる。
青藍はそばの川まで行って、水を汲んでいた。ここは、屋上の真下にあった校庭ではない。屋上から落ちて生きているのも不思議だったけれど、ここが校庭ではないと気づいたつばさは不安になり、鞄を肩にかけ、立ちあがった。
「わたし、帰ります」
つばさが、おそるおそる青藍に声をかけると、
「ええ、城に帰るんですよ。急がないと、ヤツらが気づいてしまいますからね」
彼は苛立った声で答えた。
「ヤツらって、だれなの? 」
「鬼ですよ。ここは鬼と人間の村境です。高いところから落ちてしまって、着地する場所がずれました」
鬼。つばさは自分を襲ってきた青鬼たちのことを思いだした。真っ青な肌、耳まで裂けた口と、牙、鋭い爪、目は、金色だった。
「わたし、帰りたいの、学校でも家でもいいから、とにかく帰りたい」
「それは無理ですね」
つめたい青藍の態度に、つばさは思わず涙がこぼれた。
すると、彼は水のはいった袋を腰にくくりつけ、つばさの手をにぎった。そのまま強くひいて、歩きだす。
「時間がありません」
「わたし、嫌よ、ぜったい行かない」
「無理です」
「嫌! 帰るの! はなしなさいよ! 」
青藍の態度に慣れたつばさは、強気になってきた。
「はなしなさいって言ってるでしょ! 」
それでも青藍は力をゆるめない。森の奥へとはいっていく。
木洩れ陽を頬にうけ、つばさは両親のことを思いだした。もう夜が明けてしまって、時間はわからないけれど、おそかれはやかれ両親はつばさの不在に気づくだろう。つばさは1人娘で、蝶よ花よと育てられた。とくに、父親はつばさのほしいものをなんでも与えた。母親も、つばさが暗い顔をするとすぐに慰めた。2人の背に隠れながら育ったせいか、彼女はフェンシング部の部員たちに『逃げ腰のつばさ』と呼ばれている。
帰ったら怒られるだろうな、心配してるだろうな、と考えるだけで、つばさはまた泣きだしそうだった。
「はなしてよ! 」
「うるさいですよ。鬼たちに気づかれますから、だまってください」
どんなにはなせとさわいでも、青藍は動じなかった。
「ねぇ、どうしてわたしが姫なの? もしかして、人ちがいじゃない? 」
「いいえ、姫ですよ」
「あのね! わたしは一ノ瀬つばさ! ふつうの女子高校生! パパは会社の社長だけど、一般人よ! 」
「ぱ……? ……しゃちょ? 」
「自慢じゃないわよ! 自慢のパパだけど! 」
「わかりませんけど、あなたは姫ですから」
「だから! どうしてそうなるのよ! 」
空いた片手で自分の髪をかきむしるつばさ。それでも青藍はかまわず歩きつづけた。森は深くなっていくばかりだった。
「答えてよ、ちゃんと答えてくれたら、城に行ってみてもいいわ」
なおもさわぐつばさに、青藍はようやく足を止め、ふり向いた。
「あなたはかぐや姫様の末裔で、この世界の人間です。それ以外は、わたしの口からは言えません」
かぐや姫。それは日本の昔話にでてくるお姫様である。子どものころつばさも、『竹取物語』の絵本を母親が読み聞かせてくれた。
竹から生まれたかぐや姫は、火鼠の皮衣、龍の首の珠、燕の産んだ子安貝、仏の御石の鉢、蓬莱の玉の枝を男たちに求め、結局どれも手にはいらないまま月に帰ってしまった。
「……あの、かぐや姫って昔話でしょ? これってイタズラかなにかなの? 」
「昔話の中に隠しただけでしょう。かぐや姫様は追われていましたから」
そこで青藍は前に向きなおり、また歩きだした。一方、つばさは騙されているのかもしれないと考えはじめた。そんなお伽話をだされるとは思ってもいなかった。かぐや姫なんて、子どもに聞かせる昔話だ。馬鹿にされているのかもしれない。身代金目当ての誘拐かもしれない。そこまで考えたところで、鬼を思いだす。鬼。それもふつうではありえない存在ではないのか。空から舞い降りた牛車、そこから落ちてきた青い鬼。青藍に首を斬り落とされても動いていた。
ほんとうなのかもしれない。でも、ほんとうのはずはない。鬼の存在がつばさの常識を壊していた。
それから、半日以上歩きつづけた。つばさはフェンシング部で身体を鍛えているけれど、何時間も歩きどおしで足が重くなり、息も上がっていた。青藍は汗ひとつ、かいていないようだった。
日が暮れはじめ、青藍はさらに足をはやめる。けれど、とうとう森をぬけることができないまま、夜になった。
「夜に動くのは危険ですから、野宿しましょう」
青藍は集めた枝を重ね、火をつけた。その火が絶えないよう、枝をくべつづける。
「わたし、いつになったら帰れるの? 」
つばさは家に帰ることばかり考えていた。青藍から逃げたくても、この森の中にほんとうに鬼がいるのなら、青藍からはなれるわけには行かないし、そうでなくても、帰り道もわからない森で1人になるのが怖かったのだ。
「帰れませんよ」
「え……? 」
1週間、いや1ヶ月、長くて3ヶ月程度で帰してもらえるだろう。つばさは根拠もなくそう思っていた。青藍に帰れないと言われても、そんなはずはないと、彼女は信じていた。
「今すぐ帰る」
「帰り道がありません」
「でも、来られたんだから、帰れるわ」
「千年に一度の夜でしたから。昨夜の月は、光の道みたいなもんをつくってたらしいですよ」
「ぜんぜん、言ってることがわかんない」
「わたしもよくわかりません。むずかしいことは苦手なんです」
青藍はうつくしい顔立ちに反して、ものいいは雑で、気がぬけると面倒臭そうな表情ばかりしている。
「あんたはだれなの? なまえしか聞いてなかったわ」
「わたしの一族は、あなたの一族を守る宿命だかなんだか知りませんが、とにかく守らなきゃならないんですよ。寛王の命令ですからね」
「寛王って? 」
「明日にしてください。そういう説明が得意なヤツらは、城に腐るほどいますから。今日はもう寝てください。はい、おやすみ」
青藍は胡座をかいて腕を組み、刀を抱いて眠りはじめた。こんな無防備に寝ていいのだろうかと、つばさは不安で眠るどころではなかった。
膝を抱えて青藍を見つめる。つばさの倍はありそうな肩や胸の厚み、太い首や腕。けれど、閉じられた瞼と、長い睫毛、すっととおった鼻筋は繊細だった。
つばさはいくつものフェンシングの試合を観てきたが、青藍ほどはやく、強い者はいなかった。
「おい、寝ろ」
不意に目をあけた青藍に、つばさはおどろいて、うしろに背を反らした。
「ちょっと! いきなり起きないでよ! 」
「ずっと起きてましたよ。人のこと熱い視線でじろじろ見るから寝たふりしてただけです」
「熱い視線で見たりしてません。冷めた視線でした」
青藍の閉じられた白い瞼と長い睫毛がもちあげられて、あらわれたのは金色の瞳だった。炎の赤い光が、虹彩の中で揺れていた。
つばさの目の色は、日本人としては平凡な、茶色だった。薄く透明感はあるけれど、それでも青藍のように華やかな色ではなかった。
「あんた口は悪いけど、目はきれいね。宝石みたい」
なにげなくそう言ったつばさに、青藍は目を細め、不機嫌そうに眉をよせた。
「そりゃどうも。さっさと寝ないなら、襲いますよ」
「なによ、ほめたのに」
青藍は答えるかわりに、つばさを鋭く睨みつけた。それがあまりにも迫力のある睨みだったので、つばさはしかたなくだまることにした。
鬼がきても青藍がいる。そう思い、つばさは木の幹に背をあずける。とたんに、緊張がとけてしまったのか、1日の疲れがおしよせてきた。どろっと重たくなる瞼の重みに逆らう力もなく、彼女は眠りについた。