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雨の降る大地

作者: 朱咲カホル

 雨の日は傷が疼く。シクシクと身体の内に浸透するような、そんな嫌な痛みだ。

 隠す事のない彼の左の目の下にある傷。それは彼が犯した罪を再認識させる。忘れてはいけないと警告してくる。

「雨がすべてを洗い流し、すべてを連れてくる……」

 ぽつりと、意味のない言葉を呟いてみる。

 これはいったい誰が言った言葉だろう。そんな事すらもう忘れかけている。忘れていないのはただ一つだけだ。己が犯した罪のみ。

 いったい、何を洗い流し、何を連れてくるのか、今でも判らない。なぜこのような言葉が浮かんだのかさえ判らない。いつの日か、この言葉の意味が判る日が来るのだろうか。

 暗い雲を見上げる。あるのは雲だけだ。雨を降らせる雲だけだ。

「最悪だな、荷物を盗まれたうえに雨にまで降られるなんて……」

 力のない呟き。くしゃりと前髪を掻きあげる。目元についた傷が痛々しい。

「ハハハハ……まさか、子供があんなことをするなんて、さすがに考えなかったな」

 自嘲気味に笑う。彼の荷物は何もない。剣士の格好をしていても、肝心の剣がない。

 つい先程だ、無邪気そうな子供に出会ったのは。行き倒れていて、ほっとけなくて助けた。子供は嫌いではなかったから、それが油断を招いたのだろう。子供に水が欲しいと言われ、水を入れていた竹製の水筒には一滴も入っておらず、荷物と剣を置いて水を汲みに行ったのだった。戻ってみると、子供の姿はなく、荷物もあまつさえ剣までもがなくなっていた。

 しばし呆然とするしかなかった。あんな子供がこんな真似をするとは思わなかった。しばらくして、雨が降り出した。それでも彼はその場から動けずにいた。

「兄さん、何か困り事でもおありかな?よろしければ、わしの家にこんかね?」

 優しい声音に、彼は肯いた。肯くことしか出来なかった。

「お願いします」

 雨はまだ降り始めたばかりだ。


  ●


「そうか、あの少年に会いなさったか。面倒なことに巻き込まれましたな、兄さん」

 これまでの経緯を話し、彼を家まで招待した男は杯を彼に勧めた。もともと酒は嫌いな方ではない。素直にそれを受け取る。ほのかな甘い香りを放つ酒を一口飲む。

「良いお酒ですね」

 素直な感想を述べると、男は嬉しそうに目を細め、

「判りますか? 嬉しいですなぁ、自分が造った酒が褒められるというのは」

 と言った。

「この酒はあなたが造ったのですか?」

「ああ、そうさね。もともと、この村は酒造りが盛んだったんだ。王へ献上する酒だったのさ、この酒は。だが、これはもう国王の咽喉を潤すことはないだろう……。淋しいものさね」

 男の言葉に彼は手にした杯に目を落とした。

「なぜですか?」

 言葉少なに尋ねれば、男はフンと鼻で笑った。

「たいした理由じゃない。ただ、王が別の酒を気に入られたのさ。この酒より絶品らしい。あんな紛い物、本当に美味いのかどうか、判りもせん」

「紛い物?」

「ああ、魔物の肝を酒につけたのさ。健康にも良いらしい。その為、王はその酒をいたく気に入り、わしたちがこさえた酒はいらんと言ってきた。おかげで村は寂れていく。王に捨てられた酒は売れず、この有り様さね。――兄さん、恐らく、兄さんが会った少年というのはわしの孫だ。悪かったね、あやつが戻ってきたら返すように言おう。その罪滅ぼしをしたい。兄さん、しばらくここに泊まりなされ。この雨はしばらくは止まんからな」

 すまなさそうに頭を下げる男に、彼はにっこりと笑った。

「いいですよ。お言葉に甘えさせてもらいます。確かに雨はしばらくは降り続きそうですから」

「おお、ありがたい。すぐに部屋を用意しますので」

 いそいそと立ち上がり、二階へ続く階段を上がる男の背中を見送りながら、彼は手にした杯を見た。

 透明な純の色。この酒を造った男の心がそのまま宿っているような、そんな感じの美しい色だ。

 すぅと目を細める。

(魔物の酒、か……)

 魔物は街を襲い、人を喰らう、狂暴で残忍な生き物。だが、魔物は薬にもなる。アクセサリーにもなる。そして、酒にもなる。

『どうして人を襲うからと言って彼らを殺さなければならない? なぜ人間はこの矛盾に気づかない? 自分達も魔物から見れば敵だということに』

淋しそうに言った友の言葉が浮かぶ。

(ああ、そうだな。どうして人間は気づかないんだろう。どうしてだろうな……)

 心の中で呟く。

 ゆっくりと手にした杯を揺らす。酒に小さな波紋が幾つも出来た。

「どうして、だろうな……」

 口にする。

 うまい酒だ。こんなうまい酒をここの王は飲まないなど、勿体無いことをする奴だ。魔物の酒の方がうまいなど、確かに紛い物だ。魔物は人を喰らう。しかし、人間もまた魔物を喰っている。商売の道具にしている。

 いったいどちらが悪なのか。

 じっと考えごとをしていると、不意に玄関の戸が勢いよく開けられた。

「たっだいまー!ジィちゃーん、今日も大収穫だったぜ」

 意気揚々と扉を開けて駆けこんできたのは、まんまと彼を騙し、荷物と剣を盗んでいったあの少年だった。

「あっ!」

 彼の姿に気づいた少年は気まずそうな表情をし、くるりと回れ右をした。

 そのまま逃げ出そうとする少年に厳しい声で二階から男が一喝する。

「逃げるではないっ、小童が!」

「!!」

 首を竦める少年。恐る恐る後ろをふり返り、がばっと土下座をした。

「ゴメン!ゴメン、ジィちゃん!俺、俺……どうしても、どうしても……」

 隠すことを知らない少年だ。

 それ以上何も言えない。ただ、鋭い祖父の眼光に震えるのみだ。目尻に涙が浮かんでいた。

「あの……」

 遠慮がちに声をかける彼。少年の姿に、その少年に何をされたのかを忘れかけた。が、男は言葉に二の句が告げなかった。

「いいえ、気にしないで下さい。此奴はもう何度も同じことを繰り返しておるのです。今止めなければずるずると腐れた道を歩んでしまう。ああ、どうして今まで見過ごしてきたのだろう……。心の優しい子であってほしかったのに」

 思わず涙ぐむ男を呆然と見ながら、土下座をしたままの少年に視線を移す。

「けれど……」

 言い募ろうとする彼に目もくれず、男は二階へ上がり、土下座をしていた少年はのろのろと立ち上がった。

「あ……君……」

 声をかけようとした動きが止まった。少年の悲しい瞳が彼の動きを封じたのだ。

「俺、悪いことしたなんて思ってない。けど、ジィちゃんに嫌われるのヤだから、あんたから盗ったモン返すよ。――ぜってー謝らねぇからな!」

 この家に入ってきた時と同じく勢いよく飛び出す少年。

 あまりの強情さに、青年は呆気に取られたが、しばらくして笑い始めた。

「どうかなさいましたかな?」

 二階から戻って来た男に尋ねられ、青年は笑いをかみ殺しながら言った。

「いや、本当に素直ないい子ですね。俺、あんな子は好きですよ。大丈夫、彼はあのままでいられます」

「……あのままでは困るのですがね」

 本当に困ったというような表情で男が言うので、青年は慌てて付け足した。

「違いますよ。彼は真っ黒じゃないって事です。白の中に一滴の黒が入っただけです。今は少し灰色になりかけているだけ。悪人にはなれませんよ」

 にっこりと笑い、青年は杯に残った酒を飲み干した。

 久々にいいものを見せてもらった。

 怪訝な表情で青年を見る男だったが、目の前の男が美味しそうに酒を飲むので満足げに笑ったのだった。

「ああ、まだ名乗っていませんでしたね。俺の名前はフォンといいます。見ての通り、しがない旅の剣士です。しばらくお世話になります」

 頭を下げる。

「いやいや、わしも孫と二人暮らしですから、一人でも家族が増えることは嬉しいものです」

 本当に嬉しそうに男は言ったので、フォンは気兼ねなくこの家に厄介になろうと決意したのだった。


  ●


 夜中、なかなか寝付けずにいたフォンはあてがわれた部屋の窓から星空を見上げた。

 美しい満天の星空がフォンの目を楽しませてくれる。彼の荒みかけた心を美しく洗ってくれる。

 微笑む。

(今日は運が悪かったのか良かったのか、よく判らない日だったな。荷物は取られるし、雨には降られるし……けれど、そのおかげでうまい酒にもありつけたし、心の綺麗な人に出会えた。ま、良かった日にするか)

 彼は能天気な性格をしている。悪いことをいつまでも引きずらないのが彼の長所でもあり、短所でもあった。

 フォンから荷物を盗んだ少年の名はナギといった。母親は早くに亡くなっており、今は祖父であるイザの元で世話になっている。彼の父親は健在だが、ナギとの折り合いが悪く、少年は父親の元から逃げ出してきたらしい。そして心から慕っている祖父の家に転がりこんだようだ。

 そんな少年がなぜ人の荷物を盗むような真似をするようになったのか、それは判らなかった。食事の間も団欒の時も、少年ナギは一言も口を利いてくれなかったからだ。こちらから話しかければ多少なりとも返事をするのだが、会話が続かない。祖父がその場にいなければ一言も喋らない。そういうことで、彼はナギが盗みを働いた原因を知ることはなかった。

「話してほしいんだけどな……」

 あんな少年が盗みをするなど、フォンは信じたくもなかったし考えたくもなかった。だが、現にあの少年はフォンから荷物を盗んでいる。そこまでしなければならないほど彼らの生活が苦しいとは思えなかったのだが。

 溢れんばかりの星空を見上げ、フォンはため息をついた。

 つかの間の晴れ間だ。つい先程までは雨が降っていた。黒い雲がなくなり、満天の星が夜空を満たす。美しい光景をこの目に、心に焼きつける。手を伸ばせば届きそうなほど、この村の星空は美しい。

「おい」

 突然呼びかけられ、フォンはふり返った。

「君は……」

 彼の背後にいたのはナギ少年だった。なぜだか恥ずかしいようでモジモジしている。

 努めて優しい声音で尋ねてみる。

「どうしたんだい? あ、ナギ君も眠れないのか? しかし、この村の星空は綺麗だな。溢れんばかりの星空っていうのは初めて見た」

 一人でぺらぺらと喋る。すると、ナギは勢いよくかぶりをふり、ずいっと手にした荷物を突き出した。

「あ、これは俺の?」

 そう、ナギ少年がまんまとフォンから盗んだ彼の荷物だった。

「ゴメン……ナサイ」

 俯き加減にナギ少年が謝った。

 その言葉を聞いてフォンはにんまりと笑う。

 少年の頭をくしゃくしゃと掻き回す。

「あにすんだよ!」

 抗議する少年の頭を更に掻き回しながらフォンは意地悪く言った。

「謝らないんじゃなかったのか?」

「うるせーな! ジィちゃんが謝って来いって言ったから謝っただけだよ! 俺はまだ悪いって思ったワケじゃねぇよ!」

「素直じゃない子供は可愛いねぇ」

 祖父であるイザに言われたからではなく、少年本人が悪いと思っているということくらい判る。

 フォンは嬉しくなった。まだこの少年は白いと。真っ黒じゃないことが判って嬉しかった。

『人のオーラは大まかに三つに分けられる。白と黒、そしてその中間の灰色だ。その三つで人というものが判る……』

 この言葉も友が言ったものだ。

 確かにその通りだと思った。

(ああ、その通りだエル。あんたは本当に偉いよ)

 もう二度と会うことのない親友を思い起こす。

「いいかげんにしろー!」

 しつこく少年の髪を掻き回していると、ナギ少年が大声で怒鳴ってフォンの手をふり落とした。

 フォンの手を叩き落としたナギ少年はフォンを睨みつけ、ふいっと背を翻し、己の部屋へと引っこんで行った。

「あ、ありがとう、ナギ。おやすみ」

 慌ててそう言うとナギはちょっとふり返り、頬を赤らめてフォンに聞こえるかどうかの声音で「おやすみなさい」と言ったのだった。


  ●


「おはようございます。よく眠れましたかな?」

 翌朝、イザの丁寧な挨拶がフォンを覚醒させた。

 昨夜は星空がまた雨雲に隠されるまで彼は起きていて、寝付いたのは東の空が白み始めた頃だった。それでもフォンは朝の鐘の音が鳴る前に起き、早起きのイザの挨拶に覚醒したのだ。

「ああ、おはようございます。朝が早いんですね」

 感心していると、イザは対したことではないように笑っただけで、食卓に朝ご飯をテキパキと置いていくのだった。

 欠伸を一つかみ殺し、フォンはその場にあの少年がいないことに気づく。

「あれ、ナギ君はどこに? まだ眠っているんでしょうか?」

 何気なく尋ねたのだが、イザの動きが止まり、不自然な沈黙が漂い出した。

(れ?)

 まずいことでも訊いたのかとも思った。が、

「ジィちゃーん!たっだいまー!」

 ナギが勢いよく扉を開けて入ってきたのだ。昨日と変わらぬ明るさで。

 ほうと安堵の息を吐き出す。よかったと心のそこから安堵した。

 ナギは台所に駆けこむと手を洗い、朝ご飯が用意された食卓についた。

「じいちゃん、俺腹減っちゃった。食べていいんだろう?」

 無邪気に尋ねるナギは年相応に見えた。

 そんな彼を見てフォンは微笑んだ。憎たらしい少年がこうも違って見えることに驚く。

「ああ、食べていい。毎朝何をしているのか知らないが、あまり無理するんじゃないぞ」

「? うん」

 ナギはイザの言った意味が理解出来なかったようだ。フォンもさっぱり判らなかった。

 フォンも席について三人の朝食が始まった。その間誰も喋ることなく、ただ黙々と食事に専念したのだった。

 そんな静かな食事風景が破られたのは乱暴に開けられた玄関の扉の音と、ずかずかと無作法に踏みこんでくる中年の男のせいだった。

 迷惑そうにそちらを見たイザの動きが止まり、不審に思ったナギがふり向いた。そして大声で叫んだのだった。

「親父!?」

 どうやらこの無作法中年男はナギの父親らしい。

(確か、ナギとは仲が悪かったんだよな)

 仕入れた情報からそう推測し、ナギの表情に注目する。

 その情報通り、ナギは父親を睨みつけイザの背に隠れるように移動した。目だけは父親を威嚇している。まるで手負いの獣のように。

「何しに来た。お前にはこの家には二度と帰って来るなと言ったはずだが……」

 イザは冷静に言った。

「お義父さん。どうして判ってくれないんだ。この村がもう一度酒を王に献上出来るようになるには魔物の酒を造らなくてはいけないんだ。つまらない意地でこの村をお義父さんは潰す気かい? それに、お義父さん一人が反対したってもう大部分の人間が賛成してるんだ。もう魔物の酒を造ることは決定するんだ。これでこの村も再び活気を取り戻すことになる!」

 ナギの父親が力説してくれたおかげで事情は全て判った。

 どうやらこの村の男たちはもう一度献上する酒を造る為に、魔物の酒を造ろうとしているのだ。それを反対しているのがイザ。だがそうもいかない。大部分の人間が魔物の酒を造ることに賛成している。ナギの父親はそのリーダー的存在のようだった。

 なるほど、ナギとの折り合いが悪いのもその為か、とフォンは納得する。ナギは祖父のことを心から慕っている。その為に父親の元を飛び出してきたのだ。

 興奮して話す義理の息子にイザは冷たい反応をした。

「だが、どうやって魔物を捕らえる? お前たちだけで出来るのか? あのわしらよりも強い魔物を、お前たちが捕らえ、そして酒にすることが出来るのか?」

 これは最後の切り札。

 力弱い人間がその数倍もの力を持つ魔物に勝つことが出来るのかと、イザは問いただす。酒に造り替えることが出来るのかと諭す。穏やかな瞳で孫の父親を見つめている。

 だが、男は諦めなかった。ふふんと笑って意気揚々と言ったのだった。

「そんなこと、全く心配はない。この近くの廃屋で魔物の子供を見つけた。成長した魔物には敵わないが、たいした力のない子供の魔物ならばどうにかなる。この村は元通りになるんだ」

 父親の言葉を聞いてナギが反応した。

「親父、まさかあいつを!?」

 誰もがナギに注目する。

 しかし、ナギはそんなことなど気にならない様子で震えていた。祖父の背から父親を睨みつけ、怒りで震えていた。

 怒鳴る。泣きそうな表情で父親に向かって怒鳴る。

「なんでそんなことが出来るんだよ! あいつはまだ子供なんだぞ! そんなひどいこと、俺がさせるか!」

 そう叫ぶとナギは家を飛び出した。

「ナギ!」

 祖父のイザが呼び止めようとしたが、ナギの姿はすぐに消え、残ったのはイザとナギの父親、そして今まで傍観者となっていたフォンのみとなった。

 ナギの父親が動いた。その目にはある決意が秘められていた。

 初めに声を出したのはフォンだった。

「先程言ったことは本当ですか? 魔物の子供を酒にするということは、本当にそんなことをするんですか?」

 返事はあっさりしたものだった。

「当たり前だ。魔物は害になるだけだ。人間の為になるものなど一つとしていない。ならば我々の力で必要な物に造り替えればいい。酒ならば王の咽喉を潤すことも出来る。人の心を潤すことが出来る。魔物が滅んで喜ぶ人間はいても、悲しむ人間などいないのだからな」

 そう言うと男は家を出て行った。

 彼を追うフォン。

 させてたまるか、と言うのがフォンの現在の心境。

(させてたまるか。何が魔物の酒だ。そんなこと、出来るわけがない!)

 走る。男の影を追って走る。

 やめさせなければ。そんなこと、させるわけにはいかない。間違っている。この村の男たちは間違っている。

『人間にとって魔物は脅威でしかない。不必要なものだ。だが、魔物からしてみれば、人間もまた脅威なのだ。不必要なのだ。魔物以上の不純物なのだ』

 ああ、そうだな。お前の言うことは正しいのかもしれない。

 昔、そう言っていた友がいた。今ならば判る。あいつの言いたいことが判る。

 雨がフォンの身体を、村を濡らす。

「やめろー!」

 ナギの悲鳴が上がった。

 走る速度を速める。嫌な予感がした。

 村の一角の廃屋に辿り着く。そこには多くの村人が集まり、不自然な輪を作っていた。その間を掻き分け、フォンは輪の中心に向かった。

「!」

 真ん中には泣き崩れるナギの姿があった。

 大地には夥しい血の跡がある。その血は空から降っている。否、ナギの父親が誇らしげに掲げている小さな魔物の身体から流れ落ちていた。

「っ!」

 嫌な予感は当たった。

 胸元の衣服をきつく握り締める。

「やった、これでうまい酒を造れるぞー!」

 誰かがそう言った。

 拍手喝采。

 周り中から湧き起こる。一人の少年の悲しみなど微塵にも感じずに。一人の青年の不快感など少しも理解せずに。

「愚か者が……。罰当たりなことをしよってからに……」

 背後で言う者がいた。

 ふり返るとイザがそこにいた。濡れた身体のままで、じっと傷つけられた魔物を見つめている。その瞳は悲しみで満ちていた。


  キュイィィィィィィィ……――


 突然、絶命したはずの魔物が鳴いた。悲しい鳴き声だった。最後の力をふり絞った鳴き声だった。

 その声にざわめき出す村人たち。この鳴き声が何を示すのか、理解したようだった。

「まずいぞ、仲間を呼んだに違いない。大量の魔物がこの村を攻めこんできたら一たまりもないぞ!」

 誰かが叫ぶ。

「何を言う! 絶好の機会じゃないか。大量の酒の原料が手に入るんだ。魔物を迎え撃つ準備をしろ!」

 魔物の子供を大事そうに抱くナギの父親が叫ぶ。そう命令する。

 その言葉で幾人かの屈強な男たちが槍やら鉄砲やらを手にして走ってくる。

 フォンは何も出来なかった。逃げ惑うことも、魔物を迎え撃つことも出来なかった。ただ立ち尽くしていただけだ。呆然と泣きじゃくるナギを見ているしかなかった。

「親父の馬鹿ったれぇ!!」

 ナギが怒鳴った。

 それに重なるように地響きが伝わってくる。

「来た!」

 魔物の群れがこの村に突撃してきた。

 魔物の姿が見え始めた頃になって、やっと逃げ出す者や、鉄砲を魔物に向け発射する者に、フォンのように身動きの取れなくなった者。様々な反応をしている人間が、愚かな人間がここにはいた。

 凄い勢いで魔物が侵攻してくる。

 ほとんど反射的にフォンは剣を抜いた。だが、切り付けることは出来なかった。あの魔物の子供の悲痛な最後の咆哮を聞いてしまったから。泣き続けるナギの姿があまりにも弱々しかったから。

銃声が起きる。悲鳴が上がる。魔物の咆哮が響き渡る。

 その中でナギは少しも動かなかった。ただ泣いているだけだった。逃げ惑う人に蹴られても、魔物を迎え撃とうとする人に邪魔者扱いされても動かなかった。動く気力すらなくなってしまったのだろう。大切な友達を目の前で殺されてしまったのだから。

「ナギ! 立てよ、ナギ! ここにいたら危ないぞ!」

 フォンはナギの腕を掴んで無理矢理立たせる。 

 それが隙を作った。

 反抗する村人の攻撃を避けた魔物の爪がフォンたちに向かってふり下ろされる。

 咄嗟に剣で受け止める。が、力の差は判りきっている。魔物の、しかも暴走している魔物の力に勝てるわけがない。

 押されるフォン。それでもナギだけでも助けようと守る。食いしばって耐える。

 一度魔物の爪が剣から離れる。ほっとする暇もなく、第二撃がふり下ろされる。すると、腕の中にいたナギがフォンの下から抜け出し、フォンの前に進み出た。両手を広げて、小さな身体でフォンを庇おうとする。

「ナギ!」

 フォンとイザの声が重なる。

 誰もが想像する。血まみれになったナギの姿を。が、鈍い音はいつまで経っても起きなかった。

「あ……」

 不思議なことに、魔物の爪はナギの手前で止められていた。じっと、赤く染まっている瞳でナギを見つめる。ナギも目を逸らさずに魔物の瞳を見ている。

「ゴメン、助けられなくて、守れなくてゴメンね。俺、あいつとは仲良くなったんだ。けど、あいつを守ってやれなくて、目の前で殺されちまった。ゴメン、俺が謝る。謝るから、もう、こんな悲劇は起こさないでくれよ。俺、お前たちが死んじまうの、見たくねぇよ……」

 涙を流しながらナギが言った。


  オォォォン……――


 魔物が鳴いた。

 そっとナギを抱きしめる。優しく、我が子を抱くように抱きしめる。

 不思議な光景だった。魔物が人の子を抱きしめている。優しく抱きしめ、そして泣いていた。赤から青に変わった瞳に涙を溜めて、その魔物は泣いていた。

『人も魔物も同じ自然から生まれた者同士。どちらも必要な存在なのだ……』

 響く言葉。

(ああ、わかったよ、あんたの言っていた意味。ようやくわかったよ)

 ナギと魔物の姿を見て、フォンはようやく理解した。


  オオォォォォォォォォォン……――


 大きく泣いて、多勢の魔物は引き返して行った。放り出されたままの仲間を抱きしめて。

「ゴメン、ゴメンゴメン……」

 ナギはいつまでも謝っていた。

 愚かな人の欲が産み出した、あまりにも醜い争いはそうして幕を閉じた。

 そうして雨はさらに激しさを増すのだった。


  ●


「本当にご迷惑をおかけしました」

 深々と頭を下げるイザにフォンは慌てた。

「そんな、迷惑だったなんて思ってません。いい勉強になりました。今回の件で昔、親友が言っていた言葉の意味がようやくわかったんです」

 心から礼を言いたい気分だったが、さすがにそれは躊躇った。もっと違うたと思う気持ちもあった方法で知りたかっから。

「フォン、ゴメンな。あんたの荷物盗ったの、あいつを元気付ける何かが欲しかったんだ。俺、もう盗みなんてしない。あいつの分も頑張る。」

 元気にナギがそう言った。まだ父親との和解は無理のようだったが、ナギは言った。祖父の跡を継ぐ、と。

 ナギの言葉に頷き、フォンは歩き出した。見送ってくれるイザとナギに手をふりながら、フォンは笑顔で歩き出したのだ。

(エル、あんたは凄いな……)

 親友の言葉は真実を示している。それがわかった今回の事件だった。

 雨はまだ降っていたが、いつしかこの雨も止む。降り止まない雨などないのだから。




 まだこの大地に雨は降り続ける……。




【完】

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