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桃花記 転

承に比べると長いですね。



いつも通りお暇でしたらどうぞ。




 男は里の外での無気力な生活が嘘だったかのように熱心に働いた。



 朝早くから畑を耕し、それが終われば余所の畑の手伝いに行き、それも終われば他の手伝いを・・・と、働き続けた。



 とはいえ、無理をしていたわけではない。男は働くのが嬉しかったのだ。働けば働いた分だけ、喜びながらお礼を言ってくれる人がいる。それが堪らなく嬉しかった。



 夕方になり、家に帰れば桃香が笑顔で出迎えてくれる。決して豪華ではないが美味しい食事が用意されていて、それを食べながら桃香と語らう。



 食事中のお喋りというのは褒められたものではないが、今日はこんな嬉しいことがあった、今日はこんなに楽しいことがあった、とどうしても話さずにはいられなかった。



 桃香はそれを聞いて我がことのように嬉しそうに相槌をうってくれた。



 まるで子供のようだ、と男は自身を評した。食事中の礼儀を弁えず、その日あったことを嬉しそうに語る様はまさしく子供の様であった。



 しかし、桃香はそれでいい、と言う。貴方が嬉しいのが嬉しいと。



 食事を終えれば風呂で一日の汗を流し、深く満ち足りた眠りにつく。時折、桃香と愛し合う。



 男はまさに幸せであった。他に何も欲するもののない、完成した幸せの中にいた。



 しかし、完成したものはいずれ崩れゆくのが世の定めであると男が気付くのはそう遠い未来ではなかった。







 男が里で暮らし始めて早数年。



 今日も一日を終え、男は風呂に入っていた。



「お湯加減は如何ですかぁ?」



外から風呂炊きをしてくれている桃香の声がする。桃香は相変わらず綺麗で、自分に尽くしてくれる。男はしみじみと幸せを感じた。



「ああ、最高だ!極楽だよ。ありがとう。」



男は労いの気持ちを込めて外へ向けて答えた。そのままざぶざぶと顔を洗い、ほぅと一つ息をついた。



 ふと、湯に浮かぶ白髪に気づいた。



「私も老けたのだな。」



そう思い、里での生活を思い出す。



 里にたどり着いたときは随分と慌てたものだ。なんせこのような幸せが待っているとは微塵も思わなかったのだから。



 いつかまた来るであろう「私達みたいな者」の為に新しい家を建てたりもした。建築など、全く以って己の専門外だったが、里の若い衆と協力して建てた家はなかなかの出来であったと自負している。



 隣の家の夫婦は子を授かったと聞いた。妊娠したという話を聞かなかったので驚いたのは記憶に新しい。それにしてもうちにはまだ子供がいない。私も老けてきたようだし、まだ若くいられる今のうちに桃香との夜の回数を増やすべきか。



 下世話なことを考えていたせいか、口から下品な笑い声が微かに漏れた。他の女ではなく桃香のことを考えた結果なので許してくれ、などと心の中で言い訳をした男は、ふと思った。



「そういえば、この里にはこれだけ桃の香がしているのに桃の樹を見たことがない。」



 男は様々な手伝いをし、里の中を十分見て回ったはずだ。それでも尚、桃の樹を見つけられぬとは如何なることか。



 不思議に思いはしたものの、男はそれ以上に深く考えずに風呂を出た。






 夜。



 褥に入った男は桃香に抱き着いた。桃香もそれに応え、男を抱き返す。すると、何故今まで気づかなかったのか、桃香からほんのりと桃の香がすることに気づいた。



「良い、香だな。」



「はい。貴方に愛してもらうのに、私が臭かったら興ざめでしょう?」



 桃香はふわりと微笑んだ。男は堪らない気持ちになり、より強く桃香を抱きしめた。



 桃香も男の肩に頭を預け、男に応えようとした。その時、桃香は男の白髪に気づいた。



「え・・・?白、髪・・・?」



 男は



「ああ、私も老けたものだ。」



そう返そうとした。しかし、口を開こうとした瞬間、桃香が男の手を振りほどき、離れたことへの驚きで口から声は出てこなかった。



「出ていってください。」



 桃香の口から漏れた言葉は残酷だった。



「いきなりどうしたのだ!私に何か落ち度があったなら言ってくれ!」



 男は必死に桃香に問い掛けようとするが、その時、桃香の異変に気づいた。



 いつもは桃を思わせる薄紅色の頬が、今は真っ青になっていた。そして、その顔はまさしく、恐怖を感じた者の顔であった。



 そのただならぬ雰囲気に、男は(かえ)って冷静になった。



「せめて、理由を聞かせてはくれまいか。」



 男の、真摯で冷静な様に感化され、桃香は少し冷静になった。他言しないことを条件に、訥訥(とつとつ)と語り出した話は(にわか)には信じがたい話であった。





「貴方はこの里で桃の樹を見たことがないのですね?」



「ああ、その通りだ。」



「この里の者達は、名付けるなら桃人(とうじん)と言う種族です。皆あの桃の樹から生まれ出るのです。」


「は?どういうことだ?」



「この里には一本だけ川がありますね。その川を下っていけば貴方たち人間の住む世界に通じています。きっと貴方もそこから偶然入り込んだのでしょう。」



 桃香は一つ息をつく。



「そして、その途中に桃の樹が一本生えています。その樹になる桃の実の中から私達は生まれるのです。」



「なんと、そのようなことが・・・。」



「私達は貴方たち人間とは違い、植物に近いのです。殊更(ことさら)、桃に近い。そして、私達は人間と違い、(けがれ)を持たない。」



「人間が、私が(よご)れていると言うのか?汚いから共に居たくない、と?」



「いいえ、穢と(よご)れとは違います。穢とは様々な良くないものの総称です。そして人間や貴方たちの世界に住む全ての生き物は最大の穢を内包しています。最大の穢、それは老化、更に言えば死です。


私たち桃人は穢を持ちません。故に死ぬことも老けることもありません。桃人は青年の姿で生まれたり、老人の姿で生まれたり、赤子の姿で生まれたりします。その姿のままで生きていくのです。しかし、穢を持つ人間である貴方がいれば、穢が移り、老けていき、最終的には死ぬ者も現れるでしょう。手遅れになる前にどうかこの里から出ていってください。」



 男は何も言えなくなった。己のせいで死ぬ者が現れると言われればとてものうのうとこの里で生きてなど居られない。



「・・・わかった。だが、せめて最後にこれを受け取ってくれまいか。私に囁いてくれた愛が真であったのならば。」



 男が差し出したのは小さな指輪だった。工房を借りて、漁師であったころの釣り針を鍛え直して出来た、飾りもなく、不格好な指輪。今までの己を全て桃香に捧げるという気持ちで作った指輪だった。



 桃香は男と距離を取ったまま、受け取ってはくれなかった。ただ、



「貴方と私は違う存在なのです・・・」



と顔を伏せて言うのみであった。男は



「・・・そうか。世話になったな。この数年はとても幸せだった。」



と淋しそうに笑い、指輪を放り投げ、家を出た。



 川沿いを下流に向かってひた走った。この数年は夢だったのだ、ただ夢から覚めるだけたのだと己に言い聞かせながら。



 すると、視界の端にぼんやりと光るものが見える。目を向けると、天にも届かんとする、極めて大きな桃の樹が川の向こうにそびえていた。その樹には一抱えもあるような大きな桃の実が幾つもなっていた。



 その実のうちの一つがほたりと落ちた。その大きな見た目にそぐわぬ軽い音を立てた実は、落ちた衝撃によるものか、ぱっくりと二つに割れた。その中から裸の青年が一人出てきた。青年はこちらには目もくれずに川を上っていった。



 嘘であってほしかった。また里での幸せな暮らしに戻りたかった。しかし、こうして桃香の話を裏付けるものを見てしまえば、もはや信じる他ない。



 思えば違和感はあった。名を持たぬ桃香。子が生まれたとは言わず、授かったと言う隣の夫婦。いつ死んでもおかしくない歳に見えるのに、若い衆と変わらぬ動きで農作業に勤しむ老爺。



 皆、老けた様子など微塵もなかった。ただ、己だけが正常であり、異常だったのだ。



 男は力無く、ただただ歩いていった。

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