桃花記 起
今回はちょっと長いです。
元ネタを全部当てられたらすごい。
ちなみに元ネタはメイン2つ、サブ1つで、合計3つです。
明日の8時に続きを投稿しますので、お暇でしたらどうぞ。
「ここは・・・?」
男は見知らぬ土地で目を覚ました。
自分はとある川を漁場にしていた漁師であり、いつものように舟を出して漁をしていたはずだ。それなのに気がつけば見知らぬ土地で倒れていた。
自分の記憶にはないが、いつの間にやら海までながされ、難破し、どこぞの浜に漂着したというのならわかる。
しかし、ここは浜ではない。寧ろ山奥である。とはいえ、周囲は拓けており、山里のすぐ近くの畦道に自分は倒れていたのだと男は気づいた。小川が一本、里の方までのびている。
ともあれ、戸数は多からずとも人里が近くに見えるのはありがたい。一先ずは里に行き、話を聞くべきだろうと、男は身体を起こした。
歩くことしばし。里に足を踏み入れた瞬間、甘い匂いが男の鼻を擽った。
「桃・・・か?」
男は貧しい漁師に過ぎず、桃などという高級品は本来ならその存在すら知らずに一生を終えるはずだった。しかし、類い稀な運命の巡り会わせで、男は一度だけその果実を口にしたことがあった。
芳醇な甘い匂い。
赤子の頬のような色。
瑞々しい果肉。
溢れ出る果汁。
その全てが男の人生の中で最良のものであり、男の人生はこの瞬間の為にあったのだとすら思える程。
あまりの至福に、あれは夢だったのではと時折思う。己の想像が作り出したものではなかったか、と。
しかし、里の中から漂うこの匂いは間違いなく男の人生の最良の時間を思い出させる。
逸る気持ちを抑えつつ、男は一番近くの家を目指して歩いた。
「御免、誰かいらっしゃるか!」
戸口にたち、咳ばらいをし、声を上げる。
「はぁい!ただ今!」
元気の良い声がし、トタトタと板の間を走る音が次第に大きくなってくる。そしてその音が止むとほぼ同時に戸が開かれ、女が顔を出した。女は男の顔を見るや、不思議そうな顔をし、
「どちらさまですか?」
と誰何をする。
まあ、いきなり見知らぬ男が訪ねてくれば仕方あるまい、と特に気にも留めずに言った。
「気付けばここにいたのだ。すまないが教えてくれ。ここはどこなのだ。」
すると女は明るい顔になり、
「貴方もですか!実は私もなんです!」
と訳のわからぬことを言う。
「貴方も、とはどういう意味だ?」
故にこのような疑問が男の口をついて出たのは至極当然である。困惑気味に尋ねた男に対し、女は己の性急さを恥じ、頬をかきながら応えた。
「すみません、唐突なことを言って。私もついこの間、気付けばこの里にいたんです。この里の人はみんなそうらしいですよ。」
男はこれを聞いて絶望した。つまりこれは神隠しということではないか。
神隠しから帰ってきたなどという話は聞いたことがない。元の場所には戻れぬのだと男は考えた。
ならば、この里で生きていくしかないのだろう。だが、日が暮れてきたので一先ずは今夜を明かす場所が必要だ。
「すまぬ、いつか何かしらの形で必ず恩は返す。故にどうか一晩の宿を恵んではくれんか」
恥を忍んで男は言った。「いつか何かしらの形で恩を返す」なんて具体性をあまりに欠いている。信用できるはずがない。そのうえ、若い女が一人で暮らしている家に男を泊めろなど受け入れられるはずもない。
しかし、今の男にはこの女以外の一切の宛がないのだ。
深々と頭を下げる。男に示せる最大の誠意だった。
すると女は、
「いいですよ。もともとこの家は宛のない人の為の家ですし」
と言う。地獄に仏、とばかりに男は
「かたじけない・・・かたじけない・・・」
と、その頭を当分上げることが出来なかった。