残酷な報告
日暮れと共に人間の姿に戻る理久は、夕方になると自室に戻る。服を着たままで変身できればいいのだが、そうはいかないらしい。着替えを済ませて居間に戻ると――――アーロンが土下座をしていた。フードからやわらかな亜麻色がこぼれ落ちて、コーヒー色の木の床との不思議なコントラストが印象的だ。理久はなんとなくそんな場違いな感慨を抱いた。
「で、いきなり何事だ学者馬鹿」
「本当に申し訳ない――――ユーリ殿、リック殿。陛下はあなたを『存在しないものとする』と宣言なさいました」
虚ろな響きの言葉。その意味をはかりかねて、由梨と理久は顔を見合わせた。
「えっと……それって何かまずいんですか?」
「狭量なジジイひとりにシカトされたところで何があるんだ?」
心配そうな由梨の言葉と突き放すような理久の言葉はどこまでも対照的だ。由梨がグラタンを取り分けるのを見つつ、アーロンは言葉を選ぶように黙り込んだ。食器が触れ合おう音が響き、しばらくすると『師匠』が口を開いた。
「つまり、あの若造はこう言いたいのじゃろ。おぬしたちはこの世界に来て『いない』とな。この国には建前じゃが異世界人に対する保障があることになっておる。それを請求することはできなくなった。――――そうじゃな、馬鹿弟子?」
「……そう、です。陛下は確かにそうおっしゃいました。」
「やっぱり、わからないんだけど……。」
説明してくれと言いたげな由梨の隣で、理久は仏頂面でグラタンを口に運び咀嚼する。その目には一切の感情がない。水でグラタンを流し込み、低くうなった。
「一つ聞く。その請求できる権利の中に『元の世界に帰せと主張する権利』が……あるんだな?」
問いかけの形をとってはいるが、明らかに断定であり確認だ。強く握りこんだゴブレットが不快な音を立てた。アーロンは口を開かなかったが、それが何よりの答えだと誰もがわかった。机を一度乱暴に叩き、理久は席を立った。
「ごちそうさま。――――師匠、今日は満月でしたよね。月の欠片を取ってきます。夜明けには、戻ります」
理久は足早に居間を出た。ややあって、草を踏み分ける音が聞こえてきた。
「あ……理久! ……ごめんなさいじいさま、アーロンさん。あたし……」
「おう、行ってこい。ついでじゃ、満月のしずくも補充しておいとくれ。それと夜食を持っていってやれ。馬鹿弟子、おぬしはワシの酒の相手じゃ」
『月の欠片』とは、満月の夜に湖などで発生する結晶だ。薬の材料にもなるし、アクセサリの材料としても取引される素材だ。水の中で生まれて水底へと沈み、夜明けと共に水に溶けてしまう。そのため、満月の夜に湖に潜って採るしかない。大概の運動が苦手な理久だが、唯一水泳だけは人並みにできた。
(頭を冷やすにはちょうどいいか……)
息継ぎのために一度水から顔を出し、理久はそんなことを思う。黒髪を頬に貼り付かせた自分の姿が水面に映る。まるで湖に巣食う魔物のようだ。黒い髪に黒い瞳。闇に直結する色を持つ生物は魔術師や錬金術士の使い魔か……魔物のどちらかだ。そのため、理久は昼間は由梨の使い魔ということにしている。大地の髪と瞳を持つ由梨はこの世界になじむことも不可能ではない。だが理久は『異世界人の理久』ではなく『使い魔リック』でなければいけない。黒髪黒眼の人間は粛清されるべき存在なのだ。
再び潜ろうとしたそのとき、草を踏み分ける音がした。湖のそばまで歩いてきた由梨は、水から出る気配の無い理久に声をかける。
「理久、夜食持ってきたよ」
「そのへんに置いてけ。今夜は欠片が大量発生だから、採れるだけ採りたい。で、戻っとけ」
「ん。でもあたしも採取だから。じいさまから頼まれたの」
「わかった。とりあえず今取れた分だけ置いとく」
水辺に『月の欠片』をまとめて置くと、小さな音を立てて理久の姿が消えた。
いつも攻撃的な言動だが、理久は不機嫌になったり怒ったりすることはめったにない。大概のことは諦めるか妥協する。だが本当に怒りを感じたときは――――こうして一人になりたがる。だから由梨はこれ以上言いつのることもなく採取を始めた。
しばらくして、理久が湖からあがった。小休止らしい。由梨が持ってきたサンドイッチを一口かじる。口の中のパンを咀嚼し、飲み込む。
「……米が食べたい」
「へ?」
夜露をガラス瓶に移していた由梨の手が止まる。今、この相棒はなんと言った?
「だから白米。あと味噌汁、たくあん、塩鮭! ああもう、なんでこの国は西洋文化なんだよ!」
「ちょ、理久? いきなり何を……」
「由梨は思わないのか? 味噌と醤油がない世界なんて、ここに墜ちてくるまで想像すらしてなかったんだってのに」
「思うけどさあ!」
「あー、思い出したら腹が立ってきた! あんの成金趣味ハゲ親父! ……もうひと泳ぎしてくる!」
大きく水しぶきを立てて、再び理久は水の中へと消えた。
「えーと……まあいっか。立ち直ったみたいだし」
理久が本当に腹を立てているのは食事のことではない。郷愁のようなものはあるだろうが。憎まれ口は挨拶のようなものだ。つまり――――それなりに落としどころは見つけたのだろう、たぶん。
そう結論付けて安心したはずだが、後日、理久が『師匠』に頼んで粉屋から小麦のふすまを大量に持ち帰ったと聞いた。
「ちょっ、たくあんのこと本気だったの?」
「あたりまえだろ。あ、師匠! 唐辛子すこしいただきます」
「おう、好きにせい。うまく出来たらワシにも食わせろ」
理久があの日怒ったのは、故郷に残した家族のことや自分の存在についてのはずだ。断じて食のためではない。……そのはずなのだが。
『心配して損した』と、かなり本気で思ったのは仕方の無いことだろう。
ふすまを使ってぬか床っぽいものを作るのは本当にできるらしいです。